めちゃくちゃな生活の中で、それでも私は自由だった 患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~(13)
大学へ行けなくなり、単位を落とし、金欠でアルバイトを3つ掛け持ちする日々。最初は楽しくて始めた酒によって、私は次第に追い詰められていく。気づけば私は、父と同じ轍を踏んでいた。

公開日:2026/06/15 02:00
飲み代を稼ぐため、3つのアルバイトを掛け持ち
最初に困ったのが金欠だ。
多い日は5軒もバーをハシゴしていたので、仕送りと塾のアルバイトだけでは金が足りなくなった。アルバイト代がそのまま、飲み代の支払いに消えていく。時々、振り込みが遅れて電気が止まった。
今思えば、当時の私に必要なのは生活の立て直しだった。塾の授業と飲みに行く頻度を減らして、自分の勉強時間を確保すべきだろう。
しかし、私はまったく逆の選択をした。アルバイトを増やし、毎日のようにバーへ行った。飲みに行くのを控えようとはまったく思わなかった。
――もっと稼ぎたい。この生活を失いたくない。
振替も授業の追加も断らなかったので、塾では都合のいいコマとして扱われていた。最初は人の良さそうだった塾長も、次第に横柄な態度を見せるようになった。生徒の成績が芳しくなければ、塾長は私をなじった。
「数字で結果を出して」
高校生のころ、同じような言葉を父から言われたことを思い出した。せっかく自由になっても、私は数字で価値を測られる場所にいた。
塾講師のほかに、家庭教師とバーのアルバイトも始めた。バーでは掃除や簡単なドリンクを作るだけだったが、時給は悪くなかった。塾の授業が終わってから、バーのアルバイトに向かう日もあった。
生徒の成績とアルバイトの収入が上がるほど、私は自分に価値を感じた。
モラトリアムの中で
アルバイトを掛け持ちするようになってから、朝に起きられなくなった。
二日酔いの日もあったが、2〜3杯だけしか飲んでいなくても翌朝になると体が動かない。「大学へ行かなければ」と思っても、手足が鉛のように重い。
飲み過ぎというよりは、精神的な理由が大きかったように思う。飲み歩いた翌日には、いつも祭りの後のような寂寥感があった。夜が楽しければ楽しいほど、朝を迎えるのが怖かった。
1年生のうちはほぼ全ての授業に出席していたが、2年生になってからは授業を休むようになった。
大学の授業では、1つの授業あたり15回の講義がある。そのうち3分の2以上、つまり10回以上出席しないと試験を受けられない。
講義を週に1回休んでも、毎週休む曜日をずらせば欠席は3回ずつで済む。私は出席日数を計算し、実習以外の講義は10回を切らないギリギリまで欠席を繰り返した。
出席は足りていても、試験勉強にはまるで手が回らない。授業中は内職してアルバイトの準備にいそしみ、試験前には塾の夏期講習や冬期講習を引き受けていた。
試験勉強はほとんど一夜漬けだ。1年生のうちは単位を全て取っていたが、2年生になってからは複数の科目で再試験になったり、単位を落としたりしていた。
それでも私はアルバイトを続け、毎晩のように飲み歩いた。
私立大学薬学部の学費は高い。留年すれば、追加で莫大な学費が必要になる。頭ではわかっていたが、危機感はなかった。
いっそ中退してしまおうか――。
試験に落ちて留年しても、大した問題ではないような気がした。社会に出て、興味のない仕事に就くまでの猶予が一年延びるだけだ。
自分の勉強を優先するより、生徒たちのために授業をしていた方が、社会のためにも有意義ではないかとさえ思った。
そのころには、薬剤師になりたいという気持ちもなかった。このまま興味のない仕事に就くために大学に残るより、好きな仕事で日銭を稼いで暮らしたかった。
父のようにはならないと思っていたけれど
酒を飲むようになっても、父のようにはなりたくないという思いは残っていた。酔っても決して誰かに絡んだり、人を中傷したりはしなかった。
それでも酔って彼を傷つけてしまったことが、何度かあった。
高校時代から付き合っていた彼との関係は、大学に入ってからも続いていた。彼は都内の大学に通っており、私のアパートから片道2時間の場所に住んでいた。遠距離というには近いが、毎週会うには遠い距離だった。
彼とは月に数回、週末に会っていた。彼と会っている間は、酒を飲まなくても平気だった。辛いのは自分のアパートに帰ってから一人で過ごす時間だ。
酒を飲むようになってから、冷凍庫にはいつもジンとウォッカの瓶を入れていた。辛くなると、時々家でも飲んでいた。バーで飲む時間は楽しかったが、一人で飲む時間はむしろ苦痛だった。
誰かといないと、普段は考えないようにしていた感情が押し寄せてくる。大学に居場所がない。自分に価値があると思えない。薬剤師になりたくない。ただ息をしているだけで、孤独で苦しい。
私は酔うと、彼にメッセージアプリで4文字を書いて送った。自分の苦痛を剥き出しのまま吐き出していた。
「死にたい」
彼は困惑したはずだ。「話を聞いてほしい」「明日、大学行きたくない」のような言葉には、共感したり励ましたりすればいい。だが死にたいと言われても、相手はどう返せばいいか悩んでしまうだろう。
どれほど親しい相手でも、自分の気持ちを一方的にぶつけるのは健全な関係ではない。彼から「酔って死にたいとか言うのはやめてほしい」と言われて、私はハッとした。
矛先が相手から自分に向いているだけで、私は父と同じ行動を取っている。
彼に申し訳なかった。あれほど「父のようにならない」と誓った自分が、酔って彼に自分の気持ちをぶつけた。たまらなく恥ずかしかった。父と同じくらい、自分が許せなかった。
アルバイトと酒に明け暮れる生活は、大学2年の終わりまで続いた。
塾講師のアルバイトは年度末に辞めてしまった。都合よく使われることに嫌気が差し、加えて高圧的な塾長からも逃げたかった。
家庭教師も生徒の受験が終わるとともに、契約終了となった。バーにはもともと不定期で入っていたが、1年もしないうちに店が閉店してしまった。
アルバイトを辞めてからは、飲みに行く頻度も自然に落ち着いた。それでも時々は、孤独を紛らわすために酒を飲んでいた。
苦しかった、でも楽しかった
めちゃくちゃな生活だった。体調も悪く、慢性的に金欠で、試験の成績もボロボロ。酒癖のせいで、彼も傷つけてしまった。
それでも、当時の私は苦痛と同じくらい喜びを得ていた。
大学に入るまでの私は、親の顔色をうかがいながら、親の決めた人生を歩んでいた。自分に価値があると思えず、自分が何をしたいかもわからなかった。
大学に入ってからやっと、自由に行動できるようになった。塾のアルバイトを始めてからは自分の力で収入を得て、生徒の役にも立てる。大学に居場所がなくても、バーへ行けば気の合う常連仲間がいる。
――私は今、自分の意思で生きている!
そう思うと気分が高揚した。めちゃくちゃな生活であっても、自分を取り戻せたような気がした。
それでも、その自由はあくまでモラトリアムの中の限定的なものだ。親の仕送りで親の許可する大学に通い、将来は親が決めた進路を歩むということに変わりはない。
いくら自由を謳歌しても、所詮は親が決めたレールの上で遊んでいるに過ぎない。かといって大学を中退し、塾講師やバーテンダーとして生きるほどの覚悟はなかった。
不自由の中の自由。
その矛盾から目をそらすために、私は酒を飲んでいたのかもしれない。
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コメント
私の息子がギャンブラーですが、アルコール依存も生きづらさが背景にあるのは同じなんですね。
