中村うさぎさん連載 「失われた私」を探して(1)
買い物、ホスト、整形と次々に何かに溺れていく経験をしてきた作家の中村うさぎさん。なぜそこまで追い求めざるを得なかったのか、自ら掘り下げる新連載スタートです。
公開日:2024/05/07 02:00
連載名
「失われた私」を探して新宿伊勢丹の4階でエスカレーターを降りる。
他のフロアに比べて落ち着いた雰囲気で、子供連れのファミリーや若者カップルの姿も少なく、荘厳とでも言うべき静寂に満たされた通路はまるで神殿の回廊のようだ。
その通路をしずしずと奥に進むと、「CHANEL」のロゴを掲げたブティックがある。
入り口付近にはアクセサリーやバッグが並べられ、一般の買い物客はたいていそこで目当ての品を物色する。
が、そこを横目に見ながらさらに進むと、ずらりと並んだラックにワンピースやスーツやジャケットが掛けられていて、そのスペースこそが本当の「シャネル」なのだ。
靴やバッグやアクセサリーしか買わない客を、シャネルは相手にしていない。
ここで数十万円もする服を何着も平然と買う客だけが、シャネルの「顧客」なのである。
始まりはシャネルの革のコート
そして私は、今日、初めてこのスペースに足を踏み入れようとしている。
緊張と興奮で身を強張らせながら、ラックに掛かった服に視線を滑らせる。
艶やかな黒い革のコートが目に入る。
金色のボタンに刻まれたシャネルのマークが燦然と輝いている。
うっ、眩しい!シャネル様のマークだ!
思わず「ははーっ」と土下座したくなる貧乏人根性を必死で抑え、さりげない風を装いながそっとコートに触れてみる。
シャネルの革のコートがいくらするのか、初心者の私には皆目見当がつかない。
今なら事前にネットで値段を調べるという手があるけど、1991年当時、スマホは存在しないしインターネットもまだ普及していなかったのだ。
だからまったくの無知でここに来てしまったわけで、とにかくいくらするのか知りたくて仕方ない。
それには値札を見なきゃいけないんだが、その肝心の値札がどこに付いているのかわからないのである!
いや、そもそもここで買い物をする金持ちたちは、値札なんか見るのだろうか?
「値札を見る」という至極当然の行為が、ここでは嘲笑の種になったりするんじゃないか?
「ちょっと見て!あの客、値札見てるわよ!」「ププーッ、貧乏人!」といった店員のヒソヒソ声が聞こえるような気がして、私は背中に冷や汗をかく。
たじろいだ「60万円」の値札
「いかがですか?」
不意に背後から投げかけられた店員の声に、私はびっくりして数センチほど跳び上がった。
いつの間に後ろにいたんだ!音も気配もまったくなかったぞ!おまえは忍者か!
「あの、このコートを……」
「ご試着なさいますか?」
「は、はい!」
そうだ!試着室に入れば店員の目を盗んでこっそり値札をチェックできるではないか!
よく気がついたな、天才か、私は!よし、試着するぞ!人生初のシャネルを試着してやる!
試着室に入るとコートを着るより早く、急いで値札を探した。
そして、そこに記載された金額に、一瞬、たじろいだ。
60万円!
さ、さすがシャネル!30万円以上はするだろうなと見当はつけていたが、予想の倍額で来やがった!
むむぅ、どうする?どうする、私!?
こないだ印税が振り込まれたから買えない金額ではないが、たかだか革のコートに60万円も出していいのか?
今住んでる荻窪のマンションの家賃の4倍だぞ?
なんかおかしくないか、この値段?
ダメだ!やっぱり庶民が買うような品物ではない。
ここは恥を忍んでお断りしましょう。
そう決意して試着室を出た私は、ぎこちない笑顔を店員に向けた。
「あのぅ……素敵なんですけどぉ、その……ちょっと私にはサイズが大きいみたいで……」
「ワンサイズ下もございますよ」
そう答えると、止める間もなく店員は奥に引っ込み、次の瞬間には同じデザインのコートをしずしずと掲げて目の前に立っていた。
「さ、どうぞ」
仕方なく袖を通すと、なんと、肩も袖丈もぴったりだ。
こ、これは……断る理由がない!
あるとしたら唯一、「これを買う金がありません!」だが、そんなこと口が裂けても言えないよ!何故なら私は見栄っ張りだから!
「あ、あら……これならぴったりね(困ったことに)!」
「よくお似合いでいらっしゃいます」
「じゃあ……これ、いただきますわっ(もうヤケクソ)!」
「ありがとうございます!」
パンパカパーーーン!!!!
突然、脳内にファンファーレが鳴り響いた。
ついに私は買ったのだ!シャネルのコートを!60万円もはたいて!
バカなのか?ああ、バカさ!でも嬉しい!めちゃくちゃ嬉しく、かつ誇らしい!
初めて味わった怒涛の快感
シャネルのロゴ入りの大きな紙バッグを抱えて、店員が店の出口まで見送ってくれた。
紙バッグを受け取って店の外に一歩出ると、通りすがりの女性客と目が合った。
その瞬間、だ。
それまでの緊張が解けると共に、味わったことのない怒涛の快感が押し寄せたのだ。
どうよ!私は60万円もするシャネルのコートを買った女よ!ええい、ひれ伏せ、皆の者!この「シャネル」のロゴが目に入らぬかーーっ!!!
こうして私は、あの日、シャネルという悪魔と盟約を結んだのである。
33歳の時だった。
以後、シャネルだけでなくエルメスやグッチやディオールとも次々に盟約を結び、気づけば買い物が止まらない「買い物依存症」になっていた。
何故か?気持ちよかったからだ。
身の程知らずの大金を遣うたびに、脳内がグラグラと沸き立つほどの快感に酔った。
4年後には荻窪から麻布に居を移し、毎日のようにブランド物のブティックに通い詰めるようになる。
買い物に費やす金額はあっという間に収入を超え、印税の前借りやサラ金からの借金で賄うようになった。
こうなったら、もう立派な病気である。
その自覚はあったし、何度もあの手この手で買い物をやめようと努力したが、どれひとつとして成功しなかった。
私はあの「初めてのシャネル」で味わった快感の虜になっていたのだ。
シャネルを買うのは「リベンジ」
それにしても、なんでまた私は、あの時シャネルなんかに足を踏み入れたのだろうか?
もしあの時、シャネルではなく競馬場に行ってたら、私はギャンブル依存症になっていただろうか?
いや、それはない。
競馬も競輪もパチンコもやったけど、脳内麻薬は一滴たりとも出なかった。
当時の私に効く麻薬は「ブランド物」しかなかったのだ。
それは何故か?
たぶん、リベンジだったのだと思う。
私は「失われた私」を取り戻そうとしていたのだ。
「失われた自分」とは何か?
私は誰に、何を奪われたのか?
それを説明するためには、当時の私の状況について語らねばならない。
※隔週で連載します(次回は21日に掲載予定)
コメント
もうひとりのあたし
最高
バカなのか?ああ、バカさ
すべてが集約されてるような、最高の言葉です。
記憶をたどると、楽しかったことって、それ以外思い出せないのです。でもコースを外れると、もどす自分もいる。その自分は仮面であり、社会性なのだと思いました。そしてこころの奥底ではその自分を憎んでさえいるのです。
連載開始、嬉しいです。
うさぎさんの連載を読めるなんて私は幸せ者です。
嬉しい!!
2000年代後半、うさぎさんのご著書『女という病』、『私という病』、マツコさんとの往復書簡等々は、当時拗らせまくっていた私の超偏愛書で毎度号泣しながら拝読していました。その後、それとは気付かぬうちに強い鎧に身を包み闘い続け、今ようやく底つきにやってきたところです。
改めて、今のタイミングでうさぎさんがどのようにご自身を語られるのか、神の啓示のような気持ちで記事を拝読しました。私の「失われた自分」に向き合う勇気をいただける気がしています。
連載次回、心待ちにしています。
「まるで神殿の回廊のようだ。」
出だしからしびれる。
なんと中村うさぎさんの連載が始まった。
女王様のエッセイを貪るように読んだ頃とは、歳月が経ち私は変わった。
依存症者の家族となって、中村うさぎさんに再会したわけだ。
懐かしさと、ともに、あの頃感じなかった思いがふつふつと湧きあがってくる。
連載をじっくり味わいたい。
連載なんですね!
楽しみにしています。
うさぎさんのこれまでの話を読んでいるので、あぁ!あの時のことだ!と照らし合わせながら読み進めました。
情景が目に浮かぶようで、語り口にもうさぎさんの感性が散りばめられていてめちゃくちゃ面白いです!
そしてご自身を俯瞰で見ている様子にさらに魅力を感じます。