医者からの性被害、母の介護、死……看護師志望の20代の女性が処方薬や市販薬のオーバードーズに救いを求めた理由
信頼していた医師からの性被害や母の死をきっかけに、処方薬や市販薬のオーバードーズに頼るようになった弥生さん(仮名)。なぜ薬が必要だったのか、聞きました。

公開日:2026/05/06 02:04
20代の弥生さん(仮名)は、医師から受けた性被害をきっかけに精神的に不安定となり、処方薬や市販薬のオーバードーズに依存するようになった。
入退院を繰り返した女性が、再び立ち上がるために必要としたものは?
2回連載でお伝えする。
信頼していた医師から受けた性被害
弥生さんは短大を卒業してから保育士としてしばらく働いた後、2023年4月から看護学校に通い始めた。盲腸で入院した先の看護師の働きぶりに感銘を受け、元々憧れていた看護の道に進むことにした。
勉強も順調に進んでいた2025年1月、その「事件」は起きた。
共通の趣味で知り合った医師と、いつものように、帰りにご飯を食べていた時のことだ。仲の良い友人だと思っていたのに、その日、彼は無理やりキスをしてきた。
「最初は嫌と言えなかったんですけど、最後に『もうやめてほしい。そういうことをされるなら、もう会えないし、会いたくない』と言ったんです。でも彼は『じゃあもう一回だけいいでしょ?』と無理やり、またキスをして抱きついてきたんです」
やっとのことで身を振りほどき、逃げるように帰った。信頼していた友人が「嫌だ」と言っているのに襲ってきたのは、恐怖でしかなかった。
「最初は自分に起きた出来事のように感じられなかったし、最初から嫌とはっきり拒絶できなかった自分が悪いのかなと思って自分を責めてもいました。誰にも言えずにずっと過ごしていたんです」
悶々とした気持ちを抱えながら、友達と飲みに行った時、笑い話のように「こういうことがあってさ」と初めて打ち明けた。友達は笑うことはなく、「それ、おかしいよ」と真剣に怒ってくれた。
(怒ってもいいことなんだ……)
その後、ネットで相手がやったことを調べてみると、歴とした犯罪行為であることに気がついた。事件から3週間ほど経った頃、初めて警察の性犯罪相談の窓口に連絡した。警察官は真摯に聞いてくれて、「刑事事件にしますか?」と尋ねてくれた。
「泣き寝入りはしたくない」。刑事告訴したが、ネットでいろいろな性犯罪被害を読むと、自分よりもっと酷い被害でも不起訴になっている。
「これだと私も絶対不起訴になるだろうと思い、労力だけ使っても何も残らないと思いました。弁護士さんと相談して、話し合いで解決しました」
PTSDを発症、実習もできなくなり入院へ
それで一区切りついたはずだった。
しかし、看護師を目指して勉強している自分にとって、相手が医者だったということが心に大きなダメージを与えていた。
「看護師は医者とは絶対関わらなくちゃいけない仕事だし、私が看護師を目指していること自体も間違っていたのではないかと感じました。刑事さんはとても優しい人だったのですが、事情聴取とか実況見分とか非日常なことが次々と自分に降りかかってきて、精神が不安定になっていきました」
似た外見の人を見ると体がすくむ。人と体が触れ合う満員の地下鉄には乗ることができなくなった。
看護学校の担任に相談すると、「精神科に行った方がいい」と勧められた。5月に受診してPTSDだと言われ、薬も処方された。
だが、吐き気やだるさなど薬の副作用が苦しくて、看護実習を度々休むようになった。夏休みの期間、薬を調整するために3週間、精神科に入院することになった。
色々な薬を試したり、作業療法をしたり、入院中は穏やかに過ごせた。3週間後には体調が回復して、「さあ実習に復帰するぞ」と気分も上向いていた。
コロナに罹患、母の看取りも重なり…..
ところが退院した直後、新型コロナウイルス感染症にかかってしまった。
「また頑張ろうと思っていた時に実習に行けなくなって、気持ちが崩れてしまいました。実習ができないと留年になるかもしれない。またみんなから送れてしまう不安もあって、死にたい気持ちが襲ってきました」
主治医に話すと入院を勧められ、1週間精神科に入院した。心を立て直し、退院後は実習にも復帰できた。
だが、今度は別の理由で心が崩れた。
弥生さんの母親は元々がんで闘病中で、弥生さんは週末になると実家に帰って母の世話をしていた。だが、両親もコロナに感染していることが判明し、元々がんが進行していた母は、そこから転げ落ちるように体調が悪化した。在宅で看取ることになった。
弥生さんは当初、実習と両立しながら母を介護するつもりだった。だが、一人っ子で、父には障害があるため、弥生さん一人に介護の負担がのしかかった。遅れている実習もしっかりこなしたいけれど、無理かもしれないと思い始めた。
ストレスは限界を迎えていた。
実習が始まる前日に不安が強くなり、オーバードーズ
9月下旬、精神的な落ち込みが酷くなった。
「不安が強いかもしれないと思って、元々入院していた精神科が24時間電話が繋がる病棟だったので、そこに電話をしたんです。『不安が強くて、頓服を飲んでも効かないんです』と伝えたのですが、『30分前に頓服を飲んだのなら、あと30分ぐらい様子を見て、それでも効かなかったら連絡してください』と言われました。そんな感じの対応しかしてくれなくて、余計不安が増しました」
過去に処方され、とっておいた咳止め薬を手に取った。ネットで市販薬のオーバードーズの効果について見かけており、「いつか使おう」と考えていた。体調が悪いふりをして大量に処方してもらっていた。
「そこの先生が薬の名前を言えばなんでも出してくれる人だったんです。ネットでその存在は知っていたので、薬の名前を言ってお願いしたらすぐに出してくれていました」
その咳止めを最初は10錠ぐらい飲んだ。その後の記憶は曖昧だが、看護学校の友達にLINEを送ったあとが残っていて、意味不明な文章を大量に送りつけていた。その後、もう一度病院に電話し、咳止めをたくさん飲んだことを伝えたようだった。
病院からは119番にかけてと指示され、自分で電話したようだ。救急搬送され応急処置を受けると、「明日は実習に出なければいけないので」と自分で帰宅した。だが、体調は悪く、結局実習にはいけなかった。学校からは「これ以上実習を休んだら留年だよ」と言われたが、母の介護もあるし、無理だと思った。
学校をしばらく休んで、介護に専念することにした。
母が亡くなって、さらに落ち込んで
母を看取るのは一生に一度のことだからと、気合を入れたつもりだった。だが最期の日、睡眠不足で疲れ果てて、母の隣で眠り込んでしまった。気がつくと母はすでに息をしていなかった。
「一緒に最期を過ごそうと思って学校も休んだのに、後悔が強く残りました」
留年も決まり、母がいない現実にさらに落ち込みが増した。
「元々死にたい気持ちがずっとあったのが、もっと強まっていました。このままだと危ないので、10月下旬からもう一度精神科に入院することになりました」
外泊中に再びオーバードーズ
だが、入院の次の日、元々知っていた病棟から別の病棟に移され、心は不安定になった。「なんでこの病棟に移されるのか納得がいかない」」「最初の一週間ぐらいは安心できる場所でゆっくり休ませてください」と、病院側に訴えた。病院からは「そんな不安はこの病棟では診られない」と言われ、外泊に出された。
「病院に見捨てられたと絶望しました。こんな状況で家に帰されたら私が死ぬってわからないのかと腹が立ち、これは私が死なないと病院側がやったことの酷さに気づかないのではないかと思いました」
外泊中に再び、咳止めをオーバードーズした。今度は30錠。看護学校の友達には「病院に見捨てられた」とLINEを送っていた。彼女にODが見透かされて、救急外来に行くよう指示された。救急車を呼び、運ばれた。
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元いた精神科病院に運ばれ、主治医からは「外泊中にオーバードーズするようでは、もううちでは診られない。転院してください」と突き放された。
「じゃあ死んでいいってこと?とガックリしました。転院先も自分で決めてくださいと言われました・いろいろな病院に電話をしたのですが、患者本人が電話すること自体が珍しいらしく、『ソーシャルワーカーを通せないんですか?』などと言われて、受け入れてもらえませんでした。そこの病院からは10月末までに退院してくださいと言われていて、期限が来たので退院しました」
安心して入院できる精神科はどこに?
自分で探しても転院先は見つからない。どうしたらいいのか。困り果てた弥生さんは、ある方法を思いついた。
「精神科を自分で探せないなら、もう一度オーバードーズして搬送された病院に探してもらえばいいじゃんと思ったんです」
計画を実行することにしたが、搬送先が嫌な病院だと辛い。だから今度は、オーバードーズで朦朧としながらも、自分でタクシーを使って救急外来にたどり着いた。結局、そこの救急で2泊入院することになったが、入院先は探してはくれなかった。でも看護師が優しくて、初めてホッとできた。
そんな自分を心配した看護学校の友達が、精神科の夜間相談のような窓口に連絡してくれて、やっと精神科を紹介してもらえた。応急入院の形で2週間過ごすことができたが、そこは古くて安心して過ごせる場所ではなかった。
退院後、再びODをして、看護師が優しかった救急を指名してなんとか運んでもらえた。そこで再び手厚い看護を受けることができて、幸せな気分に浸れた。
「入院中はHCU(高度治療室)にいたのですが、そこの看護師さんがすごく寄り添ってくれる人だったんです。頻回に呼んでも嫌な顔ひとつしない。割と今まで一人でなんでもやらなくちゃと頑張ってきたし、ダメな自分を見せられないと思って生きてきたのですが、弱い自分も丸ごと優しさで受け止めてくれるような環境でした」
看護師の一人は、精神科でもないのに30分ぐらい話を聞いてくれた。その人は退院する時に、「くすりは飲まない」というメッセージを書いた手紙をくれた。「この病院に来たら私がいるから、もう絶対覚えているから、患者としては会うことがないようにしてほしいな」とも言ってくれた。

依存症の人に依存対象をやめるよう約束させるのは逆効果という指摘もあるが、この時、弥生さんは自分のことを個人として真剣に考えてもらえているように感じて、とても嬉しかった。この手紙は宝物になり、その後、ODしたくなる度に見ては乗り切る日も増えた。
母の四十九日を迎える前に死にたい
それでもどうしても耐えられなくなった12月末、再びオーバードーズした。
「元々、母の四十九日を迎える前に死のうと思っていたんです。四十九日を過ぎると魂があの世に行ってしまうと聞いていたので、その前に私もODで死にたかった。でもなかなか勇気がわかなかったんですよね」
この頃には、ネット通販やドラッグストアで市販薬を買いだめするようになり、100錠を超える数を一気に飲むようになっていた。薬に耐性ができて、数十錠では効かなくなっていたのだ。
「そこで看護師さんが素敵な救急の病院を指名したのですが、うまくいきませんでした。搬送された先はものすごく古くて、トイレも狭くて汚いような病院。そこも安心できる場所ではありませんでした」
実は、弥生さんは以前、応急入院した先の主治医に紹介されて、11月中旬から訪問看護師を利用していた。最初に来てくれた管理者の看護師とはとても気が合ったが、次から来るようになった看護師とはそりが合わなかった。
退院後、再び自宅に帰ってきて、また訪問看護師が来ることになっていたが「合わない人の訪問を受けるのはストレスだから」と伝えた。すると、気が合った管理者の看護師が今年1月から担当してくれることになった。
この看護師、佐藤美紀さん(46)との出会いが、弥生さんが再び立ち上がるきっかけとなっていった。
(続く)
