「女の子を産んだら、この子も私を憎むかもしれない」アルコール依存症の父と無関心な母のもとで育った女性の苦悩
焼き芋の移動販売で、月商100万円。焼き芋開業講座を開講すれば累計数千人が訪れ、2023年には自身初の著書も出版した阿佐美やいも子さん。周りが羨むような華やかなキャリアを手にしても、「人の顔色をうかがう」「目にみえる数字でしか自分の価値を見出せない」といった生きづらさは消えない。「子どもを持つのが怖かった」のも、幼少期に安定した愛情やサポートを受けられなかった影響の一つだ。

公開日:2025/07/07 02:00
アルコール依存症の父は、酒を飲んでは家具を破壊し、母を殴ったーー。
阿佐美やいも子さんは現在、11歳と15歳の子を育てる母親でもあるが、自身の妊娠がわかったとき「女の子だったらどうしよう。その子は私のことを殺したいと思うかもしれない」と恐怖を感じたという。それはなぜなのか、Addiction Reportは話を聞いた。(ライター・白石果林)
【前編はこちら】
「お父さん、一緒に焼き芋売りませんか?」焼き芋屋店主・阿佐美やいも子さんが語る「アルコール依存症の父と過ごした時間」
「この子も私を殺したいと思うかもしれない」
アルコール依存症の父が、母に暴力を振るう姿を間近で見て育った日々は、いも子さんの私生活に大きな影を落とした。
「幸せになれないとわかっているのに、まともな人を好きになれないんです。付き合ってた人から初めて殴られたときは、『本気で私のことを考えてくれてる』と感じました。『気が利かない』『ご飯がまずい』などと、ことあるごとに殴られたり怒鳴られたりしましたが、気に入られたい一心で彼に尽くしていた。依存していました。でもあるとき、ふと彼の後ろ姿を見て『あれ?お父さんそっくり』と思って。あんなに嫌いだった暴力的な父親と同じような人を好きになっていたんです。心では父を求めていたのかもしれないって、複雑でした」
父のような男性を選んでしまう自分に気づいた彼女は「このままじゃまずい」と感じ、意識的にパートナー選びを変えることにした。そして出会ったのが、現在の夫だった。
「夫は円満な家庭で育った人。『死にたい』なんて思ったことがなく、『家族が大好き』と話す人でした。本当にそんなに幸せな人がいるの?と違和感しかなかった」
彼は自分を大事にしてくれる、約束を守ってくれる。今までにない経験に、当初は「私のことなんて大事にしなくていいのに」と気持ち悪さを感じた。しかし一緒に過ごすうちに、その気持ちにも変化が訪れる。
「だんだん優しさに慣れていったんでしょうね。こんなに愛情深い人と一緒だったら、自分も子どもをもてるかもしれないと思えるようになりました」
しかし、32歳で妊娠がわかったとき、感じたことのない恐怖が彼女を襲った。
「もし女の子だったらどうしよう、と思いました。私が昔、両親を殺したいと思ったみたいに、この子も私を殺したいと思うかもしれないって。お腹の子が男の子だとわかったとき、『男の子なら、夫がいるから大丈夫だ』とホッとしたことを覚えています」

4年後、女の子を妊娠
長男出産後のことを、いも子さんはこう振り返る。
「子どもを産むと親のありがたみがわかるって言うじゃないですか。でも私は全然わからなかった。母は家事をしない、つくるご飯もおいしくない、私の話も聞いてくれない人だったから。私が今この子を可愛がっているように、どうしてお母さんはしてくれなかったの?って悲しくなりました。周りの人は里帰り出産をしたり、手伝いに来てもらったりしてるのに、私は逆に母の面倒を見なきゃいけなかった」
子どもを可愛がるほど、自分がしてもらえなかったことに目がいき、悲しみや怒りが募った。
4年後、36歳で2人目を妊娠。今度は女の子だった。1人目を妊娠したときに感じた恐怖が蘇った。藁にも縋る思いで足を運んだのが、助産院の『母親との関係を見直す』というプログラム。
そこで、母親に手紙を書いたという。
「『友達から、(母のことを)“あれ、おばあちゃん?”と言われて恥ずかしかった』とか、『家が汚いのが嫌だった』とか、子どものときに我慢していたことをバーっと書いたんです」
すると、幸せに感じていた瞬間も蘇ってきた。
「家にお風呂がなかったから、よくお風呂屋さんへ行きました。母と夜道を一緒に歩いた時間が、すごく幸せだったなって」
最後は自然と、「産んでくれてありがとう」と書くことができた。
これを読んだら、母は涙を流して「ごめんね」と言ってくれるかもしれない。母との関係が何か変わるのではないかーー。そう期待した。
「それが、『ふーん』で終わったんですよ。当然なにかが変わることもなかった。この時初めて、母は無関心というか、あまり感情がない人なんだって割り切れました。期待した結果とは違っていたけれど、『娘が私を殺しにくる』みたいな気持ちは不思議となくなったんですよね」
父の血を引いている自分にゾッとする
子どもたちは今、11歳と15歳。これまでを振り返り、「よく子どもを持つことができたと思います」と笑顔を見せる。
「もちろん、すべてがうまくいってるわけじゃありません。手伝ってくれないとか、散らかしてばっかりとか、イライラして物にあたってしまうことがあって、父の血を引いている自分にゾッとすることがあります。穏やかな夫には、『(怒りっぽいの)なんとかならないの?』と言われたりするんですけど、どうにもなりません」
根本的な問題は、幼い頃から感情を素直に表現できなかったことにある。
「昔から、嫌と思っても言えなかった。両親や周りの人の顔色をうかがってばかりいるうちに、何が嫌なのか、どうしたいのか、自分の気持ちがわからなくなってしまいました。だから知らないうちにモヤモヤがたまって一気に爆発しちゃうんですよね」
焼き芋屋を営む彼女は、最近仲間と一緒に事業を行うようになったそうだが、ここでも「人の顔色をうかがう」癖に苦戦しているという。
「相手の機嫌を損ねないように、嫌われないようにって思いが強すぎて、たとえば交渉が必要なシーンでも『図々しいと思われるかな』と意見が言えません。自分が一番働いていないと仲間が離れてしまう気がして休めないし。今は、自分の心の声を意識的に聞いたり、怒りを小出しにしたりするように心がけています」
取材中も、「私の話、大丈夫ですか?」と心配そうに尋ねるいも子さん。「自分の話なんて、つまんないだろうなと思っちゃって」と苦笑する表情が印象に残る。
「だからこんなに自由な発想ができるのね!」

「仕事があって、夫と子どもがいて、なんで自分がこんなに幸せになれたんだろうと考えたんです」
いも子さんはそう言ったあと、「親と離れたからなんですよね」と続ける。
「自分の人生は、あってないようなものでした。焼き芋屋を始めたときも、『自分が両親を背負っている』と思っていたし、父が亡くなったあとも、母を支えなきゃいけないって。でも母は、父が亡くなってから憑き物が落ちたようにのびのびと暮らし始めた。文句ばかりだった母が穏やかになって、『これが本来の母だったんだ。もう私がいなくても大丈夫だ』と思えて、やっと肩の荷をおろせたんです」
母は数年前に他界。家族でお見舞いに訪れた翌日の朝、病院で亡くなったそうだ。
「入院してたのも1週間くらい。83歳でしたが最後までしっかりと話しができて、私の手を煩わせることもなく、綺麗な最期でした」
いも子さんは今、「育ててくれた両親に感謝している」という。「殺したい」とまで考えた相手に感謝できた背景には、どんな心境の変化があったのだろう。
聞くと、これまで恥ずかしいと思っていた家庭環境が、まったく違った角度から評価された出来事があったという。
「以前、いつものように焼き芋を売ってたら、お客さんから聞かれたんです。『女性で焼き芋屋なんてすごい発想ですね! どんなご家庭で育ったんですか?』って」
いも子さんは正直に答えた。アルコール依存症の父親が毎晩酒を飲んで帰宅し、暴れていたこと。母親には聴覚障害があり、十分にかまってもらえなかったこと。
するとお客さんが言う。「だからこんなに自由な発想ができるのね!」。この反応はまったく予想外だった。これまで隠したかった過去が、むしろ自分の強みとして捉えられたのだ。
「小さい頃から学校の書類も自分で書いたり、年末調整のような大人がやる書類も私が見てあげたり……とにかく自分で考えて、自立するしかない環境でした。子どもらしくいられなかったことを恨んだこともあったけど、お客さんの言葉で『あぁ、あの環境が私を焼き芋屋さんにさせてくれたんだ。あの生活も無駄じゃなかったんだ』と思えたんです」
「夫と出会うまで、私には生きる希望がありませんでした。こんな自分が、幸せな人生が送れるわけがないって。でも今、家族がいて仕事もある。生きづらさとか、苦しみみたいなものが完璧になくなることはないかもしれないけど……あんな環境からここまで生きてきた自分を褒めてあげたいです」
【阿佐美や いも子】
埼玉県出身。「いも子のやきいも」店主。月給12万円のパート調理師から、一念発起してリヤカーで焼き芋屋を開業。介護、出産、育児に取り組みながら20年、月商100万円を売り上げる焼き芋界のカリスマとして、メディア出演30回以上。現在は、冬は焼き芋、夏は人力かき氷を販売する傍ら、焼き芋開業講座や、営業のブランディングを確立する講座も開催。2023年には自身初の著書『いも子さんのお仕事 夢をかなえる焼き芋屋さん』(みらいパブリッシング)を出版。