なぜ「回復に殺される」? 大阪ダルクの創設者、倉田めばさんに聞く薬物依存症と自傷行為が必要だったわけ
「回復に殺される」——。薬物依存症の回復支援施設「大阪ダルク」の創設者で、相談支援団体「Freedom」代表の倉田めばさんが、なぜそんなことを言うのか?倉田さんの子供時代からじっくりお話を伺いました。ロングインタビュー1回目です。

公開日:2025/10/02 08:05
回復に殺される——。
薬物依存症の回復支援施設「大阪ダルク」の創設者で、相談支援団体「Freedom」代表の倉田めばさんが放ったその言葉を初めて聞いた時は、驚いた。
薬物依存症で4回も入院し、薬物を使わずにいられない状況に長年苦しんできた倉田さんが、なぜそんな言葉を使うのか。
「回復」とはいったい何なのか?
Addiction Reportは倉田さんにロングインタビューをした。
(取材・文 岩永直子、ヘアメイク・一部撮影 赤坂真理)
「いい子であらねばならない」という病的な傾向
——雑誌『精神看護』(2022年9月号)に収められた作家の赤坂真理さんとの対談で、倉田さんが語った「回復に殺される」という言葉が衝撃的でした。しんどい状況があって、薬物は生きるために必要だから使っていたわけですよね。
今から考えるとそうですね。生きるため、という言葉はもう少し精査した方がいいとは思いますが。
——薬を止めて、死んでしまう状況に戻ったら元も子もないというのはその通りだなと思いました。
薬を止める方法がそこにありそうな気がしたから、自助グループや回復施設に繋がったわけですが、しばらく通い始めると、薬をやめなくちゃいけないことが、だんだん私の中で強迫観念になってきていることが気になり始めました。
ちょうどその頃、「ダルク」創立者の近藤恒夫さんが始めたダルクで、薬が止まり始めた若い仲間のシラフでの自死のニュースが相次いで飛び込んできました。自死するくらいなら薬をもう一回使ったほうがマシでしょう?
強迫観念でやめることができる人は元々いい子ちゃんです。その人がダルクのプログラムに乗っかった場合、体から薬が抜けると元のいい子に戻ります。
プログラムに身を委ねて回復したように表向きは見えるけれど、実は、やたら優等生であるという部分は、その人を苦しめてきた生育的な環境因子が性格づけた病的な傾向でもあるわけです。
だから、本人がそのことにどこかで気づくかどうかが大事なのだと思います。
——「優等生であらねばならない」という強迫観念に苦しんできたはずなのに、薬をやめてまたそこに戻って行かざるを得ないジレンマですね。
そこから逃れるために、命懸けで悪い子になろうと、その薬が必要だから禁じられてる薬物をやったわけですが、その薬をやめて、今度は「良き回復者」というものを演じる。周りに期待された自分を演じていくことによって、薬を使う前のそういう状態がまた出現するわけですね。言葉を変えれば、再び薬を必要とするポジションに逆戻りするわけです。
——そういう問題意識で話を伺ってみたいなと思っていました。私がこれまで取材した市販薬依存の人たちも、一流大学、一流企業、専門職などに所属して、非常に優秀で親や周囲の期待に応えたいという気持ちが強い人がたくさんいました。めばさんの若い頃の話もぜひ伺いたいです。
「優しい虐待」を受けていた子供時代
——子供の頃、家庭内で虐待があったと話されていますね。
虐待というと、暴力とか、ネグレクト(育児放棄)とかをイメージするかもしれませんが、たぶんもう1つ、「優しい虐待」というものがあると思います。
おそらく摂食障害の子たちにも多いと思うのですが、ちゃんと両親が揃っていて、親も仕事をしていて、そんなに貧しい家庭でもなくて、子供の頃から学校にちゃんと行って、勉強もして、習い事にも幼い頃から行って、本も読んで、みたいな家庭です。
私もそういうタイプの家庭で育ち、親はすごく当時では珍しい教育ママでした。最近は、「教育虐待」という言葉も出てきていますね。
——どんな風に教育ママだったのですか?
家に帰ると、問題集が積み上げてあって、宿題の他にそれを毎日解かされる。小学生からずっとそうです。
——お母さんは専業主婦ですか?
パートの仕事に行っていた時期もほんの少しありますが、ほとんど専業主婦でした。
——お母さんは自分の学歴が高かったんですか。
いや、戦争中だから大学にいけなかったんですね。女学校卒です。
——優秀だったわけですね。自分は大学に進みたかったのに、それができなかったから自分の代わりに子供を行かせたかったという感じですか。
そういう思いは見てとれましたね。自分は戦争で勉強もできなかったし、色々とやりたいことをやれなかった。
そういった戦争に起因する未処理のネガティブな感情を押し付けられていたんだなとは今になって思えます。うちに限ったことではありませんが。

——めばさんは、それが嫌でも従っていたのですか?
いや、その頃は嫌だという自覚はなかったです。ただ、それをやることによって、それなりの点数を取らなくちゃいけないとか、通信簿の成績がほとんど5じゃないとダメだとか、そういう強迫的な気持ちはありました。あと、期待に沿わなければ母に叱られるという恐れもいつも胸の内にありました。
——お父さんはそれに対して、なんと言っていたのですか?
父親も一緒で、父親の方がもっとすごいかもしれません。父親は大手企業のサラリーマンで、大学生の就職希望のベスト5に必ず入るような会社に勤めていました。勉強しろという圧力は父の方が強かったです。
——めばさんは一人っ子ですか?
一つ下の弟と、その下にも弟がいる3人兄弟の長男です。すぐ下の弟も同じような状況に置かれていました。
高校になったら進学の道を選ばなきゃいけない。私はアートや文学に興味があったので、そういう方向に行きたいと言ったら、即座に否定されて。父親は経済学部か商学部の出身で、私もそういう進路にしなさいと言われていました。
それをいつも酒を飲んで言う。酔っ払わないと子供と話せない人でした。それも嫌でしたね。
14歳の時にボンドを使い始める
——14歳の時にシンナーを使い始めたのですよね。何がきっかけだったのですか?
北海道のその地域で一番の進学校だった教育大学の付属中学に合格して、最初のテストも学年で首席でした。でも、しばらくしたら5番目か6番目に下がった。中二になると成績はもっと下がって、「ああもうダメだ」と思いました。自分は親の期待に応えられないアホやと。
一つ下の弟も同じ中学に入ってきて、今まで私に向けられていた期待が弟の方に向けられていると錯覚した。自分は頑張ってもできないし、じゃあもうダメなんだと思って。だったら不良になろうと思いました。
——簡単にシンナーは手に入ったんですか?
当時はプラモデル屋に行けば接着剤が手に入りましたし、学校の購買部に行けば、トルエン入りのボンドも買えたんです。
——最初に使った時はどうでした?
自宅のトイレで使ったのですが、あまり効かなかったです。耳がちょっと遠くなって、目の前の空気がちょっと黄ばんでくる。期待したような、華々しい幻覚を見るという体験ではなかった。体の感じが変わって、胃がむかむかして気分が悪い。快感ではありませんでしたね。
でも高校に入ってから使いかたがひどくなっていきました。旭川市で1番の受験校に受かったんですが、受かって1週間ぐらいで父親の転勤が決まった。でも私は残ることを希望しなかったから、その高校には行きませんでした。
偏差値がすごく高かったのでもったいない感じはしたのですが、もうそういうのはどうでもよかった。家族と一緒に京都府舞鶴市の転勤先に行き、新しい土地に行く楽しみやわくわく感の方がすごくありました。
転校先で孤立して薬物へ
でもそこで入った高校で、友達が全然できず、日々緊張する症状が出始めました。友達ができなくなっていくプロセスってすごく不思議で、教室で誰かが話しかけてきても会話が続かないし、自分の方からも話しかけられない。1ヶ月経ったら、ほとんど誰とも喋らなくなって、自分の周りにいくら押しても動かない透明な壁ができたような気がして昼ご飯も1人で食べていました。
いじめられているわけではなかったんですよ。対人恐怖症、今でいう社交不安障害です。話そうとすると、緊張したり、顔が赤くなったり、声が震えたりする。一言声を発するのに膨大な努力を要する。
——そんな状況になって、シンナーをもっと使うようになったんですね。
学校に行ってもつまらないし、1人ですし。それで、昼休みに西舞鶴の駅のトイレでボンドを吸い、市販薬のオーバードーズを始めるわけです。鎮痛薬の箱を3分の1とか半分、一度に飲んでいました。
——市販薬のオーバードーズはどこで覚えたんですか?
薬の情報は、いろんな音楽雑誌や演劇雑誌アングラ演劇のニュースペーパーなどで手に入れました。その当時は、自殺した少女の手記とかが雑誌に掲載されていて、市販薬とか大麻はそういうものからの情報でした。
——勉強のプレッシャーを受けながら、好きな音楽や演劇には関心を持ち続けていたんですね。
そうです。他に詩を書いたりもしていて、高校に入ってからは、雑誌に投稿もしていました。『高3コース』という受験雑誌です。実はこの雑誌の詩のコーナーの選者を寺山修司がやっていた時期があって、これがいわゆるハイティーン詩人の登竜門だったんです。私が投稿した頃は選者が変わって失望しましたが。それでも投稿した作品が入選したりもしていました。
——その創作活動はひとりぼっちの心を慰めたり救ったりするものにはならなかった?
慰めというよりも、詩を書いて、『高3コース』出身の詩人たちがやっている同人誌なども取り寄せるようになって、結果的にそれを頼って東京に家出したんです。そういう憧れの詩人たちと出会うようになるわけです。
親の干渉が強まり、自傷行為も
——その新たな人間関係にも救われたわけではなかったのですね。
いやむしろ、私のODや自傷行為はだんだんひどくなっていきました。そちらのつながりよりも薬の方が生活の中で優先です。ODや自傷の方が、私の生活の中心になっていました。高3の9月ぐらいの頃です。
——先日、「0人になるためにODをやっている」という自作の文章を紹介されていました。ODが酷くなっていった頃の生活はどんな感じだったのですか?
1人でいられないし
2人でいるのは
緊張の連続だし
3人以上の中にいると
息が詰まりそうになる
だから「0人」でいようと
ODをする。
(倉田めばさんの文章より)
親の干渉はすごかったですよ。例えば友達のところにちょっと泊まりにいくと言っただけでものすごく反対されたり、髪型や格好、服装などにもうるさかったりした。髪を背中まで伸ばしていたんです。
——勉強は続けていなかったのですか?
勉強はもう全然やっていないし、学校もエスケープすることが増えていった。もう学校を辞めるかどうかというレベルにまで達していましたから。シンナーや自傷を始めるまで、私は反抗期がなかったんです。
——自傷はどうしてやるようになったのですか?
その頃、付き合っていた年上の女性がいたのですが、母が彼女のお姉さんの職場まで押しかけていって、突然別れさせられたんです。母が「これから勉強させなきゃいけないのに、遊びほうけているから別れさせる」と言ったようです。
私がもう母親を殺してやりたいぐらい怒っていたのですが、「お母さんはあなたのことを心配してるから、怒らないで」と彼女に言われて、別れることになりました。母親に対して怒りをぶつけられないので、家に帰って、「薬じゃ間に合わない」みたいな感じで、カミソリを持ってきて手首を切ったのが最初ですね。
死ぬ気はなく、リストカットですよ。衝動的にやった気がします。
——手首を切ると、母親に対する怒りは収まったのですか?
母親の怒りや失恋の悲しみみたいなものは、一時的になんとかなりました。消えたんじゃなくて、横にスライドした。
——ODのことを、「一時停止」という言い方をされていましたね。そんな感じですか?
それはありますね。それでちょこちょこやるようになりました。
ずっと感じてきたセクシュアリティの揺れ
——女性と付き合っていたということですが、その当時は性自認は男性で、女性が好きな性的指向だったのですね。
ジェンダーアイデンティティ(性自認)とセクシュアルオリエンテーション(性的指向)にはいろいろな掛け合わせのパターンがあります。
今、女性の格好をしてるから男が好きだとか、そういうわけではないですね。

——セクシュアリティの揺れは、ずっと自分の生きづらさのようなものに影響してきたのですか?
その性別違和感はずっと子供の頃からあって、性自認の揺れはありました。当時は一応男性として生きていこうとしていたし、その後もずっと男性として生きていこうという意思と、自分の本来の望んでいる姿が何かずれているとは感じていました。
周りの男の子たちと自分は全く違う。なんかちょっと浮いてるなという感じは常にあります。
——それも薬のO Dや自傷には関係しているのでしょうか?
今から思えば関係していたかもしれないです。その時はそれが薬や自傷に結びついてると、自分の中で認識はしていなかったですけれども。なんだかわからないけど、性的に生きにくいということはベースにずっとあったのではないですかね。
詩やアートの道に進みたくて東京に家出
——そして、過干渉な親から離れるために東京に家出したのですね。
その彼女との一件があったので、高校を出たら家出しようと思っていました。親は受験しなさいと言うけれど、私は全然勉強もしていなかったから、大学には行かないでおこうと思っていました。でも親にははっきり言わず、行くふりをして金を引っ張り出したいという気持ちはありました。
その頃、高校の図書館に『ぼくらの大学拒否宣言』という、3人の高校生が書いた素晴らしい本があって、すごくそれに感化されていました。大学に行くことを拒否して、自分たちのやりたいことをやろうと書いている本です。
この本に載っていた深作欣二監督の『狼と豚と人間』という白黒映画にも影響を受けて、東京に行って、そんなアートや詩や映像演劇の世界に関わりたいと思っていました。で、知り合いの詩人のところに転がり込みました。
(続く)
コメント
私もいい子でいないといけないという思いでつい最近まで生きてきました。家族のギャンブル依存症の問題で、私は繋がる場所、居場所を見つけることができ、今は自分の生きづらさと向き合い生きています。
分かりやすい言葉で発信していだだきとてもありがたいです。
「優しい虐待」という言葉に胸が詰まる思いです。
私も優しい虐待をしていたのかもしれない…それが娘の依存症の一因だったかもしれない、と思いました。
正直な言葉に心を打たれました。
依存対象をやらないは回復の過程であって、根本の生きづらさに向き合っていくことが回復していくことなんだと改めて感じました。
私は食に依存してリストカットもしていたとき、孤独で、でも人と居られなくて、消えてしまいたかった。無くなりたかった。「0人になるため」という表現がしっくりくるなぁと思いました。
今は話せる仲間がいる事がありがたいし、ギャンブル依存症の夫との辛かった過去も、ここに来るためにあったんだなと思えるようになりました。
続きも楽しみです。
優等生であらねばならない、というくだり・・・進学先を親にコントロールされてきた自分と重なるところが多々ありました。
岩永さんの的を得た質問に正直にお話してくださり、読んでいてどんどん惹きつけられました。
特に「0人になるためにODをやっている」という文章は衝撃でした。
ロングインタビューということなので楽しみにしております。
倉田さんを初めて知ったのは今年8月のあるセミナーででした。依存症当事者としてそして今は当事者の回復のために活動されていることを知りました。とても優しい方なんだと感じました。生育の話しは驚きました。私も倉田さんのお母様と同じような事を子供たちにしていました。息子はギャンブル依存症で今、回復施設にいます。息子の生きづらさのことに気がつかなかった母親です。倉田さんのお話し、勉強になります。
回復に殺されるという言葉はまさに私のことだと思いました。回復🟰依存物断つことではない。その根本的なを性格を手放して生きていくための練習としての回復活動があるのだと感じることができました。色々失敗してきましたが、ギャンブルやその他依存行為をやっていた時にはなかった希死念慮のわけがこの投稿のおかげで分かった気がします。あーよかった。失敗したけどいい子ちゃんでいる事を手放す勇気、正直さ、素直さ、の中で仲間の輪に入る、回復のためのプログラムをやる。
"そこから逃れるために、命懸けで悪い子になろうと、その薬が必要だから禁じられてる薬物をやったわけですが、その薬をやめて、今度は「良き回復者」というものを演じる。"
このように倉田さんが正直に丁寧に言語化して振り返ってくださることで、また救われる人が生まれるんだと思います。
「回復に殺される」という言葉に衝撃を受けました。
私は【回復】には、プラスのイメージしかなかったので、改めて考えさせられました。
自分の生きづらさや、考え方のクセに気づいて行動を変えていくことは、やはり大切なことなのだと感じています。