父と酒、家族の記憶(後編)——家族療法の中で、アルコール依存症とわかって・・・
高校中退後、石田月美さんは姉が住む大阪でアルバイトに明け暮れた。その後、摂食障害となった。東京に戻り、インターネットで摂食障害が治療できる精神科クリニックを探した。その治療中、家族が同席する中で、父親がアルコール依存症と指摘された。

公開日:2025/09/17 02:30
エッセイストの石田月美さんは高校中退後、姉が住む大阪へ向かった。そして姉と二人暮らしを始めた。
「それまでは友達の家を転々とするか、路上で寝ていました。大阪では昼間はファッションビルのショップ店員としてアルバイトをしていました。当時はショップ店員ブームだったこともあります。夜はお好み焼き屋さんでバイトしていました。バイトに明け暮れていました。
この頃、父と向き合うというよりは、『私がまちがっていたのかもしれない』と思うようになっていました。もう限界でした。ボロボロでした。『父が言ったようなレールの上を歩いた方がいいのでは』とも考えていました」
この頃、摂食障害になってしまう。
「昼も夜も接客業でしたし、大阪では東京弁は嫌われました。そのため、食べることでストレス発散をしました。『つらい』『寂しい』が言えないからとにかく食べました。体質的に吐けないので、嘔吐はできず、過食症になりました。大阪には、知り合いも、愚痴を言う相手もいませんでした。
(家になかなか戻らない私が)宿ができたことで泊まる場所の心配はなくなりましたが、お金のことで頭の中がいっぱいになりました。この先どうなっていくのだろうと、行き詰まりました。食べることで太ってしまい、働いているショップの服を着られなくなっていったのです」
摂食障害と父の存在は関係があるか考えない
当時は173センチだった月美さんだが、体重が70キロくらいまでになった。父親との関係性は摂食障害と関係があるのだろうか。
「アルコール依存症である家族がいる家庭で育ったという意味ではアダルトチルドレン(AC)です。ACは世代間連鎖するとも言われています。安定した生活を送っていれば、摂食障害にはならなかったと仮定すれば、摂食障害と父との関係はあるのかもしれません。しかしそういった類のことはなんとでも言えます。私は考えたことないですね。父と摂食障害のことをよく紐づけられるのですが、ピンとこない」
月美さんは東京へ戻った。そして父の目の前で土下座し、大学受験をすることになる。
「父に土下座をしながら『申し訳ありませんでした。勉強させてください』と言いました。すると、父は高倉健のように『わかった』と一言だけ言いました。そして父と一緒に住んで、半年間、受験勉強をしました。予備校には行かず、参考書を買って勉強していました」
志望校を決めるとき、父親は口を出した。国立の外大を勧められた。月美さんは外大も受験したものの、自身の希望を叶えようとした。
「父は大学を出ていないため学歴コンプレックスがあり、自分と同じ苦労をさせたくないと願っていたんです。そのこともあり、私は大学を目指すことになりました。その時に好きな人がいて、その彼が通っている大学に行きたいと思っていました。その大学の、複数の学部を受験し、いずれも合格しました。父はその中で、法学部を勧めました。私自身、どこの学部でもよかったのと、合格した学部の中で偏差値が高かったこと、それに実学という意味もあったため、最終的に法学部に入ることにしました」
摂食障害と家族療法 「父が来るなんて思ってもなかった」
大学はキラキラした生活をしていたが、反動なのか、直接的な理由はないが、鬱になってしまう。そのため、ひきこもりになり、大学を中退した。体重も最大で90キロになっていく。この頃、摂食障害の症状が悪化していた。
そんな中で、インターネットで「摂食障害 精神科」と検索し、専門的に取り組む精神科クリニックを見つけ、足を運んだ。そこで初めて「家族療法」という言葉を知った。最初は家族面談が始まり、母親も同席した。やがて弟が詐欺罪で逮捕されたことをきっかけに父もクリニックに顔を出すようになった。

「父が来るなんて思っていませんでした。父からすれば、私と母が(クリニックに)取られてしまったという感覚だったんだと思います。父自身にアルコールの問題があるという感覚はないと思います。昔から父はお酒をすごく飲んでいましたし、お酒を飲むと暴れたりしていました。『下町のナポレン』と呼ばれた『いいちこ』という焼酎を飲んでいました。すごく飲んでいました」
父親は、家族療法に協力的だったわけではない。当初、なぜか、顔を出していた。
「私が3年目の通院の頃でした。父が参加した最初のセッションで、主治医から『依存症ってご存知ですか』などと遠回しに言われました。父は2回だけセッションに参加したんです。『行く必要はない』『お前らは勝手にしろ』と言っていました。居心地が悪かったと思います。それでもよく2回とも料金を払い、足を運んだと感謝しています。セッション中、劇的な変化はなく、父は居心地悪そうに座り、黙っていました」
父との和解「父を変えようとしたわけではない」
家族療法に協力的でなかったが、月美さんにとっては、父がそこにいたという事実が重要だった。
「主治医は父のことを『典型的なアルコール依存症のお父さん』と言っていました。私は、父を変えようと思ったわけではありません。主治医に『父がアルコール依存症だ』と認められたことで、私の中で『自分に関する情報が増えた』と思い状況が整理されました。一方で、父は父のままでいいんだ、とすんなり思うようになったんです」
家族療法やミーティングで、自分のこと、父のことを何度も語った。仲間の話を聞き、他の「アルコール依存症の父親」と自分の父とを重ね合わせることで、月美さんは父を「一市民」として見られるようになっていった。
「父を『毒親』と言えば簡単です。でも父は父なりに必死に生きていた。きつい仕事をしてきたので、お酒があったからやってこられた部分もあったはず」
記憶を塗り替える作業
月美さんは結婚し、子どもが生まれた。父親にとっては孫だ。父親は孫ができたことで穏やかになり、柔らかい笑顔を見せている。今でも酒は手放さないが、かつてのように暴れることは少なくなったという。

「私と父はいろいろあったけど、最後は『よかったね』と言って見送りたい。わだかまりを抱えたままではなく、いい記憶だけ残して、死んでいってほしいと思っています」
月美さんは父との良い思い出だけを集めたビデオレターを作る。それを「記憶改竄ムービー」と呼んでいたりする。海で泳ぎを教わったこと、漫画を一緒に読んだこと、クイズ番組を見て楽しんだこと——苦い記憶と並んで、父の優しい瞬間を再編集するためだ。
「父を変えるより、自分が変わることの方がずっと大切です。私だって大人にならなければ。『父は未熟だったけれど、頑張って生きた人』、そう思えるまで、時間はかかったけれど、ようやく同じ地平に立てた気がします」
月美さんは「夫婦別姓論者」だという。別姓のほうが自由に生きられるのではないかと、一般的には思っている。しかし、結婚後、月美さんは姓を変えた。
「両親に対する感情がなければ別姓にしていたかもしれません。姓を変えたのは、『あなたたちの娘ではない』という選択でした。両親と切り離しをしたつもりです。もちろん、別姓は法的にまだ認められていないので夫との関係上変えたということもあります。ただ、私は両親と愛憎にまみれながら、ずっと実家にひきこもって、ニートをやらせてもらっていましたから。問題ばかりでしたが、もうあなたたちの庇護下にいない。別姓にしないと、親はどこまでもまとわりつく。だから『ありがとう、バイバイ』って」
(おわり)