Addiction Report (アディクションレポート)

「今日まで生き延びた恩返し」経営者の挑戦…「当事者」を超えて 上堂薗順代さんインタビュー【前編】

あるときは経営者、あるときは支援者、あるときは双子の親、そしてアルコール依存症から回復し続けている断酒歴28年の当事者として、マルチに活動し続けている上堂薗順代さん。

その原動力は、どこからーー。

「今日まで生き延びた恩返し」経営者の挑戦…「当事者」を超えて 上堂薗順代さんインタビュー【前編】
上堂薗順代さん(撮影・吉田緑)

公開日:2024/09/11 02:00

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上堂薗順代さん(60)は、いくつもの「役割」をこなすマルチプレイヤーだ。

あるときは看板製作会社ジェイ・ワークス(広島県福山市)の社長として店や建物に彩りを添え、あるときは精神保健福祉士、社会福祉士の資格を活かし、生きづらさを抱えた人たちに寄り添う。

2023年には、アルコールや薬物などの依存症や発達障がいの女性たちを受け入れるために、共同生活援助施設「グループホームJ‘s」(広島県福山市)を開所した。

多岐にわたる活動の原動力はどこからくるのか。「今日まで生き延びてきました。だから、恩返しをしたい」と語る上堂薗さんに、話を聞いた。(ライター・吉田緑)

多岐にわたる活動「切り替えができる」

会社の敷地内に「グループホームJ‘s」を開所してから1年が経った。施設には20〜60代の女性たちが入所し、看護師のほか、アルコールなどに依存した経験をもつ「ピア・サポーター」のスタッフらが働いている。上堂薗さんも「専門家」として携わる。

入所者が抱えている「生きづらさ」や困りごとは多様だ。向き合うための努力も欠かさず、学びのために全国各地の勉強会や学会などに足を運ぶ。もちろん、経営者としての仕事もしながらだ。

「何かひとつのことだけをしていると、それだけになってしまう。これまでも子育てをしながら仕事をしてきました。複数のことをしていると、何かがしんどくなったときは別のことをする、というように、切り替えができるんです」

上堂薗さんにとって、生きづらさを抱えた女性のためのグループホームを開くことは目標のひとつだった。勉強に励み、社会福祉士や精神保健福祉士、サービス管理責任者など、開設にあたって必要となる資格を取得した。

ずっと、何かを残したいと思っていた。「今日まで生き延びてきた恩返し」のためだ。

「私自身、いつ死んでもおかしくない状況だった」と振り返る上堂薗さんは、「死にたい」と思い悩んだ時期がある。「家庭」は安心できる場所ではなく、家庭内暴力のある機能不全家庭に育った。不妊・不育症に苦悩し、流産を繰り返し「なんで、こんな身体に生んだんだ」と親への怒りを募らせたこともあった。

そして、アルコールをやめられなくなり、苦しんだ過去もある。

アルコールで大暴れ、店のものを破壊

アルコール依存症のことを初めて公にカミングアウトしたのは、断酒してから8年後のことだ。若い経営者の集まりだった。

「経営者の集まりでは、飲みの機会が少なくありません。周囲に打ち明けたことで、余計に飲めなくなりましたが、嘘をつかなくてもいいので楽になりました。最近は飲まない人も増えていますが、当時は飲みの席で『飲めないのか』と聞かれたときは『飲んだら暴れるんです』と笑いながら返していました」

最初に酒を飲んだのは16歳のとき。「イヤなことを忘れるため」だった。

上堂薗順代さん(撮影・吉田緑)

高校生だった上堂薗さんは、友人と行った祭りで、たまたま出会った7歳上の男性と交際するようになった。家族には黙って車であちこち出かけていた。ところが、家のまわりを走る車の爆音で、ついに家族に知られてしまう。

「 『高校生が7歳も上とかありえん』『学校と塾以外は外出させない』と言われました。それでも隠れて会っていましたが結局バレてしまい、ますます監視が厳しくなり、住所録を破かれ、連絡できないようにさせられたんです」

「もう、どこにも行かない」と、自分の部屋にこもった。

「部屋の押し入れには、父がお歳暮やお中元でもらったウイスキーが山のようにありました。ドラマなどで『イヤなことを忘れるため』に飲んでいるカッコイイ俳優をみていたので、自分も飲んだらイヤなことを忘れて楽になれるかなと思いました。ウイスキーとコーラをひたすら飲みました。当時はコークハイが流行っていたので。正直、おいしいとは思いませんでした」

上堂薗さんが描いた当時の状況(本人提供)

「しあわせな家庭」に憧れがあった上堂薗さんの夢は「おかあさんになること」。「子どもがほしい」と願い、22歳で結婚した。

しかし、その願いは、なかなかかなわなかった。授かったと喜んでも、流産してしまう。ストレスから摂食障害になり、アルコールを流し込むことでつらい気持ちを麻痺させた。

当時はバブル時代。タダで飲ませてもらえる機会も多く、常に近くにアルコールがあった。

「世の中の人は、みんなお酒を飲むものだと思っていました。おもしろい人は、みんな酔っ払いだったんですよね。飲んで暴れて店のものを破壊したり、他の客に絡んだりしては『もう来るな』と言われていました」

行きつけのバーもあった。マスターのことが「お気に入り」だった。泥酔するまで飲んだときは、家まで送り届けてくれた。しかし、アルコールの席でのトラブルは尽きず、周囲から人は離れていった。行きつけのバーでもついに大暴れし、入院を余儀なくされた。

その後も入退院を繰り返し、何度もスリップ(再飲酒)した。

それでも「人」として変わらず向き合い続けてくれる福祉職の人たちがいた。どんなに無茶なことを言っても、上堂薗さんを見放さなかった。当時新卒で入ってきたある精神保健福祉士は「何もできないけれど、聞くことはできる。苦しくなったらいつでも連絡して」と、寂しくないように声をかけ続けてくれた。

自助グループ「断酒会」などにもつながり、1996年2月に断酒した。32歳だった。

長年止まっていた生理も戻り、念願の妊娠がかなった。しかし、ここからまた苦悩の日々が続いた。

「 『授かった』と喜んでも、6週目で子どもの心拍が何度も止まる。不育症でした。あちこちの病院を巡り、やっと治療方法がみつかり、断酒して3年目で双子を授かりました」

2024年現在、断酒歴は28年になる。

断酒後に訪れた「不思議」な再会

上堂薗順代さん(撮影・吉田緑)

断酒してから6年後、ある人物と思わぬ形で再会を果たした。

「私が大暴れしてしまったバーのマスターが隣に引っ越してきたんです。とてもビックリしました。『もう、お酒はやめたんですよ』と話すと『元気そうでよかった』と言われました。そんな他愛のない話ができるようになるとは思いませんでした」

マスターだけではない。グループホーム開所後も、別の人物と再会できた。入院中に上堂薗さんを見放さなかった精神保健福祉士のひとりが「入所者の相談支援員」として現れた。

「私が出会ったときは新卒のワーカーでしたが、すっかりベテランになっていました。お互いに『支援者』として話すのは不思議な感じでしたし、『私が今していることを認めてもらった』嬉しさもありました」

グループホームをつくろうと思ったのは、男性のための回復支援施設はあるものの、女性が入所できる施設が限られているためだ。約30年前は断酒会に訪れる女性当事者も少なく、上堂薗さんも「ご家族の方ですか」と聞かれたことがある。

「女性のための居場所が必要だ。ないならば、私がつくろう」

そう思い、必要な資格を得て開所に至った。しかし「支援者」として入所者と関わるうえで、戸惑うこともあった。

(続く)

【上堂薗順代(かみどうぞの・のぶよ)経営者・社会福祉士・精神保健福祉士】

ジェイ・ワークス株式会社代表取締役。二級建築士。二級施工管理技士。2種電気工事士。屋外広告士。グループホームJ‘s管理者。ASK認定依存症予防教育アドバイザーとして依存症予防教育に取り組み、病院や大学、企業等でも講演活動をおこなう。1996年2月に断酒し、断酒歴28年となる。

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コメント

6日前
匿名

上堂薗さんの事はたかりこチャンネルで拝見しておりました。

依存症に至る経緯を更に詳しくお話して下さりありがとうございます。

入退院を繰り返し、何度もスリップしても諦めず寄り添って下さった精神保健福祉士の御一人がグループホームの相談支援員になったのは本当に不思議な御縁ですね。

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