「逆境は乗り越えなくていい」。「回復神話」から、私の回復を取り戻すには?
精神科医・松本俊彦さんと、自傷行為の傷跡治療に携わる形成外科医・村松英之さんがオンラインでトークイベントを実施。「自分を傷つける生き方、どうしたらやめられる?」をテーマに、自分なりの「回復」を見つけるヒントを模索しました。
公開日:2024/12/31 04:00
2024年12月16日、精神科医・松本俊彦さん(国立精神神経研究センター所属)と、自傷行為の傷跡治療に携わる形成外科医・村松英之さん(きずときずあとのクリニック 院長)がオンラインでトークイベントを実施。
書籍『自分を傷つけることで生きてきた 自傷から回復するための心と体の処方箋』(著・村松英之)の発売を記念して、本書のプロデューサーも交え、「自分を傷つける生き方、どうしたらやめられる?」をテーマに、自分なりの「回復」を見つけるヒントを模索しました。
講演には、当事者、支援職のほか、家族の自傷行為に悩む親御さんなど、約100名が参加。聴講者からも次々と質問が投げかけられ、様々な意見がかわされました。
「心」と「体」の立場から、自傷行為に向き合って見えてきたものとは。本記事では、対談の一部をダイジェストにてお届けします。
(文:遠山怜)
回復の主体はどこにある
ーー(遠山):みなさま、はじめまして。本書のプロデューサーを務めた遠山です。このパートでは、自傷行為に悩む患者さんの話を伺った経験をもとに、個人的に気になったことを、お二人に伺えたらと思います。
取材時、「回復」というキーワードを口にする方が多かったように思います。または、回復を前提として、私の場合はどうかを話してくれました。どうも、当事者それぞれに「回復の理想形」があって、そこに自分が当てはまるかを気にしている、そんな印象を受けました。
特に、「過去を乗り越えて今の自分が」といった、綺麗な回復のストーリーに沿わないとき、口をつぐんでしまったり、優等生的な回答になんとか寄せようとしたりする。「他人からみて望ましい回復」を内面化しすぎているのでは?と感じたのですが、お二人はそのように感じることはありますか。
(松本):たしかに回復神話ってありますよね。どんどん状態が悪くなって、どうしようもない状態になって、そこからV字回復みたいな物語ですよね。もちろん、そういった回復が存在しないわけではないですけど、けっして多数派ではないと思います。
回復って、らせん階段をぐるぐる回りながら登っていくような、そんなイメージです。一直線上に良くなっていくというより、何度も何度も同じところを通りながら、でも少しづつ見えるものが変わっていく感じ。
それから、その先のゴールである回復も単一ではありません。率直に言って、その当事者の数だけ、異なるかたちの回復があると思ってます。一般的に回復というと、劇的な変化や素晴らしい私への進化、みたいなものをイメージする人が多いですが、実際の回復はそれとはちょっと違うように思います。
むしろ、今までの自分を許すような感じ。「これはこれでいいか」と思えることが、その人にとっての回復だったりします。
例えば、大阪DARCの関連機関である大阪フリーダムの代表・倉田めばさん。彼とはもう20年来の知り合いなんですが、シンナーがやめられたきっかけは、女装だったらしいんです。めばさんは、生物学的に男性として生まれ、性自認も男性、恋愛対象も女性です。でも、女装が好きだと。
第三者からしたら、「なんで女装?」と思うかもしれませんが、これもひとつの落ち着きどころなのだと思います。本人がこれでしっくりくるなと思えるところ。ですから、回復というのは、けっして輪郭がはっきりしたものではなく、その人にしかわからないものではないかと思います。
(村松):僕のクリニックでは、自傷が続いている患者さんの縫合も行っているのですが、定期的に来ていた患者さんが、ふっつりと姿を見せなくなったことがあります。「ああ、良くなったのかな」と思ってたら、実は処方薬のODに移行していたり、摂食障害がひどくなっていたりしたケースがあります。
形成外科は、主に皮膚の病変を診ているので、回復と聞くと一直線上の変化をイメージしてしまう。でも、実際にはそうではないんですよね。たしかに回復の途中にはあるけど、その間に別の自傷行為に揺れ動いたりもする。
傷跡の回復にも、同じことが言えますね。たとえ同じ自傷痕の手術ひとつとっても、その後の心の回復は、患者さんそれぞれだったりします。等しく大事なことがあるとすれば、「自己肯定感」を持てるかどうか、ぐらいでしょうか。
医師やスタッフができることは、患者さんそれぞれの過去を受け止めて、その人の持つ力を信じること。体の回復を心の回復につなげるには、そんな心がけが大事ではないかと思います。
目指すのは、より「安全な自傷」
ーー(遠山)次は、当事者と支援者の問題意識について。自傷行為が止められないとき、当事者も周囲の人も、「自傷をやめるかやめないか」を問題にしがちです。もちろん、渦中のときは当事者はもとより周囲の人も気が気ではないし、まずは自傷を止めることが先決だと思ってしまう。
しかし、本当に問題にすべきは、自傷しないといられないような、大きなストレスを抱えていることではないでしょうか。当事者や周囲の人が抱えている問題意識と、支援者から見て課題だと思われることにズレが生じているように思うのですが、いかがでしょうか。
(松本):そうですね。本人もご家族も、自傷するかしないかを問題にしがちです。でも、先ほど言った通り、回復は一直線上に起こるものではありません。実際には、自傷は止まったけれども今度は拒食症になったり、あるいは市販薬のODをするようになったりと、次から次へと問題の焦点が変わることが起こり得ます。
その根本には、本人にも止められないような感情の揺らぎがある。ですから、その根っこを安定させることが、一番大事なことだと思います。自傷を手放せばそれでいいというわけではありません。我慢してなんとかリストカットを手放せたけれども、結果自殺で亡くなってしまったら本末転倒です。
ですから、「まあこれでいいや」と安定した生活ができることをゴールに、「より安全な自傷」に移行していくことが大切だったりします。
だいたい、どんな人だって、多少は体に悪いことして普通に生活してますよね。筋肉オタクになったり、激辛カレーにハマったり、あれも広い意味では自傷行為だと言えるのではないでしょうか。だったら、ちょっとぐらい自分を害する行為をしたとしても、許容しても良いんじゃないかなと思います。
(村松):自傷行為は、その人なりの「ストレス解消法」にすぎないんですよね。皮膚を切ったり処方薬で意識を失ったりする様を見ると、どうしてもおおごとに捉えがちですけど、根本はお酒を飲んで嫌なことをパーっと忘れるのと大差ない。
もちろんリストカットの場合、傷跡が残るので、医師として「それで良し」とは言い切れないですが、それで精神的になんとかバランスが取れているなら、仕方がない面もあるのではないでしょうか。
回復は0-100とは限らない
ーー(遠山)回復と聞くと、「(依存対象を)完全にやめている」ことを想起しがちです。ですが、100%やめていなかったとしても、時々頼ることで心の安定が保てているのであれば、それも回復と言ってもいいのではないでしょうか。
(松本):僕もそう思います。回復と聞くと、アルコール依存症患者さんがこの10年間一滴も酒を飲んでいない、みたいな状態を思い浮かべがちですが、それがすべてではないでしょう。時々はお酒を飲むこともあるけど、以前のようなアルコールに呑まれるような変な飲み方をしていない、というのも回復と言ってもいい場合もあると思います。
(村松):一般の人ほど、依存症患者さんに「100%の回復」を求めがちですよね。何年も薬物をやめていた芸能人が、1回でも再使用した場合、ものすごいバッシングを受ける。「反省していない」「結局、治療なんて意味がない」と非難される。再使用前に、どれほど自分を厳しく律していたとしても、です。
(松本):依存症治療では、「禁断破断効果」という有名な概念があります。頑張って依存対象から離れていた人ほど、一回でも使用すると自暴自棄になって、めちゃくちゃな依存状態に陥ったりする。それこそ、1日にタバコを何箱も吸ったりとか、量のコントロールが効かなくなる。
スリップしたとき、周囲の人以上に患者さん自身も自分のことをものすごく責めるんです。自分はダメだ、もうどうにでもなれと、より危険な依存に走ってしまう。ですから、あまり思い詰めない方がいいんですよね。
(後編につづく)