親父に別れる【2】白いおまんまに、塩をかけて食えりゃあごちそうだ
タクシー運転手を続けながら、ギャンブルに溺れていた父。子供だった自分は、振り回されて生きてきた。激しく憎んだ存在だが、気付けばわたしに深い痕跡を残しているのを認めざるを得ない。
公開日:2025/12/17 02:01
連載名
親父に別れるギャンブラーだった父の、表向きの仕事はタクシー運転手だった。タクシードライバーは、昔もいまも、骨の折れる重労働だ。賭けに勝ったのであれば、馬鹿馬鹿しくて仕事になど行っていられない。また、負けたのであれば、深酒してふて寝をし、仕事をする気も起きない。酒も、残っていたことだろう。そんなありさまだから、同じ会社にいられるはずもない。小学校高学年まで、覚えているだけで3度会社を変えた。その後は、馬鹿馬鹿しくて覚えてもいない。不良社員。会社のお荷物。
不良社員なのに、ちゃっかり会社を利用する知恵はあった。というより、ギャンブラーに特有の図々しさ、「ふてえやつ」だったのだろう。言ったように、家には風呂がなかった。そのころはまだ安かった銭湯に、週に1、2度、入った。そのカネも惜しくなったか、「会社の風呂へ入れ」と言われた。会社は、タクシー運転手が夜明けがたに帰庫したのち、ひと風呂浴びるため、浴場を用意していた。午後7時、8時などは人がいない。そのすきに忍び込んで入ってしまえ、というのだ。
父に連れられてわたしたち子供3人、真夏の仮眠室で寝たこともあった。車で帰宅するドライバーのため、明け方に仮眠を取る場所だった。空調が効いて涼しい2段ベッドに、親子4人で横になる。家にはエアコンがなかった。ぜいたくをさせているつもりだったのかもしれない。夜中、管理者に見つかれば、追い出されるのであるが。
あれは小学校高学年だったか。深夜のタクシー会社車庫で、洗車をさせられたこともある。運転手は帰庫すると、タクシーを自分でざっと洗うのが規則だった。父親の車を洗い、それでも帰らずに待っている。次々帰庫してくるタクシーのドライバーに話しかけ、自分で洗いたくない運転手のかわりにボディとタイヤを洗うのである。手間賃に、5百円かそこらの硬貨をもらった。
真夜中に煌々と光る駐車場の黄色いライト。脂で白く固まった安っぽい洗車用洗剤。緑色の制服を着て、しょぼついた目をしているドライバーの男たち。たばこの煙。
運転手の1人がわたしに「いくつだ?」と聞き、ココナッツサブレをくれた。甘ったるい香りが好きじゃない菓子だったが、腹が減った明け方の車庫では妙にうまかったのを、よく覚えている。
「誕生日はない」ことになっていた
数年ごとに会社を変えるタクシードライバーの父は、もちろん、いつでもカネに困っていた。親から月々の小遣いをもらったことなど、一度もない。誕生日プレゼントなどあるはずがない。
というのも、子供3人には、誕生日がないことになっていた。プレゼントを買って祝うカネがないのもそうだが、それより大きかったのは、近所の小学校の子供たちのあいだで、誕生会をするのが習わしになっていたことだ。誕生日を迎えた子の家庭に、お呼ばれする。食事が出て、ケーキが出て、各自が安いプレゼントを主人公に手渡す。わたしも、何度か呼ばれた。しかし、彼らを家に呼ぶことはなかった。親に禁じられていた。「うちは、しないんだ」と言われた。
両親からも、兄弟からも、だれからも、「誕生日おめでとう」と言われたことはなかった。そういうものだと思っていた。
そんなだから、正月、親戚にお年玉をもらうのがなによりの楽しみだった。せいぜい千円かそこらだが、手広く商売をし、子供も多い祖父の家には、年賀に集まる親戚がそこそこ多く、うまくいけば五千円くらいにはなった。それで、1年の小遣いをやりくりするのである。本が、ほしかった。
家の隣は小さな特定郵便局で、小学高学年からは預金通帳を作った。お年玉をためておき、どうしても欲しい本が出たら買うつもりだった。貯金を使うことは、しかし、ついぞなかった。正月を過ぎてしばらくすると、父親に、貸してくれと言われた。「来月に返すから」とも。
兄や弟については、知らない。わたしは郵便局に貯めているのを、父は知っていたのだろう。そして、「来月」は、いちども来なかった。返してくれとも言えない。毎日の貧しい食卓を見ていれば、返すカネなどどこにもないのは、子供の目にも明らかだった。
朝は食パン1枚だけ。夜は冷や飯に、おかずは一品のみ。母は、夜、料理屋で働いていた。どうかすると、そのおかずも怪しくなった。シーチキンの缶詰が1個。兄弟3人でそれを分けることもあった。
——白いおまんまに、塩をかけて食えりゃあごちそうだ。
そのころの父が口癖のように言っていたことを、いまでも覚えている。おかずなんかいらない。白米こそがごちそうなんだ。
生命は一時的な〈現象〉だ
育ち盛りの子供に満足な栄養も与えられない、親としての情けなさ、負け惜しみ、そうした類いの啖呵だったのだろう。なにを言っていやあがると、当時は思っていた。殺し合いそうなほど憎み合った父とわたしだが、しかし、この啖呵だけは悪くない、というより、自分でも身に染みて同意する。いまに至るまで、わたしの生活信条になっている。
わたしは、グルメと称される輩が、大嫌いである。グルメ番組、グルメ漫画、食通自慢の本、どれも虫唾が走る。四の五の言うな。だまって食え。白い飯を、ありがたく、押し戴け。夏目漱石『抗夫』を読んで見ろ。明治時代、暗い坑内で命を張って働く男たち、女たち、近代産業の尖兵たる鉱山労働者は、白米を食えるのは正月だけだったんだ。
12年前からわたしは米百姓となり、鉄砲撃ちの猟師になった。そうして、初めて分かったことがある。わたしの命は、他者の命の集積だ。鴨、鹿、猪ら、けものたちはもちろん、米を作るのにも無数の命を奪っている。ミミズ、カエル、蛇、ジャンボタニシ。そして幾万本もの名もなき〝雑草〟たち。彼らの命と引き換えに、わたしの〈生命〉という一時的な現象は存在し得る。自分の手を血で汚すようになり、初めてそれが分かった。
うまいのまずいの言うな。白いおまんまに、塩をかけて食えりゃあごちそうだ。
もっとも、この親父がそんな「汗」をかいていたとは思わない。手や足の豆をつぶしたこともないだろう。むしろ口がおごっていて、おかずも酒のつまみも、自分の好みにはうるさいほうだった。
口に合うものしか食わなかった。賭け事に勝って、貯金するギャンブラーはいない。勝ったときは、うなぎの白焼きに天ぷらなんかで、外で酒を飲んでいた。末の弟はかわいがっていて、よく一緒に連れていったようだった。家でも、気に入った缶のつまみを買ってきて、浴びるほど飲んでいた。酌をされるのが嫌いで、手酌で、好きなだけ飲んだ。負けがこんで懐がさびしいときは、食わなくてもいい。
親子の情にほだされるようじゃあおしまいだ
前回書いたように、祖父に家を貸してもらって、実家は雀荘を始めた。しかし、学生などの客を相手に雀卓を囲み、おそらくは勝っていたのだろうから、そんな店が長く続くわけもない。わたしが小学高学年くらいで雀荘はたたみ、タクシーの運転手を始めた。
それでもう雀卓を囲まなくなったのかというと、そんなことはない。近所にあった雀荘、自分の店のライバルであったろう店に入り浸り、よく卓を囲んでいた。相手は友人ではあり得ない。いつでも、顔の知らない、目つきの険しい男たちと無言の勝負をしていた。
母は、夜は働きに出ていたが、たまたま家にいると、わたしに、雀荘で卓を囲む父を呼びに行かせた。世界でいちばんいやな〝おつかい〟だった。母が行けば喧嘩になる、小さな子供を使いにやれば、情にほだされ切り上げてくる。そんな計算だったのだろう。
しかし、親子の情にほだされるようではギャンブラーはおしまいだ。呼びに行き、背後に立っていようとなにしようと、父は「分かったよ」のひとことだけで、わたしを見ることもしない。「敵」の男たちもおなじだ。「ぼうやいくつだ?」と問いかける男は、いなかった。雀荘の主人であった中年の女性が、小さな子供が雀荘にいるのを、気の毒そうに、しかし絶対に話しかけないという決意めいたものを横顔に表して、わたしとは決して目を合わせなかった。
麻雀ならば、勝負に時間がかかるし、賭け金もおのずと限りがあるだろう。当の本人は「麻雀が運だと思っているやつは、お客さん」と豪語していたのだから、腕に覚えもあった。さほど負けが込むとは思えないし、事実、違った。
人はあわれな影法師
雀荘をたたんだ家には、よからぬ風体の男たちが入り込むようになった。週末に顔を出す男に、「エグサさん」というのがいた。父は「エグサ」と呼び捨てにしていた。友だちではなさそうだった。
「エグサさん」と父は、昼からビールを飲みながら、2人の間に座布団を置き、花札を切っていた。麻雀の点棒をやりとりしていたから、賭け花札には違いなかろう。「エグサさん」がいるときに、ようやく家に入った家庭用の黒電話がよく鳴った(それまでは電電公社が雀荘に設置した、10円玉を入れてかけるピンク電話しか家になかった)。電話には、いそいそと父が出た。なにやら数字を手短に話す。馬券である。それも、競馬場で正式に買うのではない。やくざが胴元のノミ競馬に賭けていたようだった。麻雀ならともかく、競馬で継続的に勝てるわけがない。ラジオでレース結果を聞いては、「競馬で勝てるわけがない」とよく自嘲していた。
「走っているのは畜生で、乗ってるやつは赤の他人」
まったくである。だったらなぜ賭けていたのか。あとで分かるが、競輪もしていた。花札の手慣れた扱いから推測するに、丁半博打だってしていただろう。
激しく憎んだ父親だが、気付けばわたしに深い痕跡を残していることも、いまなら認めて、いい。わたしも、酌をするのもされるのも嫌い。酒は独りで飲む。うまいのまずいの、つべこべ言うな。銀シャリに塩かけて食えりゃあごちそうだ。人生ははかない一抹の夢。結局、丁か半かの博打にすぎない。赤の他人に賭けるな。
人生は芝居、人はあわれな影法師、
わいわいがやがやわめきたて、
そのときがくればおさらばよ。
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more.
(シェイクスピア「マクベス」)
