学校でも教団でも孤立 宗教二世のトラウマで酒、ギャンブルに依存して
宗教2世で、抑圧された子供時代のトラウマもあって、アルコールやギャンブルに依存したこともある平出明彦さん(50)。どんな半生を送ってきたのか聞きました。
公開日:2024/07/24 02:03
宗教二世で、抑圧された子供時代のトラウマもあって、アルコールやギャンブルに依存したこともある平出明彦さん(50)。
現在は新潟で介護福祉士や公認心理師、社会福祉士など複数の医療・福祉の資格を持って働きながら、宗教二世や依存症のピアサポート活動も行っている。
どんな半生を送ってきたのか、お話を伺った。全2回。(岩永直子)
やりたいことを禁止された少年時代
——お母さんが5歳の時に新宗教「エホバの証人」に入信して、息子さんの平出さんも巻き込まれていったのですね。
内向的だった母は、戸別訪問に来たエホバの証人の信者に誘われて集会に行き始めました。3つ上の兄と6つ下の弟がいる3兄弟なのですが、弟がお腹にいた時に母は洗礼を受けて正式に入信し、僕たち3人も集会に連れていかれていました。
——幼い頃にやりたいことが制限されたそうですね。
僕も週に3回集会に出て、「暴力的なものはダメ」と言われていたので、テレビもキン肉マンやアラレちゃんが見られない。野球部にも入りたかったのに入れなかったし、当時、流行っていたファミコンもできない。塾にも行けない。
友達と話が合わなくて、小学校低学年の頃から完全に孤立していました。小学校5年生の時には、衝動的に自殺もしようとしましたが失敗しました。
一番つらかったのは、奉仕活動(布教活動)のために戸別訪問をする時にスーツ姿を友達から、からかわれたことです。たまにテレビなどの再現V T Rでそんなシーンが出ると今も苦しくなります。
——必ずお子さんと一緒に訪問していますよね。あれはなぜなのですか?
親に従順でありなさいという教えの現れだと思います。僕も少しでも反抗的な態度を取ると、帰ったらムチを打たれていました。僕の場合はベルトで叩かれていました。
——ムチ打ちもエホバの証人では必ず出てくる罰ですけれども、そのような教義があるのですか?
聖書の中でムチを控える者はよろしくない、という内容の聖句があるんです。
——聖書に書かれていること通りの生活を送る、という教義でしたよね。
輸血拒否もその一つですね。聖書の文言を原理主義的に守るのです。
集団暴行被害をきっかけに自ら宗教に救いを求める
——学校では孤立し、宗教への反発もあって、どこにも居場所がないような思春期を過ごしていたわけですね。
今、振り返ると本当にそうですね。父はエホバの証人には入っておらず、我関せずという態度でした。中学になる頃には、とにかくいい大学を出て、家から早く出て行くことが人生の目標になっていました。
——ところが、中学3年の時、学校でリンチを受けたのをきっかけに心境に変化が起きます。
グループでつるむような人間を馬鹿にしていたので、ある日、呼び出されて集団でボコボコにされました。そこで心が折れたのでしょうね。親に言うのも恥ずかしくて言えませんし、屈辱感を味わって、もう生きていけないと思いました。
その頃、エホバの証人の集会には行ったり行かなかったりだったのですが、たまたまその日、行ったんです。私が久しぶりに来たので、大歓迎を受けました。暴行を受けた直後だから、それがとても温かく感じました。
その頃に「ハルマゲドン(この世の終わり)が来て、悪い人は滅ぼされる」という教義を読んでいたので、「俺をボコボコにしたあいつらは滅びるし、俺は正しいんだ」と思えた。残念ながら、信仰にすがってしまった。
エホバの証人の終末論は、1914年生まれの人が死ぬまでにハルマゲドンが来るというものでした。その時は1989年や90年だったので「終わりが近い」と煽っていました。それにどハマりしたんです。
——20世紀の終わり頃ってノストラダムスの大預言など、終末論が流行りましたよね。
オウム真理教や幸福の科学なども出てきた頃ですね。
詳しく学んで気づいた信仰の穴
——平出さんはハマり込んで、教義を詳しく学ぶようになっていくわけですが、熱心に調べたことで、逆にそのおかしいところに気づいていったのですね。
狂ったように信じて、熱心過ぎたので藪蛇になったのだと思います。エホバの証人の中では「開拓者学校」という2週間ぐらいのカリキュラムがあって、それを受けると教団のコミュニティの中で一目置かれるようになります。20歳になる頃、より高みを目指すため参加しようと思いました。
その開拓者学校に行く前に、エホバの証人の教義に懐疑的な「背教者」の書いた本を読んで論破しようと思いました。それを手土産にして開拓者学校に行こうと思ったのです。
ところが読んでみると、すぐに一発K O負けでした。2割ぐらい読んで、「ああ!」と愕然としました。内部で情報統制していて、預言が外れたことを隠していると書いてあり、創始者のエピソードもこれまで聞いたことがない話ばかりでした。
エホバの証人が唯一まことの神の組織だ、と思っていたのに、なぜそんな情報統制をするのか、不信感を持ち始めました。一度そんな疑問を持ってしまうともう戻れません。1994年の秋ぐらいから通わなくなりました。兄と弟はまだ通っていました。
現実逃避したくてアルコール漬けに
——信じていたものがなくなって、どうなったのですか?
昼間から酒を飲むようになって、アルコール漬けになりました。当時はウォッカが安くて、50度のウォッカが720ml入って980円でした。それをコーラで割って飲んでいました。
酒を味わうのではなく、現実逃避をするため薬物を入れる感覚でした。「俺、今まで何やってきたんだろう」と呆然としていました。
——お母さんは何か言いましたか?
手がつけられない状態だったので、母も引いていました。注意さえされませんでした。一日中飲んでいました。
決定的だったのは、1994年の10月にウォッカを飲み過ぎて昏睡状態になったことです。母親が「みっともない」という理由で救急車を呼んでくれなかったのです。呼吸ができなくなり死にかけました。
そこから完全に集会には行かなくなりました。
高校を卒業して以来、昼間に奉仕活動をするために、早朝に酒を運ぶ仕事をしていました。フルタイムの仕事には就いていなかったのですが、世界の終わりがもうすぐ来るんだから非正規だっていいだろうと思っていたんです。
——教義の影響で短いスパンで人生設計をせざるを得なかった。でもその教義が信じられなくなって、拠り所を失ったわけですね。
私が盲信していたハルマゲドンの教えは、結局95年に修正されたそうです。ハルマゲドンが来る時期が先延ばしになった、という意味で「修正」されました。「ハルマゲドンが来る来る詐欺」みたいなものですね。ふざけんなよと思いますよね。その後も教団はいくつかの教えを修正しています。
17歳で弟が自死
——その後も酒を飲み続ける日々が続くわけですが、23歳の時、弟さんが17歳で自殺したのですね。
高校2年生の11月の日で、前の日が文化祭でした。学校で何かあったのかなと思ったのですが、遺書には「いじめではない」と書いていました。そして「もう疲れた。後は野となれ山となれ」と書かれていました。母が弟を発見しました。
その前に私もやらかしていたんです。
20代になってから、私は酒のほかにパチンコと競馬も始めていました。ギャンブルに使うためのお金を稼ぎたくて、割りのいい運送会社で宅配をやって、ドサまわり的な仕事もしていました。
22歳の6月、そのドサ回り先で飲んで暴れたんです。泊まっているところの壁に穴を開けたりもしました。
自分には学歴コンプレックスがあったのですが、中学の時に英検も頑張って、英語は自信があったのです。でもその日、英語を話せる外国の方が接客してくださるパブで飲んでいたら、「chair」という発音をダメ出しされて、すごく腹が立ったんです。そんな些細なことがきっかけで、帰ってから暴れて警察沙汰にもなりました。
介護の仕事で初めて「生きていていいんだ」と救われて
——そんな不安定な精神状態の時に弟さんが自死されて、どうなったのですか?
流石に反省して真人間になろうと思って、そこから介護の仕事を始めたんです。8ヶ月臨時で真面目に働いていたら、上司が評価してくれて正職員に推してくれました。
でもその時は、正職員にはなれなくてその上司に謝られました。「頑張ってもダメだった。一緒に働きたかったのにごめんね」と。
それを言われた時に初めて、「ああ自分は生きていていいんだ。ここにいていいんだ」と思えました。初めて居場所を得ることができたと感じたんです。介護する高齢者の人にも喜ばれて、こんなに人からありがとうと言われる仕事ってないなと思いました。
信仰では救われなかったけれど、現実世界で自分を救うことはできる。そこで介護の仕事に本格的に関わろうと思いました。
別の事業所で介護の仕事をまた始めました。そこでも正職員になれるか心配で、まだ不安定だったのでしょうね。実家に帰った時に、鍵が閉まっているのに腹を立てて、ガラスのドアを蹴り破ったんです。
その1週間後に弟が自死しました。それが直接的な原因かどうかはわかりませんが、いまだにすごくこたえています。
——違うと思っても結びつけてしまうのですね。
今はそれは関係ないと自分でも思っているのですが、ずっと考えてしまって。
——弟さんが亡くなった時、どんな思いを抱きましたか?
兄として何もできなかった悔しさを感じました。ずっと反抗期のない弟だったんです。おとなしくて言うことを聞いて、いい子でした。四十九日が終わって家を出ました。正職員にもなって自立ができたし、もう実家にはいられなかったです。
——お母様はどんな様子でしたか?
母親がおかしくなるんじゃないかと思って、僕は母親に何も言えなくなりました。流石に息子を失った母親に、追い討ちはかけられない。信仰を持っている人だから、結局大丈夫でしたけれど。
介護福祉士、ケアマネ、社会福祉士、公認心理士……次々に資格を取得
——実家を出てからはどんな生活を?
特別養護老人ホームで正職員になって、ボーナスが出るようになったので、放送大学に通うようになったんです。ボーナスを学費に全部突っ込みました。
——そこで「学ぼう」と思うのがすごいですね。
勉強できるのが嬉しかったんですよね。学歴では悔しい思いや惨めな思いをずっとしていたので。20歳過ぎてからは、ブラック企業的な仕事が多かったし。
介護福祉士の資格も取り、放送大学を卒業しました。
運が良かったのはちょうど2000年から介護保険制度が始まったことです。ケアマネジャー(介護支援専門員)の資格もできて、それも取りました。
この資格を活かして2002年に転職して、28歳で居宅介護支援事業所の管理者になりました。
——学ぶことで自分の人生を切り拓いていったのですね。
悔しかったのでしょうね。あの時は必死でした。そうでもしないと宗教2世のことも弟のこともあって、たぶんフラッシュバックでおかしくなっていたでしょう。常に過活動にしていないと、自分の心を保てなかった。社会福祉士も公認心理師もそういう感じで取りました。
仕事も狂ったようにしていました。地域や職能団体の役職についても「俺が俺が」という感じで、なんでも手を挙げていました。
——人に認められることで、自己肯定感を得ていたのでしょうか?
結局、他人軸が基準だったのでしょうね。人の評価が全て。公認心理師になってから、自分のその心理がポロポロと見えてきて、それに向き合うのはつらかったですね。
——お酒やギャンブルはどうでしたか?
変な飲み方はしなくなりました。放送大学に行き始めてから、パチンコ、競馬はやめ、酒は晩酌程度になりました。当時、今の妻と付き合い始めていて、「そういう飲み方は嫌い」と一度言われて、飲みすぎることは無くなりました。
(続く)
コメント
匿名様
コメントありがとうございます。
そのようなコメントを頂くと、本当に今日まで生きてきてよかった、と報われた気持ちになります。
よくぞ生き抜いてこられ、そして壮絶な体験を話してくださり、ありがとうございます。