父と酒、家族の記憶(前編)——「暴れん坊将軍」と呼ばれた父の背中
エッセイストの石田月美さんは幼少期、問題飲酒をしていた父と過ごした。暴力は日常的だった。近所では「暴れん坊将軍」というあだ名をつけられるほほど有名だった。中高時代はなるべく家に帰らないようにしていた。高校中退後は、姉の住む大阪へ向かう。

公開日:2025/09/16 02:30
「小さいころは、父がお酒を飲むのは当たり前のことだと思っていました」
そう語るのはエッセイストの石田月美さん(42)だ。父親がお酒を多量に飲むという「当たり前」の光景だった。それは多くの家庭にとっては異常な風景だった。幼少期、月美さんは両親とともにフランスで暮らした。父はドーバー海峡のトンネルの中でフランス語の通訳をし、過酷な現場で仕事をしていた。その反面、家庭では厳格な一面を見せた。

「お箸が持てないと、朝まで指導されました」。
小学校に入学する頃になると、母と子どもたちは日本に居を移し、父親だけが海外に残った。単身赴任で、父親がたまに帰国すると、トランクいっぱいのお土産を抱えて帰ってきた。
「父のことは好きでしたが、とにかく怖かったです。たまにしか会えなかった分、一緒にいられるのは嬉しくて、私は“パパっ子”でした」。
父親との思い出には酒がついて回った。
「テレビのチャンネル権は父が持っていました。その中でも(クイズ番組)『平成教育委員会』が始まると、(裏面が白く、文字が書ける)新聞のチラシを配りました。きょうだいでクイズの回答を書きました。正解すると父に褒められました。その姿を見ながら父はお酒を飲んでいました。母はつまみを出していました」
また、海の思い出もある。夏になると伊豆七島へ行った。
「芝浦から船に乗るんですが、父は島に着くまでお酒を飲んでいました。他の家族はおかしを食べて、ポーカーをしていました。島に着いても父はお酒を飲んでいました。民宿に泊まったのですが、おにぎりと冷えたビールを持って、近くの場所に陣取りをしました。父は泳ぎを教えてくれました。父が私の頭を持って海水に沈め、潜らされるという厳しい練習でした。そのおかげもあり、泳げるようになりました」
漫画と文学と酒――酒と暴力の日常
父親は文学好きで、小学生の月美さんに明治文学を勧めた。自らも高卒で一度就職した後、留学費用をためてフランス語学校に通った経験を誇らしげに語った。そのことを月美さんは覚えている。酒に酔うと、過去の体験を饒舌に語るのが常だった。
「帰ってくると、父と一緒に部屋に入り、フランスの音楽を聴いたり、『美味しんぼ』や『ゴルゴ13』の単行本を読むのが楽しみでした。ルビがないので、『これはなんて読むかわかるか?』とよく聞かれました。父は作品について語ることはなかったのですが、問いに対して答えなら会話が成立しました」

父親の姿には常に酒が付きまとった。缶ビールを何本も空け、焼酎や泡盛を紙パックやペットボトルから注ぎ続ける。夕食はほとんど取らず、酒だけを流し込むのが日常だった。
「お酒の匂いの記憶はあまりありません。でも、必ず父の手には酒がありました。飲まないと口を開かない。暴れ出すこともありました。ちゃぶ台をひっくり返すこともありました。まるで『巨人の星』の(主人公・飛雄馬の父)星一徹みたいでした」。
壊れるのは決まってテレビだった。液晶が割れ、部屋中にガラスの破片が散らばる。母は新聞紙を手に黙々と片付けた。コップが割れる程度なら「壊れたうちに入らない」と家族は思うほどだった。
「新聞紙を濡らして掃除をすると、ガラスの破片は綺麗に取れました。子どもたちが怪我をしないようにしていたんです。母は慣れた調子で片付けていました」
父親はひと暴れをすると、寝室へ消えていった。
「暴れん坊将軍」と呼ばれた父
中学時代は反発した。この頃、月美さんは団地暮らしだった。その周辺は暴走族のたまり場になっていた。そこで父親は、若者たちと殴り合いを始めることもあった。
「暴走族が集まってくると、酔っ払った父は『うるさいから出ていけ!』と言って、族たちと殴り合いをしているんです。その相手が私の先輩だったりしました。『お前の父ちゃん、おかしいぞ』などと言われました。

父はすごくお酒を飲む人だし、暴れます。だから、『あそこの家のお父さんはやばい』って、近所では有名な『暴君の父』と言われていました。ついたあだ名は“暴れん坊将軍”。まさにそんな人でした」。
父の暴力は暴走族相手だけではない。家庭にも及んだ。月美さんも殴られたし、蹴られることが度々あった。とっくみあいの喧嘩になることもあったが、身長183センチの父には到底かなわない。
「私も怪我をして学校に行ったりしていました。父さえいなければ、もっと自由に生きられると思っていました。もちろん、喧嘩のときも父は酔っていました」。
弟も暴力の対象だった。あるとき、家に戻ると壁には無数の穴があき、弟の顔はあざだらけになっていた。だが二人とも何があったのか口を閉ざした。しかし、暴力が母に向かうことはなかった。父にとって母は「特別な存在」であり、守るべき相手だった。だが、子どもたちにとっては怒声と物が壊れる音が家を支配していた。
「周りからも“警察に捕まるより、お父さんにバレるほうが怖いもんね”と言われるくらいでした。好きだけど怖い。憎しみと愛情が、いつも入り混じっていたんです」
反抗と逃避の果てに
やがて父への反発は一層強くなった。
「父がいなければ、もっと自分らしく生きられると思っていました」。
しかし現実には、父の存在は圧倒的だった。家出を繰り返しても逃れることはできない。そのためか、月美さんは中学では荒れ、高校では家に寄りつかず、街で遊び続けた。
「中学時代はそれでも家には帰りました。でも、帰りたくなかったんです。高校生になると、アパートの踊り場で寝たり、路上で過ごしたり。渋谷の夜は危険なことが多くて、いろんな情報も耳に入りました」。
父親との関係は、高校に進学しても変わらなかった。渋谷で遊び回り、停学を繰り返した末に退学となった。父親からも家からも距離を置き、学校からも離れていく。その頃、社会ではギャル文化や援助交際がブームだった。
「ガングロで年上に見られていたので、援助交際には向きませんでした。そういう子たちを羨ましく思ったこともあったけど、エンコーをしている子がラブホテルから髪を濡らしたまま出てきたりしたのを見て、同時に抵抗感もありました」。
やがて月美さんは、父のいる家から離れ、姉の暮らす大阪へ向かうことになる。
(つづく)