『毒親育ちが大人になってから』作者が語る「父は犬のためには酒をやめるのに…」
父の暴言に苦しむ子どもたちを、母は助けてくれなかった。「苦しみから逃れるために、自身も何かに依存せずにはいられなかった」と話すライター・ZINE作家のやーはちさんに、これまでの生活を振り返ってもらった。

公開日:2025/09/24 02:00
アルコールに依存する父、過干渉でスピリチュアルに傾倒する母との暮らし、両親と決別してからの紆余曲折を、自身が制作したZINE『毒親育ちが大人になってから』で赤裸々につづったライター・ZINE作家のやーはちさん(31)。続編の『毒親育ちの恋愛事情』も合わせると累計400部が売れ、『文學界』(2024年8月号)でお笑い芸人のラランド・ニシダさんも紹介した人気作だ。
「自身もアルコールやパートナーに依存していた時期がある」と語る彼女に、Addiction Reportは話を聞いた。(ライター・白石果林)
人を学歴で判断する父
「東大か医学部に入れ!」
「お前たちにいくらかけたと思ってるんだ!」
いつも大きなボトルの焼酎を飲んでいた父は、酔うとしつこくやーはちさんや弟を怒鳴りつけた。地方の私立大学を出て公務員になった父には、学歴コンプレックスがあったという。
「父は人を学歴でしか見ていなかった。慶應出身のタレントを『慶應』と大学名で呼ぶんですよ。レベルの高い学校に入って立派な仕事に就かないと生きている価値がないと刷り込まれました」
中学生だった彼女は、「高校受験に落ちたら死のう」と本気で考えるほど追い詰められた。
父は暴力こそ振るわなかったが、酒を飲むたびに「俺はこんなに頑張っているのに!」などと家族に当たり散らした。「もうわかったから寝ようよ」とあしらえば余計に激昂する。仕事帰りに酒を飲んで、社宅の階段の踊り場や公園の東屋で寝てしまうこともあった。
父のなだめ方がわかってきたのは、高校生になる頃。労りの言葉をかけると怒りが収まるのだ。「仕事大変だよね」「いつも頑張ってくれてありがとう」——そう言いながら水を飲ませて寝かしつけるのが、やーはちさんの役目になった。
父のケアにどれだけ時間をとられても、早朝から受験勉強をしなくてはならない。「あまり寝る時間がなかった」と当時を振り返る。
「酔わなければいい人だから」
母は子どもを守ることより、父の機嫌をとることを優先した。「酔わなければいい人だから」と、子どもたちを追い詰める父を止めてくれることはなかった。
そして、母の過干渉にも苦悩した。
「一番覚えているのは、小学校の宿題の絵日記に知らないうちに書き加えられていたこと。引き出しにしまっていた日記も勝手に読まれていました。嫌な顔をすると、『あなたのためにしてあげてるのに!』と言うんです」
同窓会帰りの母から「今度、元カレとデートするんだ。この間あなたと行ったカフェに行ってくるね」と言われたこともある。
「気持ち悪いですよね。母は私を娘ではなく友達のように思っていました。母も医療職が多い家系で厳しく育てられ、『成績が上がらないから吹奏楽部をやめさせられた』と言っていました。認められたり褒めたりされることをいまだに望んでいて、その役割を私に求めていたんです」
一度、母方の祖母と叔母に「父から私や弟を守ってほしい」と訴えたことがある。母の実家は病院で、叔母は小児科医だった。
しかし、「お父さんは病気だから、あなたがアルコール依存症の勉強をして支えてあげなさい」と言われてしまう。
「医師である叔母がそう言うんですよ。もう誰に頼っても無駄だと思いました」
「犬のためにはやめられるのに」
一度だけ父が酒をやめたことがある。
東日本大震災で被災した親戚から、半年ほど犬を預かったときのことだ。犬の名前はラブ。意外にも父は、甲斐甲斐しくラブの世話をした。早起きして散歩に行くために、酒を飲まなくなった。学業のことで怒鳴られることはなくなり、かわりにラブの話題に花が咲いた。
初めてともいえる、家族の平和な時間だった。
「そういえば親戚が、父を愛情深い人だと言っていました。愛情深い人間は家族にこんな仕打ちしないよと思いましたが、私たちが赤ちゃんだったころは可愛がっていたのかもしれません。一方通行の愛情しか注げない人なんでしょうね」
親戚がラブを迎えに来ると、ラブはこちらに目をくれることもなく飼い主に駆け寄った。ラブがいなくなり父は再び酒を飲み始め、生活は元通り。「犬のためには酒をやめられるのに、子どものためにはやめられないのか」とやーはちさんは思った。
父に犬を飼うことを提案したが、「死ぬのが悲しいから」と頑なに拒んだ。やーはちさんと弟は、「ラブの思い出をでっちあげては父に話した」という。その時だけは、束の間の穏やかさが訪れた。
娘の本棚をチェックする母
1年浪人の末、医学部には落ちたが、薬剤師である母の希望で受けた東京理科大学の薬学部に合格。父から慰めや祝いの言葉はなく、それどころか彼は「お前、なにか言うことないのか」と結果をなじった。
やーはちさんの気持ちは誰にもケアされず、彼女は「お金をかけてもらったのに期待に応えられず申し訳ない」と自分を責めた。
大学進学にあたり一人暮らしを始めても、両親から解放されることはなかった。賞味期限切れの食べ物を送ってきたり、突然家に押しかけてきたりするのだ。
父は部屋に上がるとウイスキーを1本空け「お前は医学部に行くと思っていた」と言い続け、母は娘の本棚を隅々までチェックした。
「『母という病』という本を見つけて、『これお母さんのことじゃないよね?』と聞かれたことがあります。とっさに『著者が好きなだけ』とごまかしました」
ある日、両親からいつものように「家に行く」と連絡がきた。傷つけられることにもケアを求められることにも疲弊していた彼女は、「酔っ払って暴れるので帰りません」と置き手紙をして、自宅から2時間かかるパートナーの家に避難する。高校時代から付き合っており、事情を話していたため理解があった。
ほとぼりが冷め自宅に帰ると、「悲しいです」と置き手紙が残されていた。
セルフネグレクト、アルコールに頼る日々
大学生活について尋ねると、「まったく馴染めなかった」と苦笑いする。
「薬学部の同期は家庭環境に恵まれている子が多かった。『なんで私ばっかりにこんな目にあわないといけないんだろう』という気持ちが膨らんで、話が合わないと感じていました」
やーはちさんはこう続ける。
「家庭でまともなコミュニケーションがなかったせいか、そもそも人と関わるのが苦手だった。中学や高校は進学校で、周りも勉強ばかりしていたから問題なく過ごせましたが、大学はそうはいきませんでした」
次第に大学に行かなくなり、セルフネグレクトに近い状態に陥る。ご飯が食べられなくなり、家は足の踏み場がないゴミ屋敷のようになった。
孤独感からパートナーへ依存した。連絡がこない時間に耐えられず、気を紛らわせるようにジンやウォッカを飲みながら本や映画に没頭し、そのまま眠りについた。
「私もアル中に片足を突っ込んでたかもしれません。泥酔してパートナーに『生きているのがつらい』などと絡んで、翌日に注意されたことがあります。『父と同じことをしてる』と恐ろしくなりました」
幸い、塾講師のアルバイトが性に合っていた。成績が上がる生徒たちを見ていると、自分のことのように嬉しかった。
アルバイト代を貯めて、旅に出るようになった。出会う人のなかには、カメラマンやトラックの運転手、指揮者などさまざまな職業の人がいた。「医師や薬剤師という仕事に固執しなくても、好きなことで生きていけるんだ」と視界が開けていくようだった。リボ払いを繰り返し生活はギリギリだったが、好きなことをしている時は酒やパートナーに頼らずにいられた。
「根は人と関わるのが好きだったんだと思います。いろいろな人と関わっているうちに元の自分を取り戻している感覚がありました」
出会いがやーはちさんを孤独から救ってくれた。一方で、父と母への違和感を拭いきれなくなる。両親と同世代の人が娘のことを愛おしそうに語る姿を見て、「自分は親に大事にされたことがない」と初めて気づいたのだ。
スピリチュアルに傾倒する母
大学3年生の時、Facebookで母の名前を発見した。もともとキリスト教を信仰していた母がスピリチュアルに傾倒し、怪しげな商材を売ったり、自宅をヒーリングサロンにしたりしている姿が投稿されていた。
やーはちさんは、当時の様子をZINE『毒親育ちが大人になってから』で次のように記している。
〈何気なくストレスで胃が痛いと言うと、母が治療をさせろと言って体に触れてきた。治るどころか嫌悪感で吐きそうだった。ただ話を聞いてくれれば私はそれで良かったのだ〉
母のブログには、セミナーなどに数百万をつぎ込んだことが書かれていた。それとなく尋ねると、「やっと自分のやりたいことが見つかったの」と目を輝かせた。何を言っても無駄だと感じ、「そうなんだ」と否定はしなかった。
「実家には本屋を開けるんじゃないかってほど自己啓発系の本があったし、母もずっと何かを変えたかったのかもしれませんね。子どもが巣立った寂しさもあったと思います」
「母がスピリチュアル系の商売をしていることを、おそらく父は知りません。母が実家の病院の事務を手伝っていると思っているようです」
「うちの親はおかしいのかも」という疑念が確信に変わりつつあった。たまに電話する程度になっていた両親との関係性も、社会人になるのを機に断つと決めた。

ZINE『毒親育ちが大人になってから』を制作
2019年から薬剤師として働いたが、大声で怒鳴る上司のパワハラに耐えかね、3年間で2度の休職を経験した。高圧的な中高年の男性と関わると、父を思い出して萎縮し、頭が真っ白になるという。
周りからは薬剤師を辞めるなんてもったいないと言われた。せっかく6年も大学に通って取った資格なのに、と。しかし、やーはちさんの気持ちは固まっていた。
「進学も就職も親の言う通りにしてきました。でも薬剤師の仕事に興味はないんです。辞めることには勇気がいったけど、現場に戻る気はありません」
文章を書くのが好きだったという彼女は、2023年に自分の体験をZINEにまとめ始め、2024年にはフリーライターとして独立した。収入は不安定だが「お金がない以外は最高です」と笑う。

ZINEのタイトルは『毒親育ちが大人になってから』。最初は文学フリマで30冊ほど売れた。10冊売れればいいと思っていたのに、予想以上の反響だった。
「幼少期の虐待がセンセーショナルに語られることは多い。でも大人になってからの生き方、親と距離をとったあとについて書かれたものは少ないんです」
読者からは「私も同じです」「救われました」と多くの感想が寄せられる。2作目の『毒親育ちの恋愛事情』には、1冊目の感想をくれた人が体験談を寄せてくれた。
「たくさんの人から反応をもらって、『なんで私だけこんな目に』という孤独感から解放された気がします」
やーはちさん今、親が決めた道から降り、自分が選んだ道を歩き始めている。
【後編はこちら】
「約束を守るなら子どもに会わせる」アルコール依存の父と過干渉の母に提示した3つの条件
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コメント
両親との距離感を持ち、いまここに気持ちを持っていける、その強さが魅力的だと思いました。
私はやーはちさんのような壮絶な体験はないものの、両親との距離感を意識するようになって、本当の自立を得たような気がしています。