震災の後、父が酒を飲まない時期があった 患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~(8)
高校3年生を前にした3月、東日本大震災が起きた。私の実家や家族は無事だったが、父方の家族が被災してしまう。祖母や叔父一家を迎えて、共同生活が始まった。不思議なことに、気付けば父は酒を飲まなくなっていた。

公開日:2026/03/03 02:00
震災の後、父の家族と暮らすことに
高校2年生の終わり、東日本大震災が起きた。当時、私は仙台市内の高校にいた。
体育館で終業式が始まるのを友人と待っていると、かつてないほどの揺れを感じた。
思わず床に伏せて、揺れが収まるのを待った。初めて「ここで死ぬかもしれない」と心の底から恐怖を抱いた。
永遠に続くのではないかと思うくらいの、長い揺れ。悪い夢でも見ているような感覚だった。
揺れが収まってから校庭に出ると、校舎の壁にはヒビが入り、窓ガラスの破片が飛び散っていた。思わず息を吞んだ。明らかに、今までに経験した地震とは規模が違う。
とりあえず生き残れたことにほっとしたが、大きな揺れは断続的に続く。どこかで津波や火事が起きているという情報も耳に入った。
しばらくして学校から各自で帰宅するようにと指示が出た。校舎も壊れかかっていたため、避難所として使うのも難しかったようだ。
普段は電車で1時間ほどの道を、徒歩で帰らなければならない。同じ方面に住むクラスメイトと一緒に、長い帰路についた。
3月なのに、空には雪がちらついていた。灰色の空から降る小さな粒が不気味に思えた。
「とんでもないことが起きてしまった」
漠然とそんなことを考えながら、途方もない道のりを歩く。家に着くころには日も沈み、辺りは真っ暗になっていた。
停電していたので、街は真っ暗だった。満天の星空がはっきりと見えた。
普段だったら、夜空の美しさに感動していたかもしれない。その日は星の光まで恐ろしく感じた。
自然の前では、人の生活などこんなにも脆いのだ――。まぶしいくらいの光が、私たちを嘲笑っているような気がした。
私の実家は山を切り崩した住宅地にあったので、津波の心配はなく大きな被害もなかった。幸い両親や弟とも、無事に再会できた。
ライフラインは止まっていたが、給水所や近所のスーパーを使えば最低限の物資は手に入った。不便ではあったが、飢えや寒さに困ることはない。
問題は父の実家だった。当時、父方の実家と叔父の家が石巻にあった。
石巻は宮城県の中でも、津波の被害が大きい地域だ。後で聞いた話だが、実家の敷地内には津波で流された自動車が突っ込んでいたらしい。
震災から数週間後に連絡がつき、祖母と叔父一家は全員無事だとわかった。彼らは学校や職場近くの避難所で暮らしていた。
祖母は持病を持っており、避難所で生活を続けるのは難しかった。このまま避難生活が続けば、叔父たちも疲弊してしまうだろう。
父は石巻へ車を走らせ、叔父や祖母のいる避難所へ迎えに行った。祖母や叔母、叔父一家、そして叔父の飼っていた犬まで車に乗せて、父は帰ってきた。
叔父たちは次の住まいに目処がつくまで、私たちの家で生活することになった。
意外なことに、この時期だけ父のアルコール依存は落ち着いていた。
父は酒を飲まなくなった
震災後の春に、10人と1頭の暮らしが始まった。
食料の買い出しや給水、犬の世話や掃除。人数が増えれば、おのずと必要な物資も増える。全員で役割分担をして生活していた。
電気が復旧するまでは、日が暮れると何もできなくなる。行動できる時間が限られているため、学校や仕事はなくても私たちは忙しい日々を過ごしていた。
私は買い物や掃除を任されていた。加えてお喋りな祖母の話し相手も、私の仕事になった。自分の部屋にいると、祖母が1階のリビングから私を呼ぶ。
「お茶っご飲むが?」
祖母に呼ばれると、ほうっておけない。私はリビングに降りてお茶を飲みながら祖母のとりとめもない話を聞いた。
祖母は訛りがきつく、震災までは話す機会も少なかった。私は祖母に苦手意識を持っていたが、いざ話してみると気さくな人だとわかった。
家族と暮らしているとはいえ、祖母も住み慣れた町を離れて孤独を抱えていたのだろう。
祖母の知り合いが何人も、津波で亡くなっていた。祖母は毎朝、目を細めながら新聞の訃報欄を見ていた。
父は家族に指示を出しながら、自分も家族のために黙々と働いた。
父はよく2リットルの水の入ったペットボトルを抱えて、家から給水所を往復していた。普段は車を使えば済むのだが、当時はすでにガソリンが尽きていた。
普段は私がなだめなければ、機嫌を悪くする父。しかし叔父や祖母がいる間、父はずっと穏やかな様子だった。
普段はケアを必要とする父が、逆に母のケアをする姿もあった。
震災後の暮らしにも慣れてきたある日、家にいたはずの父と母の姿が見えなかった。私が探しに行くと、2人は車の中にいた。
母がすすり泣きをしていて、父が母の肩を黙って抱いていた。母は父の家族との共同生活に疲れてしまったという。
私や弟にとっては、祖母や叔父はもともと家族だ。一方で母からすれば、彼らは結婚を機に接点を持った他人のようなものだ。
災害時でやむを得ないとはいえ、母にとっても気苦労の絶えない生活だったのだろう。
父は母の泣き言を受け止め、母をなだめていた。父が誰かを労わる姿を、私は初めて目にした。
普段は酒を飲んで私たちに暴言を吐き、私たちのケアを必要とする父。そのときだけ、父は心から他者を思って行動していたように見えた。
ライフラインが復旧して学校も再開したころ、叔父一家は仮設住宅に移り住んだ。仮設住宅では犬が飼えなかったので、犬だけ引き続き私たちの家で預かることになった。
祖母や叔父たちが来てから、再び家族4人の暮らしに戻るまでのおよそ半年間。不思議なことに、父はずっとしらふのまま、優しく頼もしい父親でいてくれた。
家族や家が無事だったとはいえ、大所帯の共同生活は父にとってもストレスを与えたはずだ。酒を我慢して、イライラしている様子もなかった。
父は自分の実家でも酒を飲んで騒いでいたので、叔父や祖母に遠慮していたとも思えない。
あのとき、なぜ父は酒を飲まずにいられたのだろうか。
家族に必要とされている実感
今でも理由はわからないが、私には一つの仮説が浮かんでいる。
当時、「家族が自分を必要としている」という実感に、父自身が支えられたのではないだろうか。
父は家族に対して、強い執着を持っていた。
子どもに干渉するとき、口癖のように「家族だから」と口にしていた。あるときは父が「北の国から」を観ながら、ひとり涙を流す姿を見たことがあった。
家族に対するこだわりは、私たちだけでなく父の実家にも向けられた。お盆や年末、父は必ず帰省する。墓の掃除や庭の草むしりを、頼まれてもいないのに積極的に引き受けていた。
一方、父の献身に対して、祖母が礼を言う姿を見たことはない。思えば父の行動は、祖母にとってお節介だったのかもしれない。
震災が起きてから、祖母や叔父たちと一緒に暮らした数ヵ月。
父の胸中には、故郷が津波ですっかり変わってしまった悲しみや、余震や原発に対する不安もあったはずだ。それでも父にとって、震災後の生活は気の置けない家族と過ごせるひとときでもあった。
家族のために尽くし、家族から感謝される。家族という関係が、父にとって心の支えになった。
しかし家族に対して父が求める距離は、近すぎたように感じる。震災後のような、家族との密な暮らしを平時に送るのは現実的ではない。
私たちには家族以外にも友人や職場、学校で人とのつながりがある。家族とだけ、密に接し続けるわけにはいかない。
父は家族の他に、心を許せる人間関係を持っていないようだった。
案の定、生活が復旧して震災前と同じような暮らしが戻ってきてからは元の木阿弥となった。
父は家族のほかにも、心を許せる場所を持つべきだった。
あの生活以外でも、誰かから必要とされている実感を得られれば、父はアルコールに依存しなくても済んだのではないか。
そう思う一方で、どうすれば父が家庭以外に居場所を持てたのか、私には今でもわからない。
