Addiction Report (アディクションレポート)

依存症の父から離れても、生きづらさは消えない 患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~(10)

医学部には合格できず、私は関東にある私立大学に進学した。私は小さなアパートで、父から怒鳴られずに暮らせる環境を手に入れる。ほっとしたのもつかの間、医師になることだけが自分の価値だと感じていた私は、何をすればいいかわからなくなってしまった。

依存症の父から離れても、生きづらさは消えない  患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~(10)
かつて、電報で合格を報告するときに「サクラサク」というフレーズが使われていた。

公開日:2026/04/24 02:00

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患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~

医師になれない人生を、全く考えられなかった

震災の翌年に大学受験があった。一年浪人した末に、関東にある私立大学の薬学部へ進学した。

勉強はしていたが、今思えば合格できなかったのも当然のことだ。

私の努力は自分の夢を叶えるためではなく、親に認められるためのものだった。親のために努力をしていた私は、自分のために本気で努力をしていた人たちに敵わない。

医学部に入れなかった先の人生を、私は全く考えていなかった。

父から「医学部に入れ」と言われ続けて、私はいつしか医師になる以外の道に価値を見いだせなくなっていた。だからといって、編入や再受験でもう一度医学部を目指す気力もない。

――医師になれないのなら、自分には価値がない。いっそ死んでしまおうか……。

入学の手続きを終えて、アパートの内見をしている間でさえ、頭の隅には漠然と最悪の選択肢が浮かんでいた。

今となれば大げさだが、当時は本気だった。映画のように今ここでエンドロールを迎えられたら、どれほど楽だろう。

気持ちの整理もつかないまま、大学生活への準備が始まった。

地方会場で受験したので、キャンパスに行ったのは進学が決まってからだった。大学名に「東京」がついているのに、東京理科大学のキャンパスはなぜか千葉県野田市にある。アパートを探すためにキャンパスの周辺を見て回ると、あちこちに雑木林や畑が広がっていた。

「関東の大学」に都会的なイメージを持っていた私は、現実とのギャップに唖然とした。偏差値だけで大学を選んだ私は、名前の響きからオフィス街の中でガラス張りのキャンパスを想像していたのだ。

想像とのギャップに唖然としていたが、そこには魅力もあった。

大学の前に橋が架かり、河原に桜並木が広がっていた。実家のある宮城県にはまだ寒さが残っていたが、関東にはすでに春が訪れていた。

どんな経緯であっても、来た者を歓迎するような懐の深さを、私は満開の桜から感じた。河原に咲く桜を見てからやっと、私は大学生になってからの生活を考えた。

医学部ではないが、この大学にも補欠でやっと合格した。現役時代には合格できなかった大学だ。

不本意な結果とはいえ、この大学に通うという選択は決して悪い道ではないのかもしれない……。

今は自分に価値を見いだせない。それでもこれから、勉強以外の何かが見つかるかもしれない。大学に入っても希望を見つけられなければ、そのときにもう一度考えればいい。

私は人知れずここで人生を終わらせようか迷い、なぜか桜を見て決断を先延ばしにした。

太宰治の『葉』という作品に、次のような一節がある。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治にとっての着物。私にとっての桜。

生きようとする意思をくれるのは、案外ささいな出来事なのかもしれない。

実家を出て得た自由の味

不合格を知ったその日、父はしらふのうちは黙っていたが、焼酎を飲み干すと私に言った。

「何か言うことはねえのか」

父が私に何を言ってほしかったのかはわからない。不合格だったことを謝るべきだったのか、高い学費を払って私立の大学に通わせてもらえることに感謝すべきだったのか。

それきり、私は一人暮らしを始めるまで父とはあまり口を利かなかった。合格できなかった罪悪感と、こちらの気持ちを考えない父への苛立ちが混ざり、父とどう接すればいいのかわからなかったのだ。

医学部に落ちた瞬間から、父は明らかに私への興味を失っていた。今度は高校生になった弟に「東大へ入れ」と言い始めた。

学歴を気にする父にとって、私がその後どんな人生を歩もうと大した意味はないようだ。母もまた、私に対して腫れ物に触るような態度をとった。両親にとって、私は敗者以外の何者でもないような気がした。

もはや、実家を出ることにためらいはない。小さなアパートへ最低限の手荷物を運び込んで、一人暮らしが始まった。

大学の近くに知り合いはいない。彼も都内の大学に進学していたが、会いに行くには片道2時間ほどかかる。

心細い気持ちもあったが、それ以上に私の胸を占めていたのは解放感だった。

よく「一人暮らしを始めると、実家のありがたみがわかる」と言われる。だが、私が実家を出て感じたのは、両親への感謝ではなかった。

確かに実家では、食事や洗濯を母に任せて暮らしていた。受験勉強に専念できていたのも、家事をする必要がなかったからだ。

それでも実家で暮らしていれば、酔った父の相手や母の干渉を引き受けなければならない。裕福ではあったが、私はいつも息苦しさを感じていた。

一人暮らしを始めてからは父からも怒鳴られず、母の目を気にする必要もない。一人暮らしで得られる安心感に比べれば、家事の手間などささいな問題に過ぎなかった。

これまで勉強ばかりしていたが、一人暮らし向けの本を読みながら家事を覚えた。

初めて一から自分で食事を作り、ひとり静かなアパートで食べた。キャベツの千切りと、鮭のムニエルを作った。

キャベツの千切りは厚みがあり、ムニエルは少し崩れてしまった。決して見栄えのいいものではない食事。それでも実家の食事よりも美味しかった。

あれはおそらく、自由がもたらした味だった。

親の敷いたレールから脱線した人生

実家を出られたのは、私にとって幸運だった。両親から離れた私は、平穏に暮らせる環境を手に入れた。

ただし、実家を離れても問題が全て解決したわけではない。一人暮らしを始めてしばらくは自由を謳歌していたが、次第に虚無感が訪れた。

自由に暮らせるということは、見方を変えれば自分で決めなければならない。どの授業を受けるのか。サークルやアルバイトを始めるべきか。将来はどんな道へ進むのか。

今までは親が自分の道を決めていた。私は彼らの言葉に従うしかなく、逆に言えば従っていればよかった。

親が敷いた「医師になる」というレールを脱線してからの道は、自分で決めるしかない。

私は何をすればいいのだろう。

何をすれば、私は価値のある人間になれるのだろう。

せっかく手に入れた自由を、次第に私は持て余すようになった。

ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるように、大学時代では様々なことに挑戦した。あまり勉強はしていなかったが、サークルやアルバイトを掛け持ちし、卒業研究や就職活動にも精を出した。

一方で、お酒が飲めるようになってからは、次第に私自身もアルコールに依存するようになった。父を軽蔑しながら、自分の中に父と重なる部分を見つけて自己嫌悪を覚えた。

父の病は私に連鎖していた。

父にも私にも、根本には「ありのままの自分には価値がない」という考え方があった。

親から解放された私は進路を見失い、アルコールにすがりながら自分の居場所を探し続けることになる。

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