鏡で自分の姿を見て、『なんか、痩せすぎじゃん』『腕とか細すぎ』と思った。両親との関係に抜け出すヒントはあるのか?…摂食障害に悩んだナツミ(下)
好きな学童保育で働くことで生活リズムが整っていく。それまで摂食障害の専門医のいる病院に入院したこともあるが、最低限のカロリーを摂る以外の本格的な治療はせずに、食事量の調整やジムへ行くなど自己流で対処した。機能不全家族が、依存の背景にあったと言えるのか。
公開日:2024/09/27 22:00
18歳で家を出た後に拒食症になったナツキ(仮名、23)は、当時のことを振り返る。
「もう二度と経験したくない。そういうレベルでした。普通に自分の見た目がどんどん醜くなったと感じるんです。何の服を着ても似合わない。逆に、痩せていた頃は何を着ても似合うと感じていました。みんなから『羨ましいね』とか言い始めていました。でも、太った時に誰か私に言うのかというと、みんな触れなくなっていきます。
何を着ても似合う服を見つけられない。楽しくないんです。化粧しても可愛いとは思えない。他の人と比べても、過食期って、54キロとか55キロくらいかな。街中を歩くだけでも劣等感を感じていました。他の人から見たら平均よりも太めくらいという感覚が、私からすると、『もうただのデブじゃん』って感じになってしまう。元々、42キロとか41キロだったので、そこから54キロまで上げると、流石に耐えられないものがありました」
摂食障害の背景に家族関係は影響している?
摂食障害の背景には、家族関係があるとも言われている。ナツキが摂食障害になったのは家を出てからだが、関係があるのだろうか。家族関係を振り返ってみる。
母親との関係を見ると、勉強の際には叱られた。塾でも「一番じゃなければダメ」と言われていた。偏差値は60以下、点数では70点以下では怒られた。小学校5年の頃には、学校の成績が悪いと叩かれていた。
「他の子はそんなことをされないんですが、なんでうちだけがそうなのか」
小学校6年になると、叩かれる頻度が増した。
「とにかく、切りたい」
手首を切る自傷のことも知らないが、リストカットもするようになった。家が好きではないし、親のことも嫌い。学校が終わっても家には帰りたくない。そんなふうに考えたために、放課後もフラフラしていた。そのため、心が休まる居場所はなかった。生きているのが辛いとも考えていた。その一方で、親に反抗することもできず、中学受験をした。
中学に入ると、リストカットが激しさを増していく
中学1年のときにはスマホで「手首を切る」で検索していた。情緒不安定な日は毎日のように切った。
「中学2年のときは成績がよかったんです。だから、親が私に強く言えませんでした。その後の日常生活は叩かれることがなかったんです。でも、結局、そんなことが続くのは中3まででした。帰宅後、制服や靴下を部屋に放置したり、ペットボトルを片付けなかったりしたんです」
気力がもたなかったのか、生活が乱れていった。そのため中3の途中から私立から公立に転校する。ただ、中3と言えば、受験生でもある。生活の乱れを母親は許すはずもない。
「受験生なんだから早く起きなさい。受験生なら朝6時に起きなさい、などと言われました。でも、深夜2時に寝るので起きられない。起きるのは学校に行く直前の朝7時半くらいでした」
この頃、夫婦関係もよくなかったし、父との関係も悪かった。母親がビンタをするし、父親からは殴られる。暴力を伴う緊張感がある家族だった。一方で、母親はピアノ教室のときだけは優しかったという。
高校生の頃は、両親ともに「早慶は絶対」「MARCHはダメ」として偏差値上位校にこだわっていた。
「大学は必ずしも偏差値ではない。心理学が学びたかったんです。悩みを抱えている子に何かができるかもしれない。サポートというほど大きなことではないがけれど、そばに頼れる人がいればいいと思っていました。中1のころから、心理の仕事につきたいと思っていたんですが、『(心理の仕事は)収入が少ない。そんなものに、大学院を含めて6年分の授業料を払う価値はない』とまで言われていました」
高2の夏休みに人生を悟り、「死のう」と思い立った
母親から希望する進路を否定されていた。ナツキは高校2年の夏休み。8月中旬、本当に死のうかと思った。自室のクローゼットでタオルを使って首を吊ろうとした。しかし気がついたら、目覚めていた。Twitter(現在のX)で自殺をしようとつぶやいていたため、スマホを見ると、多くの人から連絡が来ていた。ある人からは電話で泣きながら「生きててよかった」と言われたが、さすがに嬉しかった。
それまでも「死のう」と思ったことがある。でも、中学のときは怖かった。しかし、高校生になると「人生を悟った。怖くなくなった。死んだ方がいい」と思っており、勢いで自殺をしようとした。ナツキは「吸い込まれるように」と表現した。自殺願望よりも事故死願望に近かった。「死のうと思えばいつでも死ねる」。そんな感覚も得た。
高校生のとき、悩みを受け付けるNPO法人の相談窓口にメールや電話をした。そのNPOには緊急時のシェルターがあることを知った。家以外の選択肢があることで、ナツキは、安心することができた。
「家にいたくない、帰りたくないときは、ちゃんと保護してもらえるところがあると知りました」
辛い時や言葉にしたい時で、Twitterではどうにもならないときは、NPOにメールをした。その後、大学を退学し、シェアハウスで生活をしたり、病院に入院したりした。生活が安定しないときもあった。筆者も、病院にお見舞いに行ったこともある。そんな中で、また学童保育で働き始めた。
「働いて帰ってくると、1日2食の状態に戻ったんです。仕事中食べたくても食べられないじゃないですか。空腹の時間が4時間とか5時間とか。週に何度も行っていると、それに体が慣れてきて。それで2食で足りるようになって、そこから一気に54キロくらいだったものが、1ヶ月で48キロくらいまで下がりました。そのまま減り続けて42キロくらいまで落ちました。自分的には54キロよりは40キロ台がいいなと思っていたので、焦ってはなかったんです。
自分が満足するためにジムで筋肉をつけるようにした
でも、42キロくらいになったときは若干、焦りました。そのとき、鏡で自分の姿を見ました。『なんか、痩せすぎじゃん』って思ったんですよ。今まで思わなかったんですが、急に『腕とか細すぎ』と思って、それを気持ち悪いと思えたんです。だから食べるようになったし、ジムも行くようになりました。今は多分、普通の人よりも食事を摂っています。ジムでは、3キロは絶対に走っています」
好きな学童保育で働くことで生活リズムが整っていく。それまで摂食障害の専門医のいる病院に入院したこともあるが、最低限のカロリーを摂る以外の本格的な治療はせずにいた。食事量の調整やジムへ行くなど自己流で対処していった。
「自分の中の〝普通〟じゃなくて、みんなが思う〝平均的な体重〟を調べました。その体重にとにかく近づけることだけを考えました。その体重に持っていくのに自分が満足するためには、ある程度、筋肉をつけるようにしたんです。今はそんなに太ってはいませんが、鍛えているようには見える。いまは、自分が受け入れられる体重になってきています」
ナツキの場合、家族関係での悩みは摂食障害が直接は結びつかない。ただ、摂食障害を自傷行為や緩やかな自殺願望として捉えると、小学6年生のときにしていた自傷行為とつながる。悩みに対する対処法としての自傷行為というパターンが、摂食障害という形に変わっただけだったのかもしれない。その意味では、機能不全家族が、依存の背景にあったとも言える。
(おわり)
関連記事
- 「食べ過ぎたから食べる量を減らせばいい」と思ったが、コントロールがうまくいかない。食べる量を増やすが、増えない体重…摂食障害に悩んだナツキ(中)
- 「お腹が空いていないけど、食べずにはいられない」認知が歪み、自己肯定感が下がり、『ただのデブ』という感覚…摂食障害に悩んだナツミ(上)
- 処方薬に依存した10代女性がODの結果…。背景には家族関係や恋愛関係〜過去の取材から
- 「ODはしなくても、他の手段を探してしまう」自傷行為を繰り返す、性的虐待を受けた女性の心情
- 愛情を向けられている記憶がなく、埋められない母親への依存心。心中相手を探す原点とは…恋愛依存のモデル・ゆめじさん(下)
- 「恋人がいない期間は綱渡りです」風俗もキャバクラも精神的にギリギリ。精神科に行くが、不眠が続く…恋愛依存のモデル・ゆめじさん(中)
- 抱きしめたりするときに、やっとその人の温度を感じる。『一人じゃない』ってわかる 恋愛依存のモデル・ゆめじさん(上)
- 「誰にも愛されないのではないか」セックス依存症となった背景には何があったのか。実は、宗教2世であり、飲酒の問題を抱えた家族がいた〜セックス依存症のまゆみ(下)
- 男性と大喧嘩して別れたことで、「抱きしめてもらえないまま人生終わるかも」と、孤独感が増す。その結果、ハプニングバーを知り、ハマる 〜セックス依存症のまゆみ(上)