成績がよく、両親も大好きなのに……生きていることが虚しくて市販薬をオーバードーズ
成績は良く、両親も愛情深い。なのに生きているのが虚しくて、しんどくてたまらない。そんなつらさをぼやかすために市販薬をオーバードーズしているミオさんの物語、前編です。
公開日:2024/12/12 02:01
若者の間で広がっている市販薬のオーバードーズ(過量服薬)。
家庭環境に問題のない人でも、自身のストレスや心の痛みを紛らわせるために薬に頼ることがある。
そんな一人、都内に住む大学浪人中のミオさん(仮名、19歳)に話を聞いた。
中学の頃から原因不明の精神不調
中学の頃から、原因はわからないが精神的に不安定だった。愛情深く、理解ある両親のもとで育ち、名門の中高一貫校でも成績はトップクラス。周りから頼られるキャラクターでもあり、自身の精神的な不調を誰にも言うつもりはなかった。
「成績はいいし、部活も楽しいのに、ふと、なぜか空しくてなんで生きているのかわからなくなる。人といても急に『なんで私ここにいるんだろう』と外側から自分を眺めている気分になるんです。自分の性格のせいだと思い、今後もこの性格で生き続けていくのかと不安になっていました」
「本当にいい両親に育ててもらったと思っていますし、家庭環境に原因があると思ったことはありません。親は自分のことを元気な娘だと思っていたし、自分でもそういう自分でありたかったんです」
中学2年生の頃から過食嘔吐を始め、自傷行為を始めるようになった。オーケストラの部活で使う鉄の譜面台を太ももなどに打ち付けて、アザを作る。
「ストレスで一度吐いてしまったのがきっかけで、吐いている時の自己コントロール感のようなものにハマりました。自分で自分の精神状態をどうにもできないのがもどかしかったので、自分で食べたものを自分で吐き出して摂取カロリーをコントロールできることが快感でした」
コロナ禍でエスカレートする自傷行為
そこからは形を変えて、様々な自傷行為をした。
中学3年に上がる頃に新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、通学もなくなった。オンライン授業はほとんどない学校で、一人、自宅で課題をこなす。大好きなオーケストラ部で担当する管楽器は「飛沫が飛ぶ」として、他の楽器が解禁された後も厳しい制限が加えられた。
「学校には行けないし、部活もできなくてすごくしんどかった。部活が生きがいでしたから」
その頃から、自傷行為に刃物を使うようになった。最初は太ももをカッターで切っていた。周りにバレたくなかったから、服で隠れる場所にしていた。
「切ると単純にすっきりする。コロナ禍で世の中の中高生はみんな辛かったと思います。私が所属していたのはコンクールに出るような部活でもなかったし、私だけが辛いんじゃない、自分なんかが辛いと言う資格もない、とずっと思っていました」
自傷行為をすると、その傷跡を写真に残していた。それを見るとやっと、「私も辛いんだな」と確認することができた。
性的指向に気づき、同性の恋人も
中学3年になると、同性を好きな自分に気づく。性同一性障害かどうかはわからないが、女性らしくなっていく自分の体が嫌で、胸を押しつぶしたり、それまで長かった髪を切ったりした。
高校では同性の恋人ができた。彼女も精神的に大人びていて周りと馴染めず、精神的に不安定だった。
「性的指向や自傷行為についても話し合えて、お互いを大事にし合って幸せでした。それでも自傷行為は止みませんでした」
性的少数者であることを深く思い悩んでいたわけではない。初めは女子校にいるとよくあることなのかと思っていたが、高校に入った頃にそうではないことに気づいた。でも、恋人と「なかなか理解されないよね」と分かち合うことができた。
「ただ自己肯定感は下がりました。普通でいたかったな、と思いました」
精神科クリニックで「双極性障害」と診断
精神的な不安定さは高校でも続いた。
高校1年の秋からは、部活の幹部になる。ミオさんが所属していたオーケストラ部では、顧問の先生との連絡から選曲、練習計画、運営、コロナ対策、後輩の指導まで幹部が行う。もう一つ所属していた軽音部の負担は減らしていたのに、つい手伝ってしまい、負担がのしかかっていった。
高2の6月に大きな校内演奏会を終えると、肩の荷が降りて緊張の糸が切れたのか、体がいうことを聞かなくなった。
「朝ベッドから起き上がれないし、学校を休んでしまう。ギリギリ登校できても、帰ったらベッドに倒れ込んでしまっていました」
心配した親にメンタルクリニックに連れていかれた。
「自分がそれまで積み上げてきたものが崩れてしまう気がして、精神科には絶対行きたくなかった。“できる側の人間”で、頼られる自分が好きだったのに、周りからの見方が変わってしまうと思いました。心配されたり、頼る側になったりするのが嫌で、こうありたいという自分から遠ざかる不安を感じました」
診断は、「双極性障害」。躁状態とうつ状態を交互に繰り返す病気だ。精神科に行けば何らかの病名はつけられるだろうと予想はしていたので驚きはなかったが、親はとても驚いた。
「精神科医や医療を全く信用していなかったので、診療に同席した親の前で話せる範囲のことしか医師には話さないし、自傷のことも黙っていました。事前に話を練って、親の前で見せていた自分と現状が上手く繋がるように話しました」
抗不安薬などを処方され、きちんと飲んだが、改善された感覚はなかった。
病院を次々と変えたが、どこであっても、主治医に自分の心の内を話すつもりはなかった。
処方薬、市販薬のオーバードーズを始める
メンタルクリニックを転々としていた高校2年生の秋、オーケストラの引退公演があった。最後の公演でのソロ演奏も無事終え、部活の運営や後輩の指導という責任も手放した。
「それが終わるとみんな大学受験の準備に入り、私はどうしたらいいかわからなくなりました。人のために何かをするのが好きで、自分のためには頑張ることができない。何もかもどうでもよくなってしまいました」
学校も度々休むようになった。朝起きられなくて昼過ぎまでベッドで寝ていた日、「流石に5、6限は出なくちゃまずい」と、処方されていた抗不安薬を10錠、飲んだ。フラフラして記憶は途切れ途切れだったが、友達の力も借りて何とか登校した。
「シラフの頭だと過去の自分ができていたことができないことがしんど過ぎて向き合えない。頭をぼやかさないと学校に行けないなと思い、そこから市販薬のオーバードーズも始めるようになりました」
方法を知ったのは2年前、自傷行為を行なっていた中学3年の頃。同じように自傷をしている人の記事をネットで読んだり、S N Sで自傷する人のアカウントを見たりして、たまたま市販薬のオーバードーズのレポートを見つけた。
「この薬をこれだけ飲むとこういう効果が得られる、いくらぐらいで買える、と経験談を書いているレポートでした。本当にしんどくなったらいつかやろうと思って、そのスクリーンショットを取っておいたんです」
久しぶりにそのスクリーンショットをスマホで取り出し、アレルギー薬と総合感冒薬、鎮痛薬を組み合わせて飲んだ。最初は控えめに飲んでいたが、すぐに量は増え、1日70錠飲むようになる。本を買ったりライブに行ったりするために使っていた毎月5000円のお小遣いを、全部市販薬に注ぎ込むようになった。
「最初は学校に行くために飲んでいました。頭はぼーっとするのですが、ギリギリ歩いて学校に行って、座って授業は受けられる。それぐらいで収まるように量を調整していました」
親にバレても、止められず
だが、これはすぐに親にバレた。
「最初は調節が下手だったので保健室に度々寝に行っていて、保健室から父親に連絡が入ったようです。でもその時は父は母親には言わないでくれていました」
ただ12月の朝、いつもより多めの90錠を飲んで登校しようとしたところ、フラフラで立っているのもしんどそうな自分を見た友達に「いつもと違う」と気づかれた。その場で学校に電話し、友達が信頼している先生を呼んでくれて、二人に背負われて学校に行った。
学校に着くと、すぐにタクシーで病院に連れていかれ、母親にもバレた。そこからは親が処方薬を管理するようになった。
「母は父とはすごく心配してくれて二人で相談していたのだと思いますが、私にはあまりうるさく言わないでくれました。ただ『心配しているよ』とだけ言ってくれていました」
先生や親にバレるたびに、少しの期間、市販薬のオーバードーズは止む。しかし、しばらく経つとまたしんどくなって、再び始める。その繰り返しだった。
拒食や過食嘔吐、自傷も続けていた。
修学旅行先で救急搬送
高校3年になると、本格的に同級生たちは大学受験の空気になっていった。ミオさんの成績は伸びず、学校にも本格的に行けなくなっていった。
市販薬のODを続けていたが、4月に行われる修学旅行の委員も務めていた。修学旅行先の奈良で朝から70錠飲んでいたのに、夜に突然、何もかもどうでもよくなり、「今死んでもいい」という気持ちに襲われた。
「死のうと思って飲んだわけではないのですが、飲んで結果的に死ぬならそれでもいいかなと思って、追加で70錠飲みました」
倒れているところを先生に発見されて救急搬送され、翌日、両親が迎えにきた。両親は泣いていた。
「私は修学旅行中に委員なのに倒れて、罪悪感でいっぱいでした」
それでも市販薬を飲むのを止めることはできなかった。せめて肝臓に悪影響のある成分の入った薬は避けるようになったが、オーバードーズは続けた。
付き合っていた彼女には、精神的な不調や市販薬のオーバードーズについて、しばらくは言えなかった。
「自分で許せないことを、人が許せるわけがないと思いました。言ったら嫌われると思って黙っていたんです」
だが、この頃、双極性障害と診断されたこと、自傷がやめられていないこと、市販薬のO Dを続けていることを打ち明けた。彼女はショックを受け、自分を責めた。
「自分はあなたのために何もしてあげられない。あなたのことを受け止められない。救えなくてごめん」と、別れを告げられた。
初めての恋人と別れたことは大きなショックだった。
「過去の自分だったら、こんなに彼女のことを傷つけることはなかったし、関係性が壊れることもなかったのにと思いました。病気になった自分のことがさらに受け入れられなくなりました」
「今日はヤバい」市販薬120錠を一気飲み
高校3年の6月の終わり。その日は朝から「これはヤバいな」という感覚があった。
「今日は自分が何をするかわからないと、朝から思っていました。その頃はあまり大量に飲まないようになっていたのですが、その日は朝から90錠飲んで学校に行きました」
自分でも何とかしたくて信頼している先生に「放課後、話したいです」と面談してもらった。勘が鋭いその先生もいつもと雰囲気が違うことに気づき、自分自身の辛かった子供時代の話をしてくれた。
「後で聞いたのですが、私が自分の人生から目を背けられるように自分の話をしてくださったようです。その時間はやり過ごせたのですが、先生はその日、帰る私の背中を見て『これはまずいな』と心配していたようです」
その日は、薬をたくさん処方してくれる精神科の通院日だった。主治医には毎日市販薬を70錠飲んでいることも伝えたことがあるが、「70錠って危なくない?」と言っただけで、何か対策を立ててくれるわけでもなかった。
「そのこともあって信頼はしていなかったので、薬を出してくれればいいやと思って通っていました。その日も、『眠れていますか?』『眠れていないです』と通りいっぺんの診察を受けて、処方箋をもらって、薬局で市販のアレルギー薬をもう1瓶買って、歩きながら飲みました」
120錠、一気に飲んだ。「120錠飲んだから、もうダメかもしれない」。親しい同級生にそんなLINEを送った。
(このまま家に帰ったら、手が震え出して大騒ぎになるに違いない)
朦朧としながらもそんな計算が働いて、そのままカフェに入って勉強を始めた。1時間ほどしてトイレに立つと、席に戻る時に気を失った。
次に気がついた時は救急車の中。胃洗浄され、目が覚めた時は両親がそばにいた。同級生から連絡を受けて必死に探したようだった。
「絶対に死なないで」
ずっと泣いている両親の顔を見て、ただただ自分のことが許せなかった。
(続く)
なぜ市販薬に頼りながら生きている人がいるのか、取材を続けています。楽になるため、しんどさを忘れるため、楽しむためなど、市販薬を使った体験をお話しいただける方、市販薬に依存している人の支援についてお話しいただける方を広く募集しています。ご協力いただける方は、岩永のX(https://x.com/nonbeepanda)のDMかメール([email protected])までご連絡をお願いします。岩永が必ずお返事します。秘密は守ります。
関連記事
なぜ市販薬に依存するのか?