父もまた、認められたい子どもだった 患者家族、作家、薬剤師~3つの立場から見た依存症~(7)
高校生になってから、酔った父を落ち着かせるのが私の仕事になっていた。父の精神的なケアをしながら、医学部を目指して勉強を続ける日々。「子どもが親のケアを担うのは間違っている」と気付いたのは、だいぶ後になってからのことだった。

公開日:2026/02/09 02:00
父の攻略法
学校生活は恋愛や勉強で充実していたが、家庭は相変わらず居心地が悪かった。
高校生になってから、私は母や弟を守るために父を止めるようになっていた。父を落ち着かせるにはコツがあった。
父の攻略法を見つけたきっかけは、ある日の会話だった。父はいつも通りボトルの焼酎を飲みながら、私たちに絡んでいた。
「俺は家族のために、こんなにがんばっているのに」
父がいつものように不満を漏らす。母が「やめてよ」とたしなめても、父は「うるさい」と言って聞かない。
普段は黙って父が酔いつぶれるのを待つばかりだったが、その日は違った。私の目には父が大人ではなく、ふてくされた子どものように見えたのだ。
「そうだね。いつも私たちのために、仕事をがんばってくれてありがとう」
本心ではなく、ただ父をなだめるために出た言葉だった。父はその一言で急に大人しくなり、大して飲まないうちに寝床へ入ってしまった。
父の態度に驚くとともに、私は気付いた。父はただ自分を認めてほしいだけなのだ。
それからは直接「お酒をやめて」と言うのではなく、父をねぎらい労わる言葉をかけるようになった。
「今日も仕事お疲れ様」
「お父さんのおかげで勉強できるよ。いつもありがとう」
「そろそろお茶でも飲もうか?」
酒を咎めるのではなく、おだてて父の機嫌を取る。思ってもいない感謝を並べ立てて、父の自尊心を満たす。
ご機嫌取りが成功すれば父は大人しくなり、深酒をせずに寝てくれる。
父を観察しているうちに、私は父の求めるものがわかるようになっていた。
父の酒を完全にやめさせるのは難しかったが、父からの暴言を最小限に食い止められるようになった。
私が父に与えた言葉は、私自身が父から欲しかった言葉でもあった。思えば私は、父から一度も褒められた記憶がない。
父は生活や勉強に必要なものを買い与えてくれたが、精神的なつながりは薄かった。
本当は私も父から認められたかった。一言「がんばってるな」とでも声をかけてもらえたら、どれほど嬉しかっただろう。
もしかしたら父自身も、祖父母から褒められずに育ったのかもしれない。「認めてほしい」の連鎖が、父と私の間にあった。
私しか父を止められない
本来、父のケアをするのは子どもの役割ではない。しかし当時は私以外に、父を止められる人がいなかった。
かつて一度だけ、家庭の外へ助けを求めたことがある。
父が母に絡み、激しい夫婦喧嘩をした翌日だった。母が実家に電話して父のアルコール依存を打ち明け、叔母にどうしたらいいか尋ねた。
母の実家は病院で、叔母は小児科医だった。私や弟の体調について悩みがあると、母はいつも叔母に相談していた。
叔母なら、今の状況を聞いて父に受診をすすめるかもしれない。
父は医師や弁護士など、権威に強いこだわりがあった。専門医ではないとはいえ、医師である叔母からの言葉なら、父も聞く耳を持つだろう。
治療につながれば、もしかしたら父は優しい父のままでいられるのではないか――。
私はひそかに期待していたが、希望はあっさりと打ち砕かれた。
「お父さんは病気だから。暴言を吐くのも仕方ないの。
あなたたちがアルコール依存症の勉強をして、なんとかしなさい」
叔母は私たちにそう言った。人を信じようとする気持ちが打ち砕かれた瞬間だった。
叔母は話を続けようとしていたが、私は最後まで聞かずに通話ボタンを切った。
私たちは平穏で暮らすために、父の機嫌を取り続けるしかないのだ。
今の私には、叔母が間違っていたとわかる。私たちだけで父のアルコール依存を解決できるわけがない。
依存症の治療は、十分に学んだ医師でさえ難しい。ましてや精神科医を目指しているとはいえ、高校生が手に負える問題ではない。
家庭の問題として自分たちで抱え込むのではなく、医療や断酒会など外部の力を借りるべきだった。
しかし、当時の私は「自分が父を何とかしなければ」と思い込んでいた。
叔母にはせめて、寄り添ってほしかった。「辛かったね」の一言だけでも、どれほど救われた気持ちになっただろう。
父のアルコール依存が治らないとしても、私たちには「助けて」の言葉に「辛かったね」と答えてくれる誰かが必要だった。
心の代わりに、体が悲鳴を上げていた
朝から晩まで学校で勉強し、帰ってからは父の世話をする。眠る時間は少なく、彼といる時間の他に安らぎはなかった。
無意識にため込んでいたストレスは、やがて体に症状としてあらわれた。
最初は胃痛だった。朝に教室で自習していると、よく胃がキリキリと痛んだ。
一度内科で診てもらったが、特に異常は見つからない。そのうち授業や講習が忙しくなり、病院にも行かなくなってしまった。
胃痛に耐えていると、今度は全身のかゆみに襲われた。皮膚科を受診すると、アトピー性皮膚炎と診断された。
アトピーはさまざまな原因により発症するが、私の場合はストレスも一因だったように思う。保湿剤やステロイドの塗り薬を使いながら、机に向かう生活を続けた。
今思えば、麻痺していた心の代わりに体が悲鳴を上げていたのだろう。
人の機嫌ばかり気にしていると、自分の気持ちが分からなくなる。当時は、自分が今の生活を苦痛に感じている自覚がなかった。
今でも私は、体の不調が出るまで自分のストレスに気付けないままでいる。
高校を卒業してから今でも、ストレスを感じると胃痛でものが食べられなくなる。大学生のときは、帰省しただけでまぶたが炎症で真っ赤になってしまった。
あの家庭で育った、後遺症のようなものだ。
私はヤングケアラーだった?
最近、「ヤングケアラー」という言葉が広く知られるようになってきた。
『子ども・若者育成支援推進法』によると、ヤングケアラーの定義は「家族の介護その他の日常生活上の世話を過度に行っていると認められる子ども・若者」だ。
調べてみると、アルコール依存症を患う家族を世話する子ども・若者もヤングケアラーに該当するという。
親の世話には情緒的なケアも含まれる。親の愚痴を聞いたり、親の機嫌を取ったりすることも情緒的ケアの一種だ。この定義によると、高校生の私はヤングケアラーだったと言える。
ヤングケアラーの定義を調べたとき、私は驚いた。私にとって、親の機嫌を取ることは当たり前のことだった。
当時は私が父のケアを引き受けるしかなかったが、本来父のケアは私が背負うべき仕事ではなかったのだ。
当時の私は父をアルコール依存から助け出せない自分を責めていたが、父の病はあくまで父自身の問題。父をアルコール依存から救い出すのは私には不可能だったし、また子どもである私がすべきことではなかった。
自分がヤングケアラーだったと気付いたところで、いまさら過去の自分を助けに行けるわけではない。
それでも過去の自分に「親のケアはあなたの仕事じゃない」と言えることは、今の自分にとって意味があるような気がする。
実家を出てから10年以上が経つ。昨年は娘が生まれた。
生後半年くらいから、娘が夜泣きするようになった。大きな声で泣く娘の背中をさすり、落ち着かせてからベビーベッドで眠らせる。
安心した顔で眠る娘を見ながら、私はふと、以前にも似たような経験をしている気がした。
昔の記憶が蘇る。明け方に泥酔した父が泣きじゃくっていて、私は父をなだめていた。
父がなぜ泣いていたのかは覚えていない。父は誰かのケアを必要としていて、それがアルコール依存という形であらわれていたのは確かだ。
あのとき家庭という閉じた場所で、父のケアをできるのは私だけだった。
親になった今、子どもが親のケアをするのは間違っているとはっきり感じる。
大きくなった娘が必死に私たちの機嫌をうかがう姿を想像して、胸が痛んだ。私は娘に同じことをしてほしくない。
父のようにならないためには、娘に親である自分を認めてもらうのではなく、私が自分自身を認める必要がある。
自分の「認めてほしい」を子どもに背負わせるのは、終わりにしたい。
【参考】(2026年2月に確認)
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