テストの点数が私の存在価値だった 患者家族、作家、薬剤師〜3つの立場から見た依存症〜(4)
家庭に居場所がない私。人に心を開けず、転校をきっかけに学校へ行けなくなってしまう。父は私を責めたが、私が塾へ通い始め成績が上がると父の態度は変わった。父の機嫌をとるため、そして自分の価値を証明するために、私は勉強へ心血を注いだ。

公開日:2025/12/24 02:00
転校をきっかけに不登校へ
私が小学6年生になって間もなく、父が戸建てを購入した。引っ越しに伴い、私は転校することになった。
転校前はクラスに友達がいた。本の世界だけでなく、教室にも居場所があった。
しかし転校先で、私が新しく居場所をつくるのは難しかった。転校先のクラスにはすでに友達グループができており、私はその中に入れなかった。
最初は気を遣って話しかけてくれた子もいたが、友達というほど打ち解けられない。
学校へ行ってから帰るまで、人とほとんど会話をせずに一日が終わる。
「自分は居ても居なくても同じような存在だ」と感じて、いたたまれなかった。
次第に朝、学校へ行く道への足取りが重くなってきた。教室に近づくと動悸が激しくなり、胃がキリキリと痛くなる。
「もう学校には行けない」
我慢を重ねて限界を迎えたころ、やっと母に打ち明けた。
最初、母は「何言ってるの、行きなさい」と突き放した。しかし私のベッドにしがみつく姿を見て、ただごとではないと判断したようだ。
その後も学校は休みがちで、6年生の後半はほとんど保健室登校だった。
父は、私が学校へ行けないことが気に入らなかった。私が学校をサボっているように見えたようだ。
自分が家族のために必死で仕事や家事をこなしているのに、子どもが怠けていると思ったら腹が立ったのだろう。
酔った父は、私に学校へ行けない理由を問い詰めては非難した。
私が何を答えても、父の反応は同じだった。
「お前の努力が足りないんじゃねえのか」
父にそう言われると、私は何も言えない。黙って父の前に座り、うつむくしかなかった。
私は自分を責めた。父が言う通り、「もっとがんばらなければ」と思った。
それでも学校に行けない日は続いた。
人を信じられない
私は当時、学校へ行けない理由が自分でもわからなかった。
転校による環境の変化が直接のきっかけではあったが、それだけではない。後から転校してきて問題なくクラスになじめる子もいた。
おそらく原因は私自身にもあった。
アルコール依存の父、共依存の母のもとで幼少期を過ごすうちに、人を信じられなくなっていたのだ。
幼い子どもにとって、家庭は自分の全世界だ。そして家庭は私にとって、安全な場所ではなかった。
アルコール依存の父は、いつ暴言を吐いてくるかわからない。母は父から子どもを守ってくれない。家にいる間、いつも親の顔色が気になった。
いつの間にか、家庭から外の世界に出ても不安に駆られるようになった。世界のどこにも居場所がないような気がした。
転校先の学校でも友達をつくりたかったが、声をかけるのが怖い。
友達になりたくて話しかけた子が、もし私を疎ましく思っていたら?
担任の先生が、母のように助けてくれなかったら?
人を信じて、裏切られたくなかった。
「誰も信じられない」という不安が、人を遠ざけてしまった。
成績さえよければ救われる
勉強の遅れを心配した母が、私を近所の塾へ連れて行った。
入塾テストの結果を見て、塾の先生が言ってくれた。
「単元によってムラはありますが、成績は悪くないですよ。
今の時期に文章題も解けているのはすごいね」
家庭と学校で心がボロボロになった私にとって、先生の「すごいね」は救いだった。
こんな自分を、認めてくれる人がいた!
もっと褒められたくて、机に向かうようになった。塾の授業がない日も自習室に通った。
学校では教室で授業を受けられなくても、保健室で勉強するようになった。
相変わらず父は酔うと暴言を吐いたが、私の成績が上がると態度が変わってきた。
機嫌が良くなり、私を励ますような発言が増えたのだ。
父には学歴コンプレックスがあった。
父自身は地元の私立大学出身だ。実家や職場で、自分の学歴を悪く言われたことがあったようだ。
昔から父は子どもの学歴を通して、世間にリベンジをしたがった。
「勉強してクラスの奴らを見返してやれ」
「医学部に行ってお父さんに自慢させてくれ」
父にとって「不登校の娘」は恥だったが、「成績のいい娘」は自慢になる。
いい成績をとって父を喜ばせれば、父の酒を止められる。父も私を認めて、暴言を吐かなくなるかもしれない。
そう思った私は、6年生の後半から本格的に勉強を始めた。自分の将来を考えたわけではなく、父の機嫌をとるためだった。
「これならS高校にも行けるんじゃないか?」
塾で受けた模試の結果を見ながら、父はそう呟いた。S高校とは、県内のトップ校のことだった。
私の地元には私立の中学校がほとんどない。よって偏差値の高い大学へ進学するには、高校受験で進学校を狙うのが一般的だった。
私は父の言う通りにS高校を目指すことにした。
公立高校の受験には、内申点も重要になる。内申点には、テストの点数だけでなく授業中の態度や提出物も加味される。
学校には相変わらず居場所がなかったが、教室で授業を受けなければ内申点が下がってしまう。中学校に入学してからはやむを得ず教室に通い始めた。
朝は新聞配達のバイクが通る音で目覚め、朝食まで勉強する。
放課後は部活動が終わってから自習室へ通い、夜9時まで塾にいた。
不登校からの復学と、勉強への没頭。傍から見れば、私は挫折から立ち直った子どもに見えたかもしれない。
しかし、実際には焦燥感に追い立てられているだけだった。
父に認めてもらいたかったら、成績や学歴で結果を出すしかない。
結果さえ出せば、父は認めてくれる。きっと暴言もやめてくれる。父の機嫌が直れば、母も私を見てくれる。
このころから、私は認めてもらうための努力にすがるようになった。
ありのままの自分を認められない
中学生になってから、太宰治の『人間失格』を読んだ。
「恥の多い生涯を送って来ました。」の一文を目にして、自分のことが書かれているような気になった。
自分を偽り、嘘を重ねて、人間のふりをする主人公。
ページをめくりながら、私は自分の顔が紅潮するのを感じた。
自分の心を読まれたような恥ずかしさと、「かつて自分と同じような人間が生きていた」という興奮があった。
無理だとわかっていても、太宰治に一度会ってみたかった。『人間失格』以外の作品も読み漁った。
太宰治を心の友にしながら、机にかじりつく日々が続いた。
「ありのままの自分には価値がない」
「取り繕い、必死の努力を重ねて、ようやく認められる」
このころからずっと、そんな思い込みを抱えていた。
テストの点数だけが、私の存在価値を証明してくれる。
結果を出さなければ、自分には価値がない――。
この価値観には、大人になってからも長らく苦しめられることになる。
誰かの評価に合わせるための努力は、心をすり減らしてしまう。
人に評価されるためではなく、自分の夢や目標に向けて努力すればよかった。
ずっと自分がより自分らしくなるために、生きてみたかった。
不登校になってから20年弱。30歳を目前にして、やっと自分の目標が見つかった。
人に文章を届ける仕事をすることだ。
皮肉なことに、人に評価されるために続けていた勉強が、今こうして文章を書くために役立っている。
不登校だった日々は、「あのころ苦労したから今がある」と美談にするには辛すぎた。
それでもあの日々で得たものは否定せずに、今を生きていく。
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