「お父さん、一緒に焼き芋売りませんか?」焼き芋屋店主・阿佐美やいも子さんが語る「アルコール依存症の父と過ごした時間」
70歳を過ぎた父親が捕まり、警察のすすめで病院を受診。これがきっかけで父のアルコール依存症と、自身の共依存に気づいたと話す阿佐美やいも子さん。これまでの生活を振り返ってもらった。

公開日:2025/07/06 02:00
焼き芋の移動販売を始めて20年。月商100万円を売り上げる経営手腕から、メディアにひっぱりだこの阿佐美やいも子さん。2023年に上梓した自身初の著書『いも子さんのお仕事 夢をかなえる焼き芋屋さん』(みらいパブリッシング)では、アルコール依存症の父、聴覚障害がある母との暮らしを明かし、反響を呼んだ。
焼き芋屋を始めたことがきっかけで「家族の時間を過ごせた」と語る彼女に、Addiction Reportは話を聞いた。(ライター・白石果林)
唯一心が落ち着くのは、父親がいないとき
いも子さんは、いつもは物静かだが突然キレて暴れる父と、聴覚障害がある母のもとで育った。
「両親は当時にしては晩婚で、私は父が43歳、母が41歳のときに生まれました。私の前にもふたり子どもがいて、ひとり目はお金がなく堕ろして、ふたり目は流産したと聞いています」
物心がついたときから、父は毎日のように外で飲んで帰ってきた。酒に酔うと、「ご飯が炊けてない」「作業服の裾上げができてない」「探し物が見つからない」など、些細なことで物を投げたり、母を殴ったりした。
父親がいも子さんに暴力を振るうことはなかったが、喧嘩は絶えず、ひどいときは炊飯器などの電化製品が飛んできた。
「母は聴覚障害があったし、親戚からも『あなたがしっかりしなさい』『面倒を見てあげなさい』と言われていて、私が助けてあげなくちゃと思っていました。だから母が殴られていても、隠れているだけで助けてあげられない自分が嫌だった。唯一心が落ち着いたのは、父親がいないときです」
カッとなりやすい父親は、「頭に来たから辞めてやった」と職場を突然やめてしまうこともたびたびあったという。
「父が仕事を転々としていたから、うちは貧乏でした。お風呂もないボロアパートだし、かろうじて生活スペースが残っている程度のゴミ屋敷のような感じ。大家さんからもよく『汚い』と怒られていました。こんな家に住んでることを友達に知られたくなくて、裏口からこっそり家に入っていたんです」
当然、同級生のように友達を家に招くようなこともなかった。だが小学生のときに一度だけ、自宅で誕生会を開くことになったという。しかし、「悲しい思い出だなぁ……」といも子さんは表情を曇らせた。
「そのときだけは母が家を綺麗にしてくれました。でも嬉しさより、友人たちに親を見られる恥ずかしさの方が大きかった。父はヤクザのような見た目で、いつも母から『汚い』『臭い』と言われていたし、母もおばあちゃんみたいだったから。友達の家のような可愛い飾り付けがないことも、茶色いおかずも、おいしくない小さなケーキもなにもかも嫌で、私は逃げ出してしまったんです」
主役不在の誕生日会は、そのあとすぐお開きになった。
「親を殺すか、自分が死ぬか」
酒を飲んで暴れてばかりいる父だったが、頼りになるところもあった。
いも子さんは中学生のとき、通学中に高校生が乗るバイクと衝突。幸い大きな怪我はなかったが、相手の高校生は逃げてしまった。
「父は『泣き寝入りしちゃダメだ』と言って、私を連れて近隣の家を一軒一軒回りました。やっと犯人を見つけた時は怒って、警察を呼んで対処してくれたんです。両親ともに私に無関心だったので、『私のために怒ってくれるんだ』と意外に思ったことを覚えています」
だが良い思い出と言えばそれくらいで、酔って暴力を振るう姿に嫌悪感は募る一方だった。母親も常にイライラいて、家庭では喧嘩のとき以外、ほとんど会話がなかったそうだ。
19歳のときに、父と母が働く工場が倒産。60歳を過ぎていた両親は、たまに単発のアルバイトをする程度になった。
ファミレスやカラオケ、工場の仕分けなどのアルバイトをするいも子さんが生活費を工面し、母親の病院にも付き添った。
「私がなんとかしなきゃ、とずっと思っていました。でも私はADHDで、言われたことを覚えられないし、遅刻も多く、どのアルバイトも半年以上続かなかった。あの両親のもとで育ったせいか、自分には価値がないと思い込んで生きてきましたが、まともに働くことすらできないんだと自分が嫌になっていく一方でした。どこにも居場所がなかった。親を殺すか、自分が死ぬか、どちらかしかないと考えたこともあります」
焼き芋屋をきっかけに「家族の時間を過ごせた」
転機となったのは、28歳で焼き芋屋を始めたことだった。
「何かを成し遂げれば、自分に自信を持てるんじゃないかと思いました。昔からカフェを開くのが夢だったんですが、資金的にも厳しかった。ある日読んだ本に、焼き芋屋は開業手続きが簡単で、低コストで始められるとあって、これなら自分にもできるかもしれないと考えました」
初めて移動販売に挑戦する日、いも子さんは自宅で酒を飲んでいる父に言った。
「お父さんにお願いがあります。ひとりで行くのが怖いから、一緒に行ってください」
仕事を辞めて家でケンカばかりしている両親に、何か役割を与えたい気持ちもあった。
「どうせ断られるだとろうと期待していませんでしたが、『いいよ』と言うから本当に驚きました。一緒に近所の公園に行って、父が焼き芋を売る姿を見ていたら、交通事故の犯人を一緒に探してくれたときの気持ちを思い出して。父なりに、私への愛情があったんだなと思えました」
まともに話すのは久々だったが、一緒に仕事をしていると父の新たな一面が見えてきた。
「車のパンクを自分で直せるほど器用だったり、七輪の中に入れる炭の位置を定規で測るほど几帳面だったり。お酒は変わらず飲んでいましたが、職人だった父の仕事ぶりが頼りになりました」
母も家で芋を洗ったり、新聞紙で袋を作ったりして手伝ってくれた。ふたりに給料を支払っていたとはいえ、はじめてともいえる家族の時間だった。

70歳を過ぎて「アルコール依存症」と診断
しかし穏やかな日々は、長くは続かない。ある日、警察から電話があった。駆けつけると、70歳を過ぎた父が、スーパーでレジを通さないまま商品を持ち帰ろうとしたという。
「店員さんに注意されて、暴れたそうです。父には認知症のような症状もあったので、警察から勧められて病院へ行きました。そこで『アルコール依存症です。今からでも遅くないから入院させたらどうですか?』と言われたんです」
父がアルコール依存症だなんて考えたこともなかった、と当時を振り返る。
「ただの『酒癖の悪い人』だと思ってました。父にはお酒しか楽しみがないから『入院はかわいそう』と言ったら、『ご家族も共依存の状態ですよ』と指摘されて。お酒を買い与えていたことも、迷惑をかけた近隣の人に父親のかわりに謝ることも、今思えば共依存だったんですよね」
父は本当に依存症なのだろうか。にわかには信じられず、いも子さんはアルコール依存症当事者の自助グループに足を運んでみたそうだ。
「父と同じような人がたくさんいました。酒を飲んで暴れていた話や、断酒してからの生活を語っていて、その時初めて『父もアルコール依存症という病気で、父なりの苦しみがあったんだ』と理解できた。父は年を取っても、母に暴力を振るっていました。それがお酒によるものだとしたら、治療すればふたりにとって穏やかな老後があるのかもしれないと、入院を決めました」
入院すると父は、「帰りたい」「ここから出してくれ」と、たびたび電話をよこすようになった。
「その声を聞くのがつらかった……」当時を思い出したのか、いも子さんは両手で顔を覆う。
罪悪感に苛まれた彼女は、2週間で父を退院させてしまう。しかし自宅に戻って数日、父は再び酒を飲んでトラブルを起こし、警察に捕まった。
「もう手に負えない」と再びアルコール専門病院に入院させた矢先、飲酒が原因で腎機能が低下していると判明。治療のため転院するも病状は悪化し、しばらくして父親は亡くなった。
いも子さんは、父のことをこう振り返る。
「父は自分が生まれた家でも乱暴者だと嫌われて、中学のときに追い出されるように家を出たそうです。仕事を探すために秩父から上京して、乱暴な自分を必死に抑えて働いていた。真面目にやってれば褒められると思っていたのに、頑張っても報われなかったんでしょう。小さいときの暴れたかった自分を、アルコールが解放してくれていたのかもしれません。父が本当に苦しんでいたのか、何に苦しんでいたのかはわかりませんが、アルコール依存症は父なりに苦しみから逃れようとした結果だったと理解しています。こう思えるようになったのは、一緒に焼き芋を売った時間があったおかげですね」
【阿佐美や いも子】
埼玉県出身。「いも子のやきいも」店主。月給12万円のパート調理師から、一念発起してリヤカーで焼き芋屋を開業。介護、出産、育児に取り組みながら20年、月商100万円を売り上げる焼き芋界のカリスマとして、メディア出演30回以上。現在は、夏は焼き芋、冬は人力かき氷を販売する傍ら、焼き芋開業講座や、営業のブランディングを確立する講座も開催。2023年には自身初の著書『いも子さんのお仕事 夢をかなえる焼き芋屋さん』(みらいパブリッシング)を出版。