一人暮らしで症状がエスカレート。転機となった「フラットな関係性」
進学で一人暮らしを始め、摂食障害の症状がエスカレートした私。所属教室の教授の助けでついに医療機関につながります。ところが、なかなか症状は改善せず…?
公開日:2024/05/14 09:53
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進学で一人暮らしを始め、摂食障害の症状がエスカレートした私は、大学の教授の助けでついに医療機関につながる。ところが症状はなかなかよくならず、自分の価値が見いだせないまま苦しい想いをつのらせた。
そんな時に主治医に提案された入院治療。そこで得た気づきとは、いったいどんなものだったのか。また、自分の感覚を取り戻していく過程で救われた思わぬ仲間たちとの出会いとは。自分で自分を縛り付けていた呪いから少しずつ解き放たれていく道のりを書きました。3回連載の2回目。
(座光寺るい)
1人暮らしでエスカレートした異常な食行動。自分以外のすべての人との関係性をシャットダウン
東京で一人暮らしを始めると、ねらい通り誰にも自分の行動を咎められることはなくなり、異常な食行動はエスカレートした。
普段は極端に食事制限をして、アルバイトが終わって自宅に帰るとき、デートで華奢な自分を演じることから解放されたとき、私はそのストレスを打ち消すように過食に走った。そのうちに授業中や自動車教習の合間にも衝動が抑えきれなくなって、人目を避けて過食した後は、気持ち悪い、嫌だ、と思いながらその後の数時間を耐える日々。
おそらく摂食障害患者であれば共通の感覚だと思うが、過食の後の自分はとんでもなく汚らわしい存在となる。
「私はなんて汚い人間になってしまったんだ」
死にたいほど自分が汚らしく思えて、そこからなんとか生きていくために汚いものを体から全て出す努力を始める。私は嘔吐ができなかったので、必ず下剤を使用し、自分が清められてきれいになったと感じられるまで数時間食事を絶った。自分の中で自分を清める儀式が、排便だ。すべてを体から出し切ってしまうまで、私は私を許さなかった。
過食のあとの恐怖心のためにアルバイトは長続きしなかったが、お金はなくなる一方だった。矛盾していると思われるかもしれないが、過食のときは衝動的にジャンクなものを大量に買い込み、拒食のときはダイエットや健康にいいと言われる食品や怪しい痩身系の何かにお金をつぎ込む。いずれにしても経済的な負担が大きい。
食事はちっとも「おいしい」という感覚とは結びつかない。食べ物はすべて私の心を快楽で埋めてくれるものであり、同時に私の価値を左右する数字である。ありとあらゆる生活が、本来の意味や機能をどこかに捨て去った「食行動」によってがんじがらめだった。
ギリギリの単位で3年生に進学し、専攻したのは医学部健康科学看護学科だ。定員が割れていて成績不振でも進学できたということに加え、自分なりにこの異常な状態を科学的に解明できないかという気持ちがあったように思う。
少人数の学科だったため、クラスメイトとの関係は濃く、親しい友人もできて、なんとか勉強を続けた。ところが、病院実習が始まると途端についていけなくなった。自分自身の病とも向き合えていないのに、病気で療養している人をみるのがとてもつらく、過食行動が一気にエスカレート。苦しくなるたびに、過食をすることで自分を紛らわした。
留年が決定し、次第に家から出ない生活になって昼夜も逆転。過食の衝動で食べ物を買いに行く他は家に引きこもり、「どうして自分は生きているんだろう」「早く消えてなくなりたい」ということばかり考えた。続かないなりに細々とやっていたアルバイトもいよいよできなくなり、家賃と光熱費を除いた仕送りのほとんどを食品の購入に費やした。口座の残金を確認して、あと300円分なら買える、あと100円なら…と本当にギリギリまで食品に使っていたのは、やはり異常だ。
過食行動が止められない人の中には、借金や万引きをしてしまう人もいる。私はギリギリのところでなんとか踏みとどまっていたが、一歩間違っていたら私も犯罪者になっていたかもしれない。
留年を受けて、親が東京まで様子を見に来たこともあったが、居留守を使った。醜くて汚い自分は、誰かに会う勇気も資格もなく、生きている価値がない。特に両親は私にとって、自分の価値を最も認めてもらわなければいけない存在だった。とてもではないが、顔を合わせることなどできなかった。
今すぐ必要な手当てをしてくれる大人との出会い
毎日太陽が昇ることが恨めしかった。鏡を見るたびに自分を殺したいと思ったし、楽しそうに生きているすべての人間にクソ喰らえと思っていた。何もかも壊れてなくなればいいと願った。
でも本当は、誰にもわかってもらえないことが寂しくて仕方がなかった。寂しさに耐えきれずに恋人ができると一時的に症状が落ち着く。その間はなんとか自分をコントロールすることができたが、相手に自分の異常な内面を悟られることが怖かった。知られたくないけれどもわかって欲しいという葛藤の末、距離をとるか依存するかの両極端な関係に陥っていつも相手を盛大に傷つけた。
すがるような思いで大学の相談室にも行った。しかし、ありのままに告白した後は、醜く汚い自分を他人にさらけ出してしまったことに耐えられなくなって、帰り道に過食をした。自分で調べて新宿のクリニックを受診したこともあったけれど、散々待った挙げ句、たった5分ほどの受診時間に「あなたに原因がある」と責められて傷つき、症状は悪化した。
そのまま誰とも関わらずにいたら、私はそこで人生を終わらせていたかもしれない。
でもある日、所属教室の教授が心配してメールをくれた。保健師の資格もある教授になら、と自分の状況を説明すると、彼女はその場で大学の附属病院に電話をかけ、受診の予約をとってくれたのだ。詮索するでも、解決策を先延ばしするでもなく、今すぐ必要な手当てをしてくれる大人と出会えたことで、私は人生を生きつないだ。
大学病院の医師は、穏やかで、静かで、たっぷりと時間をとって話を聞いてくれた。そして何より、私のことを責めなかったし、むしろこれまでのことをねぎらってくれた。この人なら一緒に治療ができるかもしれないと思えた。中学の頃、小児科の女医さんに取り合ってもらえなかったときから迷子になって数年、ついに私は医療機関につながった。
うつ傾向が強かったため服薬治療をしながら、まずは自分の生活を立て直すための小さな試みを一つずつ始めた。家に余計な食べ物を置かない、食べるときは食べることに向き合う、日記をつけて自分の行動を振り返るなど、それは一つずつとても小さいことだったけれど、私にとっては難しい課題だった。
所属教室の教授は「いつも頭のどこかであなたのことを思っています」と根気強くエールを送ってくれた。
本当は、私は私の体をとても愛していた
医療機関とつながったからといって、症状がなくなるわけではない。ふとしたきっかけですぐに負のスパイラスにのみこまれ、病院に行けなくなることもしばしば。何度立ち直ろうと思っても挫かれ、出口のないトンネルをさまよっているようだった。トンネルから抜け出せないなら死んだ方がマシなのに、自分で死ぬ勇気はない。意気地のない自分も嫌だった。
主治医の先生はいつも穏やかに待ってくれたけれど、未来に希望を見いだせずにいる私に、あるとき「内観絶食療法」という入院治療を紹介してくれた。
「とてもつらい治療法ですよ」
それは医療機関に1ヶ月入院し、11日間の絶食中に自分を振り返る(内観する)というもの。医師の監修のもと様々な検査とともに実施される医学的な治療法で、当時は東北大学と静岡県の藤枝市立総合病院でしか実施されていなかった。
治療の効果は実証されていたが、過食衝動に耐えきれず、途中で治療を離脱して脱走をはかる人も多いという。それでも私は、出口のないトンネルから脱出できる可能性が1ミリでもあれば試したいと治療を希望した。
ところが治療希望者は順番待ちで、私の入院は1年半後だと告げられる。私はそれまで生きていられるだろうか…と落ち込んだ。見かねた主治医が、すでに2年目の留年が決定しながらも復学を希望している私の事情を考慮して病院にかけあってくれ、結局3ヶ月ほどで入院できることになった。
ありがたいと同時に、待っている人の数だけ重い苦しみがあると考えると、切なく、申し訳なかった。彼らの救いになれるよう、私はなんとしてもこの治療をやりきろうと心を決めた。
入院するとまず、ありとあらゆる検査をした。
脳波や抑うつ度検査に加え、ロールシャッハ・テストやバウムテストといった心理テスト、コーチゾル日内変動テストやパーロデル負荷試験などといった聞き慣れない検査も。
一通りの検査が終わると個室に入り、11日間の絶食と4日間の回復期の間、部屋から一歩も出ることなく、自分や自分に関わりのある人物について振り返る治療が始まった。自分のこと、両親のこと、姉、祖父母、友人や恋人。振り返っては書き、書いては振り返りしているうち、次第に私は後悔の念に襲われるようになっていく。自分の人間関係がそれまでいかにいびつだったかということに気が付き始めたのだ。他人から自分へ注がれる矢印はたくさんあるのに、私から他人にむけた矢印がなかった。
ふと、中学の時の担任の言葉が蘇った。
「自分に行き詰まったときは、他人のために何かをしてみてください」
私はいつも誰かからの評価や愛情を待っているだけで、自分から他人に何かを差し出すことをしてこなかった。当然、自分で自分に何かを与えることも。
内面的な気づきと同時に、体にも様々な変化が起きた。もちろん絶食しているので尿からは常にケトン体が出ていたし、体重も減った。毎日のようにはっきりと悪夢を見、絶食を始めて5日目の夜には、体中に色素性痒疹という発疹が現れ、猛烈なかゆみに襲われた。
まだらな発疹に覆われ膨れた自分の皮膚を見て、思いがけず、私は泣いた。あんなに醜くて仕方がなかったはずの自分の体が、魂から離れていってしまうような感覚になって恐怖に襲われたのだ。
本当は、私は私の体をとても愛していた。
「最初の重湯は、もう一度生まれたての赤ん坊になったつもりで、何十回もよくかんで食べてください。食習慣の生まれ変わりです」
主治医の先生にそう言われた回復期の最初の重湯は、これまで食べてきたどんな食事よりも甘くてあたたかくて、おいしかった。「おいしい」と感じながら食べ物を口にするのは久しぶりだった。
(※内観絶食療法は、必ずしもすべての摂食障害患者に合っている治療法とは言えません。治療方針は主治医とよく相談してください)
立場を超えてつながれる場所。大事なのは自分だった
病院を出ると、街はクリスマス一色だった。以前は恨めしく感じたキラキラする街並みが、嫌ではなくなっていた。
その頃、それまであまり接点のなかった大学の友人Aと急速に親しくなった。今思い返すと、彼自身も脆さを抱えた人間だったのだと思う。アランの幸福論を読み込んでいたAは、酔って饒舌になるたびに、自分に言い聞かせるように私に言った。
「自分ひとりで生きてると思うなよ。お前の人生はお前だけのものじゃねえんだ。お前が自分に価値がないと思ったら、お前に価値があると思っている周りの連中に失礼だろう。まず自分が幸せにならなきゃ、お前の周りのやつは幸せになんてなれねえんだよ」
Aの話は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」という宮沢賢治の言葉と重なった。反対のことを言っているようで、実は同じ。あなたもあなたも、突き詰めればみんな、自分だから。
ある時、音楽好きだったAに誘われ、初めてライブハウスに足を踏み入れた。重い扉を開けると、耳にタトゥーの入った金髪の女性が、「名前は?」と尋ねた。私は名前を伝えて、それだけで、私達は一緒に音楽を楽しむ仲間になった。
そこでは音楽という共通項だけで、あらゆる人がフラットにつながっていた。どれだけ勉強ができるかとか、どれだけ痩せているかとか、どういう仕事をしているかとか、そういうことがまるで関係ない世界だった。
絵描きの若い女の子、写真家の卵、イラストレーター。オペ室の看護師も、カフェスタッフも、アパレルの店長もいた。みなそれぞれのやり方で自分の思いや自分自身を表現し、そして誰かの表現をリスペクトしていた。
彼らと過ごすうちに、私は、そもそも「自分がいいと思う」という感覚を、長いこと忘れていたことに気がついた。
文字通り”生まれたての赤ん坊”のように、私は自分の感覚を少しずつ思い出しながら、再び歩き始め、なんとか大学を卒業した。
ちなみに、耳にタトゥーの入った金髪の女性とは、今でも親しい友人だ。弱りきっていた私に声をかけてくれた友人Aには、深く深く感謝している。ありがとう、A。
(3回連載。次回は15日公開です)
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コメント
私はギャンブル依存症の家族で、人と共依存になってしまいます。以下の言葉は、とても胸に刺さりました。ずっとこの生き方をしていて、いまその矢印の向きを他人と自分に向けようともがいています。
「私はいつも誰かからの評価や愛情を待っているだけで、自分から他人に何かを差し出すことをしてこなかった。当然、自分で自分に何かを与えることも。」