Addiction Report (アディクションレポート)

編集者との近すぎる関係、賞へのプレッシャー……作家を病ませる文学の世界 

作家の赤坂真理さんがアディクションについて考察した『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』。

この本を読んで救われた作家で活動家の雨宮処凛さんとの対談第4弾は、作家という仕事の依存関係について語り合います。

編集者との近すぎる関係、賞へのプレッシャー……作家を病ませる文学の世界 
文学の世界のつらさについて語る赤坂真理さん(右)と雨宮処凛さん(左)(撮影・後藤勝)

公開日:2024/10/02 08:10

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作家の赤坂真理さんがアディクションについて考察した『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)。

この本を読んで救われたという作家で活動家の雨宮処凛さんとの対談の詳報第4弾は、作家という仕事のつらさについて語り合います。

小説に本気で取り組んだら死ぬ

雨宮 赤坂さん、文学の世界にずっといると病みません?

赤坂 ああ、そこか。むずかしいとこ来た。それはわたしがこの7、8年考え続けてきたことと関係するので、大事な質問をしてもらいました。そしてアディクションもそこに関係する。大事に考えます。うーん、どう答えたらいいかな。イエスでありノーです。

雨宮 すごく大変な仕事だと思います。私には師匠的な人がいて、見沢知廉というのですが、1998年には三島賞候補にもなった作家です。2005年にマンションからの飛び降り自殺で亡くなりました。

元々左翼で右翼に転向し、そこで「スパイ粛清」という殺人事件を起こして服役、刑務所の中にいる時に書いた小説が新日本文学賞の佳作となり、出所後は作家として活躍しました。ですが、純文学にこだわるあまり、どんどん追い詰められていきました。完璧な小説を書くため、編集者に何十回、何百回と書き直しを命じられていたのですが、その過程でどんどん精神的におかしくなっていったんです。同時に彼はリタリン(※)依存でもありました。

※ナルコレプシーの治療薬。精神刺激薬。

最終的にリタリンはやめていたらしいのですが、赤坂さんの本を読んで、見沢さんの見方がガラッと変わりました。「回復に殺された」のかもしれないと。

正確に言えば、回復は全然していなかったんです。リタリンを止めようともしていたのですがその過程で自分の小指を2本切り落とす自傷行為をして、入院もした。刑務所に12年いたので、拘禁反応(※)もありました。

※刑務所などで長年過ごした人が見せる精神症状。

それに加えて、急にシャバに出てきて作家として環境が激変した。また、殺人犯の汚名をそそぐために、なんとか文学賞が欲しいという気持ちに固執して、それでリタリンを飲みながら小説を書くうちにどんどんおかしくなっていった。そうしてリタリン依存を断ち切ろうとした結果、飛び降りて死んだのです。

見沢さんが「狂って」、そして亡くなる過程を見ていた私は「小説に本気で取り組んだら死ぬ」という現実を突きつけられました。見沢さんが亡くなったのは私が物書きになって5年目でした。私は2000年にデビューして小説を何冊か出しているのですが、2006年に出した『バンギャル ア ゴーゴー』を最後に小説は出版していません。それは見沢さんの死を見たことが大きいです。本気で小説に取り組んだら死ぬ可能性がある、と。

そのこともあって、私はその後、社会問題に関わる方向に進みました。社会問題を取材して書くことは、小説とは違って自分の実存とはまったく関係ない。政治の問題、社会の問題に関わったことで精神的に健康になりました。

赤坂 見沢知廉さんって、そういう亡くなり方をしたのですね。自殺なことも、ましてそこにリタリンが関わっていたことも、知りませんでした。痛みを感じました。リタリンって、「合法覚醒剤」とも呼ばれる処方薬ですね。

アディクションって、その症状を止めればいいと思われがちなんですが、止めた時に、ご本人が自殺してしまうことがある。元の痛みが大きいんだと思います。見沢さんは関心領域に近いところもあって、気になる方だったんです。お師匠がそんなふうに亡くなったのはショックなことでしたね。大切なことをお話しくださってありがとうございます。

見沢さんや、処凛ちゃんや、私だけの問題でもなくて、すべての人に役にたつことが、その問いの中にあります。小説に取り組むと病むというのは、イエスでありノーとも言えます。それは、文芸の中での小説の特質と、小説を取り巻く社会の要因があります。

まず、小説、特に純文学は、自分の中の一番核にある柔らかいところを出すようなものだということ。そしてそれをいきなり不特定多数に向けることは、誰にでも危ないんです。いきなり注目を浴びることは、ただでさえ誰でも精神の均衡を崩すことがあります。それが自分の核に関わるなら、なおのことです。

私もそこに気づかずにやって、疲弊したり嫌になったりしたことがあります。メンタルなケア込みでやるべきことじゃないかと思います。ある種の人は特に。表現って、いきなり大人数を相手どるのはむずかしいです。見沢さんもいきなり脚光を浴びた方ですから、そういうことが考えられなかったんだと思います。

恋愛じみた編集者と作家の関係

雨宮 ですよね。逃げ場がない。編集者との付き合いも。

赤坂 一対一のことが多いですから、密室化することはありますね。組織みたいに、比べる対象が周りにない。

雨宮 密着度が違いますよね。ノンフィクション分野は編集者との付き合いがドライでそこも楽です。文学はすごく特殊な感じがします。

赤坂 0から1を生み出すものの特性なのかな。編集者が共同制作者っぽくなります。編集者との出会いや相性でかなり違う世界です。そこが恋愛にたとえられるところかもしれない。

雨宮 小説だと作家と編集者って依存関係じゃないですか。共依存的な。あれはやばい。変に恋愛的だし性的だし。

赤坂 共依存関係と言ったらそうなのかもしれないけど、ある人とはアイデアや力がどんどん湧いてきて、別の人とは出ない。そういうことあるでしょう? それは不思議だけど事実。愛と同じ。ある人とは起き、別の人とは起きない。猫には愛が起き、犬には起きない、同じ猫でも、この子にだけ起こる。そうじゃない? 

あと、惹かれ合うって、最初は往々にして傷が惹かれ合うんじゃないかって思う。

これは一般的な恋愛でもそう。マリー・アントワネットとフェルゼンだってそう。寂しさが似てたとか、まずは傷が惹かれ合う。これ悪いことではない。誰でも傷を癒したいと思ってる。相手がその鍵を持ってるんじゃないかと思う。本当は相手でどうにかなることじゃなくて自分の問題っていうのは処凛ちゃんが言ったとおり。作家は多かれ少なかれ個人や集合的な傷に反応してるところがある。

ファンのことを思うとよくわかるんだけど、ファンってなぜそのアーティストが好きかというと自分の好きなファンタジーを見せてくれたり、自分の代弁をしてくれると感じるから。だから何かを託してる。これ、ありがたくも重くもある。

編集者と作家にもこれと似たものがある感じがする。それに、編集者の業績って作家の業績で決まりますからね。だからコントロールしたくなったりもするんじゃないかと。書いてほしいことがあったり、賞をとって欲しかったり。この関係、要素が複雑で、きっとちょっとこじれやすいですよね。

でも愛がまずく行ったからと言って、愛が悪いとは私は思わないんですよ。傷から始まるのも、悪くない。ただ、そこを超えていかないと。私生活でもそうだし、誰でもそう。私もたしかに恋愛じみて変になったこともあるかもしれないけど、嫉妬や所有欲といった、愛に付随するものに囚われただけ。愛の使い方がわからなかっただけ。その技術がなかったし、ほとんど誰も教えていないと言うだけだと思うんです。

雨宮 なるほど。ただ、私も小説の編集者との関係がすごく近かったので、結婚ぐらいな感じがしていて妙な関係だなと思っていました。

赤坂 そうだったんだ。比喩としては、結婚って、クリエイティブな関係なんですよ。それは比喩であり、実際問題、関係が近い。見沢さんと担当編集者もそうだったのかしら。

雨宮 おそらくそうだったんだと思います。

赤坂 まあ配偶者より担当作家と長くいるんじゃないかっていう編集者もいますが、でも小説の編集者にも、普通の会社員的な編集者もいますよ。会社の仕事だからやってます、っていう感じの。それはそれで物足りなかったりもするんです。度を超した情熱がないとできないところもある気がする。無から有を生むことだから。

自分が苦手なのは、逆にとてもそっけない編集者。話ができない担当さん。それってその編集者の外的な評価や評判とあんまり関係なかったです。むずかしい人って言われても私にはよかったり。編集者にとっての作家もそうじゃないかと思ったりする。

雨宮 そうですね。でもすごく関係が近い割には同じようにたくさんの作家を担当している。よくわからない関係。密着だけど、何股もかけられているみたいな。

赤坂 あははは、それはありますね。。だから「私だけを見て!」となったことがありました。。「私が一番って言ったじゃない!」みたいな。

雨宮 そうそう。だからその関係性自体が作家を病ませる気がするんです。

赤坂 自分の中にもあるアディクション傾向が刺激されてしまうのではないかと思う。アディクション傾向が強い人は、求めてしまうし、関係や感情のあれこれに振り回され、それがきつくなる、疲弊してしまう、ってとこじゃないかな。

雨宮 でも、ノンフィクションを書いていると、編集者との間でそんな関係は全くない。

赤坂 その違いをよく考えたことがなかったけれど、思うに、0から1を生む現場の共同創造っぽさではないかと。同じ物語を生きるような。でもノンフィクションにはそんな関係性少しもないですか? 取材対象とはどうですか?

雨宮 取材対象ともそんな関係はないですね。

赤坂 例えば、A V女優を取材している人とか、トー横キッズを取材している人なんかは取材対象との距離が危うい感じがする。あれは恋愛っぽい。互いに恋愛感情っぽいものを抱いている感じ。庇護本能とか。

雨宮 取材した相手に依存されたりとかも聞きますね。私もずーっと以前、自殺願望がある方などに取材していた時期は、すごく距離が近くなった経験はあります。

殺人犯や受刑者と取材者の共依存

赤坂 あとは殺人犯や、受刑者の担当をしている編集者も距離が近い。恋愛感情を持ったり持たれたりもする。

雨宮 木嶋佳苗死刑囚も新潮社の編集者と結婚してますよね。鳥取連続不審死事件で逮捕された人も、自分のことを書いたジャーナリストに求婚したという話を聞いたことがあります。

赤坂 自分のことをわかってくれて自分のポテンシャルを引き出してくれたと思う人に恋をするのは、自然で、よくあることだと思う。アイドルがプロデューサーと恋愛関係になるとか、女優が映画監督と、とか、引き立ててくれた上司に恋心を抱く、とか、同じ構造はいっぱいある。そこは作家だけではないけど。

「頂き女子」を名乗って男から金を騙し取った渡邊真衣受刑者の「りりちゃんはごくちゅうです」というXのアカウントをよく読んでいるんだけど、ファンがたくさんいますよね。担当者も名乗りを上げてる人いるんじゃないかな。

雨宮 今、本を書いているみたいですね。

赤坂 すごい文章力で、ポエティックな感じがたまらんところがあります。私けっこう文章のファンなんです。

雨宮 頭がいい人なんでしょうね。

赤坂 頭がいいと言えば、ホステスとしてすごく頭がいい人だったらしい。リサーチ力や、タイプ別の攻略法っていうのを事細かに持っていたらしい。営業職の超できる人みたい。文章は、どこまで天然で、どこまで演じているのか。その境が危ういところも、たまらんのかもしれない。私が泣けたのはお母さんに「なんで 今日 きてくれなかったの なにがあったの」と書いてあるポスト。「まま」がひらがななの。

雨宮 お母さんが面会の日に来なかったんですよね。家庭環境が壮絶だったようですね。

赤坂 犯罪者の背景を調べると、多かれ少なかれそういう話はあって、加害者になる前の傷のことを思います。

本気で文学と格闘したら死ぬ?

雨宮 そうですよね。話を元に戻すと、文学の世界の中にいると大変だろうなとつくづく思います。

赤坂 でも今すごく気が楽になった。そこは気になっていたことだったの。

雨宮 この本を読んでそれはすごく感じました。小説を書いていた頃の編集者との付き合いの独特さとか、見沢さんが死んだ時のことをすごく思い出しました。

赤坂 処凛ちゃんも編集者と大変だった?

雨宮 小説の編集者は、大変というか、距離が近過ぎて、それに慣れなかったですね。自分もそんな体験をしたし、見沢さんが亡くなった時は、編集者が追い詰めすぎたのではと言う人もいた。何百回も書き直させるっておかしいじゃないですか。

赤坂 そこは、悪いのだけれど、おかしいかどうかはわからないです。数十回の書き直しなら私にもあるけど。未知数の作家を育てようとしたのか、編集者自身、固着してしまって度を失っていたのか。

けれど私自身よい仕事ができた時って、度を超して熱心な編集者がいた時なんです。私は一人で書けないタイプ。一緒にアイデア出しをしてくれる人がいないとダメです。満足いく仕事ができたあとほど、鬱にはなるんですけど、それもまた自然で、山が高ければ谷は深いんです。そういうことを知らずにいたから、終わってから鬱になるのが、病んでることだと思ってしまった。

雨宮 むちゃくちゃ貴重なお話ですね。今、赤坂さんの小説を読んだ時の圧倒される感じを思い出しました。確かに、見沢さんは書き直しを言われて大変そうだったけど、熱心になってくれる編集者に喜んでもいるようでした。

でも、書き直し以外でも、おかしいことはたくさんあると思うんです。文学の世界の常識は社会の非常識というか。一切の金銭的な保証もなく、何十回も、何ヶ月も書き直しを命じられる世界じゃないですか。下手すれば何ヶ月、何年も。見沢さんはそれに従順すぎるほど従っていました。

もちろん、追い詰められたのには色々な原因はあると思いますが、本気で文学と格闘したら死ぬんだな、しかも狂い死ぬんだなというのは痛感しました。文学は怖い、と思いました。

赤坂 文学の世界が非常識っていうのはわかります。だんだん変わってきてはいるのだけど、口約束の世界であるとかね。契約も保証もないとかね。かたちがないものだし、扱い方が分からなかったのだろうと思う。

ただ、見沢さんが病んだのは、文学のせいなところと、彼自身の問題と、両方あったと思うんです。そして、彼自身の問題を、文学が大きくしてしまった。それはあると思う。でも、たとえば勤めをしても病んだ可能性は大きいと思うんですよ。そこには世間があり、前科者を見る目に取り囲まれるかもしれないし、パワハラなんかもあったかもしれない。

そもそも、就労に関して差別があったろうし、それに傷つきますよね。また見沢さん自身もたぶん勤めはできなかったですよね。毎日会社に行けたとは思わないです。どの仕事にも、その仕事なりの病み方がある。研究者はポスト争いで病んだり、援助職は人に尽くして燃え尽きたり、インフラを作る仕事はあまりに人目に触れないことで病んだり。

見沢さんはできることの中で、ベストが、文学であり、その中でも「小説」一択だったと思う。なぜなら小説にだけ、この国ではステイタスがあるから。これ世界的には異常と思うけど。詩人のステイタスがないなんて、世界的には異常です。

人を殺したことに関しては、そのトラウマの治療が必要だった。でも加害者の治療ってむずかしいんですね。それこそ世間から叩かれます。SNS的世間は黙っちゃいないけど、その傷つきも含めて、ぜひともケアが必要だった。

「贖罪」は本当に文学的なテーマです。それ自体を書けたら、すごかったでしょうね。間違いを犯した人が再生できるかは、万人に必要なテーマです。誰でも間違うのだから。間違いを犯した人がその後どう生きていけるかは、すべての人に必要なテーマで、それを追い求める作家がいたら、ぜひ読みたかった。

それをするのはものすごい覚悟はいるし、地道に一生をかけることだったと思います。しんどいことだし、賞賛があるとも限らないけれど、意味があった。

そこには絶対、伴走するいい編集者もしくはエージェントが必要だったと思います。

編集者にも、人やテーマに感応する、つまりほれ込むようなところが必要だったはずで、この言葉からもわかるように、こういう関係は恋愛的でもあるんです。強い気持ちなので、使い方がむずかしいというところがある。

それで多くの人が愛で痛い目を見たりもするけれど、強いパワーでもあり、原動力でもある。やっぱり、愛にこそ技術が必要で、自分が今瞑想とともにやっていることは、そういうことなんだと、この問いを考える中で、再認識させてもらいました。ここまで行くと文学の話かって言われるかもだけど、私にとっては同じなの。

(続く)

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