「体験談は体の芯に届き、生き方を揺るがす」AA日本50周年記念集会開催レポート
「アルコホーリクス・アノニマス(AA)日本」が創立50周年を迎え、記念集会を開催。会場は同窓会のような活気に満ちており、ニックネームを記した名札を首から下げた参加者たちが、仲間との再会や、この日を迎えられた喜びを分かち合う姿が見られた。

公開日:2025/04/03 02:00
飲酒しない生活を目指す自助グループ「アルコホーリクス・アノニマス(AA)日本」が創立50周年を迎え、3月28日から30日までの3日間、記念集会を開催した。5年ごとに記念集会を開催しているAA日本。45周年記念集会は新型コロナウイルスの影響で中止になったため、今回は40周年以来10年ぶりの開催となった。
大宮ソニックシティ(さいたま市大宮区)で行われた今回の集会には、2300人を超える参加者が集まった。参加者の約9割は全国各地や海外から訪れたAAメンバーで、残り1割は医療従事者やアルコール依存症の家族などの関係者(ノン・アルコホーリク)だという。
この記事では、イベントの様子を一部抜粋してお届けする。
「最後の酒/希望」をテーマに語る参加者たち

初日、会場の大ホールは500人近い参加者で席が埋まった。会の冒頭、司会者が「お酒をやめてから、初めてミーティングに参加される方?」と呼びかけ、ちらほらと手が上がると、会場は盛大な拍手に包まれた。
最初のプログラムは「3分間 誰でもスピーカー」。「最後の酒/希望」をテーマに30人以上の参加者が自身の体験を赤裸々に語った。
ある男性は「最後の酒は15年前の4月に飲んだ梅酒。花見に行って、スリップして飲んでしまった」と振り返り、「花見の時期は酒が恋しくなるが、前のような酒浸りの生活には戻りたくない。これを言うためにここに来た」と語った。男性が「もう飲むことはないと思うけれど……飲むとしたらウイスキーを思い切り飲みたい」と続けると、会場は笑いに包まれた。
「AAにつながる前は貯金も住むところもなく、信用できる人もなかった。ここに立っていることが信じられない」と語った別の男性は、「希望はアルコールだけだった。朝起きて十秒後には冷蔵庫の前にいて、毎日10L以上を飲んでいた」と当時を振り返った。「AAの仲間から『生きることを取るか、酒を取るか選びな』と言われて死を意識した。翌日から飲まずに、今7ヶ月目。一人ではできなかった。仲間のおかげだ」と笑顔を見せた。
クレプトマニア(窃盗症)の女性は、「治療プログラムを2年受けたあと、AAにつながった」とし、「まだまだ自分の考えを使いがちだが、皆さんの力を借りて、自分の足で歩んでいきたい」と緊張が混じる声で語った。スピーチを終えると、仲間のもとへ駆け寄り、笑顔でハイタッチを交わす姿が印象的だった。
「長女が亡くなってから、地獄の日々だった」という男性は、「クラブで、娘の位牌を持って泣きながら飲んでいたら、ママに『お金はいいから帰って』と言われた。皆さん、位牌を持っていけばタダで酒が飲めます」と、冗談を交えながら語った。AAにつながった当初も位牌を持参していたという彼は、仲間から「自己満足」と指摘され、「自分を救えない人は、人を救えない」と言われたことが転機となったと明かした。
30人近い仲間と訪れたというモンゴル人の男性は、「13年前にAAにつながらなかったら、自分はいない」と話す。「飲まないで生きていけることが信じられなかった。今日ここに立てていることが嬉しい。世界のAAメンバーに感謝する」と述べると、客席から大きな拍手が送られた。
「逮捕」がきっかけで、AAにつながった
続いて、「感謝を込めて50周年」というテーマでビッグミーティングが行われ、3名のスピーカーが自身の経験を語った。
最初に登壇したのは、「20歳になる頃にアル中になった」という男性。
「実家がバイオレンスで、若い頃からアルコールを頼っていた。中学の頃に初めてブラックアウトを経験。働きながら定時制に通っているときも、毎晩飲んで、毎日二日酔いの状態だった」と当時を振り返る。
手が震えて溶接の仕事ができなくなり、迎え酒をして震えを止めるようになった男性。数時間さえも酒を止められない状態になった。
「33歳になる頃まで、毎日ブラックアウトしていて、記憶はほとんどない。覚えてるのは警察に捕まったこと、事故にあったことなど、衝撃的なことだけ」
AAにつながったきっかけは、逮捕されたことだった。
「アルコールによる幻聴や幻覚で、半裸で街に飛び出した。気づくと周りにはパトカーが3台、警察が6、7人いて、あっという間に制圧されて取り調べ室にいた。その後、アルコール専門病院に入院することになり、そこでAAのメッセージに触れたのが転機だった」
男性は「自分ではどこが回復し、成長しているのかはわからない」としながらも、「でも影に隠れるようにしていきていた自分が、今こうして大勢の前で自分の話をしていることが大きな変化だ」と語る。
そして、次のように締めくくった。
「AAでは、『ミーティングに行く足を止めるな』などと、先ゆく仲間からたくさんのメッセージをもらった。今、酒をやめられているのは自分の力ではない。仲間から渡された経験を次の仲間に伝え続けること。それが自分にできることだと思う」

体験談は、体の芯に届き、生き方を揺るがす
最終日の30日、AA日本のA類常任理事である医療法人成精会刈谷病院 アディクションセンター長の菅沼直樹さんが登壇した。
※AA日本の常任理事はA類(ノン・アルコホーリク)2名と、B類(アルコホーリク)6名に分かれる。

菅沼さんは、愛知県でアルコール依存症の治療をする精神科医。自身が精神科医になった背景について、「ローテート研修(各科で研修を行うこと)で、人が死んでいく毎日が嫌になり、『ここなら人が死なないだろう』と選んだのが精神科だった」と振り返る。
そして、あるアルコール依存症患者との出会いと、その患者の死について明かした。
「家族に頼まれて入院手続きをとったものの、その患者は大声で看護師や他の患者を威嚇しました。担当医の私は、婦長にとっちめられましたよ。患者の低カリウム血症がわかって転院先を探しましたが、当時アルコール依存症の患者を快く受け入れてくれる病院はなかなか見つかりませんでした」
ようやく転院先が見つかりほっとしたのも束の間、その3日後に、患者が亡くなったことを知らされたという。
「気が抜けて、同時に絶望しました。依存症は、医者が無力を感じる病気の一つです」
また菅沼さんは、医学とAAのアプローチの違いについても言及した。
「すべてを手放した先に、回復の希望が訪れる。これは医学の発想ではなく、AAの発想。体験談は、体の芯に届いて、聞く人の生き方を揺るがします」
「依存症で苦しむ人たちはまだまだたくさんいます。そういう人たちに、希望の姿、言葉を届けていただきたい」
最後に菅沼さんは「依存症に関わる医療者は孤立している」と自身の考えを明かし、「回復者の声や姿を、私たち医療者にも届けてほしい」と呼びかけた。
*
筆者には、アルコールに依存する母がいる。今回、多くのAAメンバーの語りを聞いて、「母にも、こんなつながりがあれば…」と何度考えたかわからない。
この日、取材に応じたAA日本のB類常任理事(アルコホーリク)に、“つながらない手”にはどのようにアプローチすればいいかを率直に聞いてみた。すると、次のような回答をくれた。
「アルコール専門病院におけるメッセージ(AAのプログラムを通じた回復の体験を伝える)活動では、私たちは自分の体験談を話しますが、実際にはほとんどの人がつながらないのが現実です。本人が聞く耳を持たなければ始まらないのです。でも、その人の頭の中に言葉が残っていれば、例えば5年後や10年後にその人が底をついたときに『あの人の言葉があった』と思い出してくれるかもしれない。そういう気持ちで自身の体験を話しています」
「依存症で苦しんでいる人は、笑うことができない状態です。苦しいから飲むのです。重要なのは、『お酒をやめて、笑って生きている人たちがいる』と伝え続けることです。多くの人は、お酒をやめたアルコール依存症者がこれだけ大勢いることを知らないと思います。これだけの人がいるという事実が、ひとつの力になるかもしれません」
【訂正】AA日本の常任理事会メンバーの人数内訳を訂正しました。
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コメント
飲まない時間を頂いて、22年経とうとしています。この集会にも、仲間の笑顔と再会しに出掛けました。
アルコール依存症者との再会は奇跡です。私はAAで奇跡の連続を頂いて、また、自分自身もその生き証人として生かされております。
今は、行政、医療機関に、AAの生き延びたリアルケースとして伺わせていただいております。
AAを紹介をしてくださりありがとうございます。初めて周年行事の役割をやらせて頂き、ますますAAから離れることが出来なくなりました。AAの仲間や病院のスタッフ、支援員の支えで今の飲まない私がいます。遠方の仲間との役割がやれて、色々な場所のAAメンバーとの交流がさらに私の飲まない時間を強固なものにしています。これからもAAをよろしくお願いします。
私はギャンブル依存症者の家族だけど、50年前に日本にAAを立ち上げてくれた仲間に心から、感謝します。私の父もアルコール依存症でした。父の病気を理解せず、ただ軽蔑していました。
夫のギャンブル問題で自助グループに繋がり、父もまた霊的に病んでいたんだとわかりました。父が亡くなって10年以上経ちますが、今はあの人も仲間だったんだと思っています。
素晴らしい取材記事ありがとうございます
この3日間、多くの仲間達、またイベント、ミ―ティングに参加させていただき有難うございました。そしてなんといっても受付ボランティアをさせていただいた事は良い経験となりました。