親父に別れる【3】人生は、生きるに値しない
ギャンブル依存症だった父親が、一線を越えた。いままで書いたことがなく、書きたくもないことを、書く。なんのために、なのだろう。
.jpg?fm=webp&q=70&w=500)
公開日:2026/01/17 02:39
連載名
親父に別れるわたしが小学6年のときであった。父親が、刃傷沙汰の事件を起こした。
まだ未成年のことで、詳細は知らされなかった。のちに断片的に聞いて分かったことだが、相手は、ノミの金貸しだった。正規の消費者金融ではなく、遠い知り合いにあたる素人だった。
金策に窮した父が、返済の延長を申し入れに言ったところ、嫌みの二つ三つを言われたのであろう。体が大きく、子供のころはお山の大将でもあった父が、その場で台所に上がり込み、包丁を奪って切りつけた。腹いせに脅すつもりだったという。
駆けつけた警察に、その場で逮捕された。相手は軽傷だった。傷害ではなく、さらに重い殺人未遂で起訴された。父は初犯だったが、裁判では執行猶予が付かず、有罪になった。被害感情が強かった。「誠意をもった謝罪がない」とのことだった。誠意、つまり、カネだろう。それと、被告つまり父に、改悛の情が見られないことが原因だともいう。
小さな事件だが、逮捕されたとき、当時の新聞が一紙だけ、報道した。朝日新聞だった。
警察が発表し、各社に報道資料を配った。「ちんけなヤマ(事件)か」と、記者たちは軽口をたたいたであろう。おそらく朝日はその日、紙面にあきがあった。「埋めぐさ」の記事が必要だったのだろう。短く載った。
事件のうしろに生きた家族はいる
のちに朝日新聞記者になったわたしも、いままでさんざんやってきたことである。けちな粗暴犯で、載せる価値もないが、ちょうど紙面があいている。警察発表を、言われたまま書く。発表用紙の向こう側に、生きている人間、家族がいることは、頭の隅にものぼらない。
だが、生きた家族はいた。新聞記事が出たその日、母親は仕事に出ていたのか、警察に呼ばれていたのか、いつものことだが自宅にはいなかった。子供3人だけの家で、夜、黒電話が鳴った。小学生だった弟が出た。
はい。そうです。はい。いえ。いま、いません。はい。
なにやら、親父の話をしているようだった。「だれだ! 代われ」。弟から受話器を奪うと、電話は切れた。3人兄弟の、だれかの級友の保護者であったのだろう。今日の新聞に出ていた人、あなたのお父さん? たいへんねえ。いま、お母さんはいるの? 子供だけ? 心配だわね……とかなんとか。
なにが心配なものか。新聞を読んで、ほんとうかどうか確かめたかっただけの野次馬だ。
人間なんか、どいつもこいつもくだらない。
世界に逃げ場はない。どこにいったって汚辱に満ちている。
人生は、生きるに値しない。
小学生だから、こんな語彙は持っていなかった。しかし、いまにいたるまでわたしがもち続けている、基本的な人間観、世界観は、あのとき、決定づけられたのだ思う。
カジノサイト接続遮断はなんのため?
ことのついでにいえば、2025年11月17日の朝日新聞に、非常に興味深い記事が載った。若江雅子編集委員による記者解説「カジノサイト接続遮断」がそれで、オンラインカジノのブロッキング(接続遮断)を問題にしている。ブロッキングはオンラインカジノ利用者だけではなく、全ネットユーザーの通信の秘密を侵害する、と指摘したうえで、そもそも、国民の権利を侵害する恐れを犯しながら、なぜブロッキングを急ぐのか、と疑問を呈する。はっきりいってそれは「巨大な国富の流出」を恐れているからだ。
「巨大な国富」とはなにか。オンラインカジノがなかったら、国内のパチンコやパチスロに流れているはずのカネのことだ。つまり、ギャンブル依存症になるなら、国内でなれ。国内のギャンブルにカネを落とせといっているのだ。
下劣な国家に、くだらない国民が生きるのはあたりまえだ。
父が逮捕された数日後、母親が、さすがに暗い顔つきで、「お父さんはしばらく帰ってこない」と子供たちに告げた。自分も、フルタイムで働きに出る。夜も遅くなるだろう。夕飯は作っていくのでそれを食べて。火の元に気をつけて、早く寝て。そんなことを告げていたのが記憶に残っている。
学校では、さほど変わりがなかった。教師が気を利かせて、話題にするなと手回ししていたのだろうか。まさかそうとも思えない。やさしい教師なんていなかった。自分から世界に耳を閉ざしていたのだろうか。もともと友だちといえる友も、いなかった。家にあったわずかばかりの本と、雀荘のなごりで残っていた流行歌のシングルレコードと、安物のポータブルプレイヤーと。文字と音との世界に、閉じこもっていたように記憶する。
わたしが50歳を過ぎたころに聞いたことだが、当時中学生だった兄のほうは、友人ら数人の不良グループを離れて、たまり場に顔を見せることはなくなったようだ。からかわれるのが、がまんできなかったのであろう。弟のことは、知らない。まだ小さすぎたから、事態が分かっていなかったかもしれない。
初めて銀座でランチを食べた
父親が収監されてしばらく経ったころだと記憶している。母が、子供3人を連れて銀座のレストランに連れて行ってくれた。昼間のランチで、ハンバーグに、ジュース。それだけのものだが、貧しかった家庭で、そういうぜいたくは絶えてしたことがなかった。
しばらく父親がいない。詳しくわけは話さないが、がまんして、ぐれないでいてほしい。
雪深い新潟の田舎が出身で、中学を卒業してすぐに働き始めた母親の、持っているものといえば子供しかいない女の、それは哀れな必死さだったのだろう。当時、そうは言語化できなかったが、そんな哀れな女を目の前に、生まれて初めて、銀座でハンバーグを食べ、オレンジジュースを飲んだ。
どうしたわけなのか、わたしのジュースのグラスがしぜんに割れ、中身がこぼれた。わたしが落としたのではない。だが、ウェイトレスはグラスを片付け、そのまま行ってしまった。代わりは、持ってこなかった。こちらの過失ではなかったのに、わたしも、母親も、文句を言わなかった。言えなかったのかもしれない。
世間になにか文句を言える立場ではないだろう。おまえたち、犯罪者の家族。
会計のとき、わざとその店員に聞こえるような大きな声で、「まずかった」と言った。子供らしい、復讐のつもりだったのだろう。店員がちらりとわたしを見た。母が、いかにも意外だという表情で「おいしくなかった?」と泣きそうな顔でたずねた。せっかくのぜいたくをさせてこれでは、立つ瀬がなかろう。
母が死ぬ前に、ひとこと謝りたいと思っている。まだ果たせていない。
