Addiction Report (アディクションレポート)

メディアのバッシング、SNSの誹謗中傷 「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ

子供の頃から人に頼れない性分だった田中聖さん。逮捕後のメディアやSNSのバッシングで孤立し、再び薬を使ってしまいます。

メディアのバッシング、SNSの誹謗中傷 「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ
「弱音を吐けない性格だった」と話す田中聖さん(撮影・後藤勝)

公開日:2024/02/17 02:04

独立後、仕事をすべて自分で抱え込んで、プレッシャーから覚醒剤を使い始めたミュージシャンの田中聖さん(38)。

子供の頃から人に頼れない性分だった。どんな人生を歩んできたのだろうか?

そして、なぜ再び薬を使用してしまったのだろうか?

(編集長・岩永直子)

弱音は吐けず「誰をどう信用していいかわからない」

——人に頼るのが苦手なのは昔からですか?

そうかもしれないですね。

——ご長男でしたっけ?

いえ、5人兄弟の次男です。

——家族の中でご自分はどのような存在でした?

長男は10歳上で、俺が10歳ぐらいの時に結婚して家を出ています。実家の中では途中からは実質長男のような位置付けでした。

——頼られるような存在でしょうか?

そういうことが多かったですね。友達からもよく相談を受けていて、自分の中のモットーとして、「自分ができることはすべてやる」を掲げていました。

逆に自分は「人に相談する」とか「弱音を吐く」ことは自分の弱点を晒している気がして、できなかった。いつ寝首を掻かれるかわからない芸能界にいたこともあって、誰をどう信用していいかわかりませんでした。

「親友」と呼んでいる存在にすら、相談はしたことがなかったですね。

自身が一家の大黒柱だった時期も

——12歳から所属したジャニーズは自分が入りたくて入ったのですか?

そんなことはないです。芸能界に興味はなく、母親が履歴書を送りました。中1の時だったので、最初は部活の延長のような感覚です。仕事や責任感が伴う何かというよりは、習い事にいく感覚でダンスのレッスンなどに行っていました。

通うのは楽しかったです。仕事はすごく好きでした。歌だけではなく、芝居も、バラエティもすべて好きで、仕事をすること自体はすごく楽しかった。

——ご自分の収入が一家の収入源という感じでした?

一時期そういう時期があったかもしれません。でも、親も頼りきりというわけではなく、最低限働いてはいました。最近まで親父はタクシー運転手をして、お袋はパートに出ていました。

——ご自分が一家の大黒柱のような時もあったのですね。

そういう時期はありましたね。5人兄弟なので、僕一人でというより、みんなで助け合っていました。

——人に相談できないとか弱音を見せられないのは、家族に対してもそうだったのですか?

できなかったです。なぜでしょうね。もちろん何かあった時に両親に「どうしようか」と聞くことはありましたが、一番大事なところは言えなかったです。「守りたい」という思いの方が強くて、「守ってもらいたい」タイプではありませんでした。

——子供だから、親に頼ってもいいですよね。

もちろん甘えてきたところはありますが、「家族に助けてもらおう」というよりは、「家族を助けたい」という気持ちの方が強かったです。

——弟たちからも「頼られるお兄ちゃん」だったのですか?

今は、僕の方が家族に頼りきりの状況で、全員に助けてもらっていますが、バリバリに仕事をしていた時は、家族の面倒を見る方でした。

すぐ下の弟(彪氏)は舞台役者や脚本、演出をしているのですが、大学卒業後、将来どうしたらいいのかわからないと悩んでいた時に、いろいろなところに連れて歩きました。「どれかハマったら続けたらいいじゃないか」とアドバイスして、いろいろな人に引き合わせたりはしていました。

恋人にも友人にも弱音吐けず いつも「誰かのため」

——恋人や友達もその時々にいたと思いますが、弱音を吐いたりはしなかったですか?

特に言わないですね。親友にも50万持ち逃げされたこともあるので、頼るという感じではありませんでした。

親友が音楽をやりたいと言って京都から出てきたのはいいけれど、仕事も住むところもなかった時は、借りていたガレージハウスに無料で住まわせて、働くところないなら作ろうよとバーを作って働かせたんです。オーナーらしいオーナーではなかったのですが、自分の知り合いに来させるために「経営に関わっている」と言っていたんですね。

撮影・後藤勝

結局、そいつが50万を持って逃げてしまったのですが、アイドルをしながら勝手にバーを経営していたと自分が批判を受けることになりました。とはいえ、ジャニーズとは円満離婚のような別れだったんですよ。

——ライブ活動も、ライブハウスを盛り立てるためだったそうですね。

コロナ禍で赤字になりながら全国にライブ回りに行っていた時、世話になったライブハウスが軒並み潰れていったので、なんとか助けたかったんです。地方のライブハウスにも「大丈夫ですか?できることがあったら言ってください」と伝えて、どこでもライブに行っていました。

口癖のように言っていたのは、「時間が空いていたら、陸が続いていたらどこへでも行きます」です。

——自分も赤字になって、一人で仕事を抱えて苦しいのに。

そうですね。ずっと赤字でした。昼に名古屋でライブをやって、夕方から新宿でライブをすることもありました。ライブが終わったら速攻走って新幹線に乗って移動です。

——「人のために何かやりたい」という思いが強すぎて、疲れて、そのプレッシャーで薬に頼るようになったわけですね。

そうですね。

「寝ないで済む」を求めて 「仕方ない」と言い訳

——最初に使った時は「こんなものかな」と拍子抜けの感覚だったそうですが、そのうち効果を感じ始めたわけですか?

やはり寝ないで済む、食わないで済むというのが大きかったです。時間を全て仕事に使えて、集中できる。

ライブ中やYouTubeの撮影中に使うことはなかったですが、疲れ果てて家に帰って、「やばい編集しなくちゃ間に合わない」という時に、薬を使って寝ずに編集をする。高揚感や快楽を求めるというより、「寝ないで済む」が一番大きかったです。

いわゆる昔の「ヒロポン」の使い方ですよね。

——自分で「ヤバいことをしている」という感覚はあったのですか?

もちろん1回目からずっとありました。でもどこか自分に言い訳をして、そういう罪悪感は薄れていったかもしれません。

——どんな言い訳をしていました?

例えば「やめようと思ったらすぐにやめられる」と思っていましたし、「でもこの仕事を片付けなければいけないから仕方ない」という感じです。「この仕事がなくなったらやめる」とも思っていました。自分に言い訳を重ねて、少しでも罪悪感を薄めようとしていました。

——お金もかかりますよね。

自分はそこまで頻繁に使っていたわけではなかったので、それほどでもありませんでした。

逮捕「夢から覚めてほしい」「死にたい」

——最初に名古屋で覚醒剤で捕まった時(2022年2月)、どんな状況だったのですか?

ライブで名古屋に行った時に、リハーサルが朝からあって、本番まで7〜8時間ありました。前日も大阪でライブがあったので俺も他のメンバーも疲れていて、ホテルをデイユースでとって休んでから本番に行くことにしたんです。

そのホテルに俺が忘れていって、ライブを終えて別のホテルに泊まった翌日に、ロビーに警察官が待ち構えていました。

——逮捕された時、何を感じましたか?

最初は正直、「どこかで目が覚めてくれ」と思いました。夢だと思いたかった。現実だと思いたくなくて、夢から目が覚めないかなと思いましたね。

——でも夢ではなかった。発覚したことについてどんなことを考えたのでしょう?

最初は「死にたい」という気持ちが一番強かったです。出て恥を晒して生活するぐらいだったら、今死んだ方が楽だと思っていました。

——世間の反応をどう受け止めていましたか?

保釈されて、しばらくはニュースも見られないし、コンビニに行くのも怖くて、ひたすら引きこもっていました。真夜中に実家の周りを少し歩くだけです。記者もすごくたくさんいました。

実家の外観は記事で出ていて、誰がどう見ているかわからないので、窓という窓を段ボールや毛布で覆って生活していました。

逮捕前からあったメディアへの不信感

——ご家族や友人はどういう反応でしたか?

「大丈夫か?」と声をかけてくれた友達はいました。逮捕された直後は家族会議で「縁を切ろう」という話も出たようですが、最終的には「誰も味方がいなくなるから、家族が助けよう」と言ってくれました。

——家族にも取材攻勢はかかっていたのですか?

来ていたようですね。一つも取材に応じていないのに、親父の証言が載っている記事が出たとも聞きました。

撮影・後藤勝

——そういうのを見てどう思っていましたか?

俺の中ではメディアはそういうものなので、独立してからは「テレビには一切出ない」と決めていました。どこで何を報じられるかわからないし、今は切り取りの時代で、編集によってメディアの都合のいい話にされてしまう。

いわゆる「ジャニーズ事務所への忖度」で潰れた仕事もいっぱいあったので、「手のひら返して誘ってきてんじゃねえよ」という気持ちがどこかにありました。「あんたらがしたことは忘れないよ、俺」という気持ちがどこかにあった。だからお願いされても出ない。それが自分なりの闘い方でした。

音楽活動も小さいライブハウスでやり、どれだけ音楽番組に声がかかっても、唾を吐いてやると思ってやってきました。

——それぐらいメディアに対する不信感が強かったのですね。

薬物の問題が出る前からずっと不信感がありました。

——ジャニーズには珍しく、タトゥーを入れてちょっと不良キャラでしたものね。

書きやすいし、叩きやすかったのでしょうね。だから薬物でバッシングを受けても、メディアはそんなものだと思っていました。

スターを作り上げるのもメディアですが、スターを潰すところまでがメディアの仕事だという感覚でした。昔はパパラッチを捕まえて説教もしていたのですよ。「あなたも仕事で食わなければいけないのはわかるけど、俺にも友達関係がある」などと説得したこともあります。

でも言っても仕方ないし、言ったら言ったで書かれるし、関わらないのが一番です。「有名なインフルエンサーが違法賭博」という記事が出た時に、「田中聖も一緒に」と書かれていたので、その時はさすがに編集部にメールをしました。

「どういうつもりで書いているのでしょう?まったくつながりがないのですが」と送ると、「憶測ですみませんでした。当該記事は消させていただきます」と削除しました。

しかし今の時代、いったん出した記事を消しても意味がありません。一度ネットに出たら残ってしまう。1を100にして書くのがメディアなんだとずっと思ってきました。

メディアのバッシング、誹謗中傷「将来が見えない」

——最初の事件で、実家に閉じ籠りのような状態になって、家族にも取材が来て、精神面は大丈夫でしたか?

メンタルはやられていたと思いますが、自分がやったことの結果だから受け入れるしかないと思っていました。

ただ、とてもしんどかった。もちろん離れていく人もいたし、何よりきつかったのは将来が見えないことです。

ある程度時間が経ったらまた音楽をやろう、活動できない間にPVの案を考えておこう、歌詞を考えてみようと、ポジティブに毎日を送ろうと思っていたのですが、次から次へとあることないこと記事に書かれるし、誹謗中傷も来る。

そうなると、だんだん「自分は何者でもないし、何もできない」という気持ちが強くなっていきました。それでも食っていかなければいけないけれど、たぶん顔も出ているからもうバイトもできない。顔が出ないラブホテルの受付の面接でも受けようかなと思ったりもしました。

「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ

——ご自身にとって音楽はとても大事ですよね。

大事です。

——それができなくなるかもしれないのはきついことでしたか?

そうですね。歌えないと考えるのが一番しんどかったです。留置場でもライブをしている夢を見ていました。毎日ライブをしている夢を見ていたのですが、ステージで歌っている夢が、だんだん客席で見ている夢になり、歌っている自分から遠ざかっていく夢に変わっていく。

すごくそれがしんどかったですね。

何をしていいかわからない。12歳から仕事しかしてこなかったし、逮捕前の数年は1日も休みがない状況だったので、何もしていない時間が耐えられなかった。「仕事がないイコール終わり」「暇になったら終わり」の業界で生きてきたので、忙しくないと終わりという感覚でした。

何もしないでただ家にいて、バッシングや誹謗中傷を浴びている時間は一番しんどかったです。とりあえずホームセンターでサボテンを買って寄せ植えをしたり、爬虫類の世話をしたり、何かしていないと壊れそうでした。

——その時にも誰にも相談できなかったのですね。

いませんでした。助けられるより助けたい性格が邪魔をしたのだと思います。

その間に曲を作ったとしても、その曲は日の目を見ないかもしれない、もうライブもできないかもしれない、表に立つことはできない。そんな思いの方が強かったので、作れませんでした。

そんな絶望感が続いて、最終的にまた薬に走りました。

▶「「絶対に治せる。私たちがサポートする」 面会室で一緒に泣いた家族がかけてくれた言葉」に続く

撮影・後藤勝

【田中聖(たなか・こうき)】ミュージシャン

1985年、千葉県柏市出身。12歳からジャニーズ事務所に所属し、アイドルグループ「KAT-TUN」のメンバーの一人として活動。2013年9月、「度重なるルール違反」を理由にジャニーズとの契約を解除された。その後もバンド「INKT」のメンバーとして活動を続けたが、2017年大麻取締法での逮捕(不起訴)をきっかけに活動を休止。その後、2022年2月、同年9月、覚醒剤取締法違反で逮捕。最高裁で上告が棄却され実刑判決が確定した。この間も音楽活動を続けており、収監前に再起を誓う「Love Yourself Again」をレコーディングした。能登半島地震のチャリティーソングとして公表する予定。


【田中聖さん独占インタビュー】

  1. 「代わりはいくらでもいる」 一人ですべてを抱え込んだ田中聖さんが覚醒剤に頼らざるを得なかった理由
  2. メディアのバッシング、SNSの誹謗中傷 「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ
  3. 「絶対に治せる。私たちがサポートする」 面会室で一緒に泣いた家族がかけてくれた言葉
  4. 「もう一度、自分自身を愛そう」 田中聖さんが収監直前にレコーディングした新曲に込めた思い

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コメント

2ヶ月前
brown

 このメディアは、田中聖さんに対して真っ直ぐな取材をされ、真実を書こうとされていると感じました。

 田中聖さんの真実に触れることで、私は聖さんに対して尊敬と、同じ人間としての親しみを感じました。

 能登半島地震のチャリティーソング…しんどいことを何度も何度も何度も乗り越えきた聖さんの歌は、人の心を慰め、励ましてくれるのではないかと思います。応援したいです。

2ヶ月前
ひろ

連載第2回目の更新ありがとうございます。

聖くんが覚せい剤発覚の時点で、本当に死を選ばなくてよかったと心から思いました。

聖くんが旧ジャニーズ事務所から契約解除されたとき、バーを経営していたと聞いたことかあったので、そのお話をきくことができてよかったです。

聖くんも言われていますが、わたしもメディアに不信感しかありません。

聖くんが「火種がないところから煙を出すのがメディア」という主旨のお話をされていたことがあり、その時から本人の口から出た言葉しか信じないようにしてきました。

留置場でライブの夢を毎日見て、ステージの上からだんだん客席側になっていったお話を聞いて、胸が苦しくなりました。

わたしの見る夢では、いつだって聖くんはステージに立っていました。

収監前に再起を誓ってレコーディングしていたとは、、、

いつか聴ける日が来ることを願っています。

明日も更新してくださるとのこと、ありがとうございます。

明日もしっかり読ませていただきます。

2ヶ月前
匿名

聖お願い!何でも1人で頑張ろうとしないで欲しい!私はあなたの復活を待って居るけど1人で抱え込むとプレッシャーとストレスで癒しが欲しくなる!またステージに戻って来てくれるなら頼る人では無くて協力してくれる人を作って欲しい!個人で活動するなら協力してくれる信頼できる人を何人か作って復活して欲しい!

私はあなたがまた這い上がって欲しいから!

芸能人でこんなに好きになったの聖だけだから!大好きな気持ちは今でも変わらないからね!

2ヶ月前
あーこ

アイドル時代から優しい人だから聖は分かってました。見た目と違ってファン思いで優しい人。聖のライブの時私がコインロッカーの事で困っていたら聖がライブハウスの人に聞きに行ってくれた事。あぁこの人をずっと好きで居ようと思いました。逮捕の時は凄く悲しかったです。

でも聖は人に頼るのは苦手なのは分かるけど今家族、友達に頼って欲しいな!私は1ファンで何も出来ないけどあなたの事が大好きです。絶対1人で頑張ろうとしないでね!頼るのはあまえでは無いからね!

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