過度の飲酒により二度の急性膵炎。感受性を鈍磨するために飲んでいたその頃(前編)
断酒8年目の文芸評論家・宮崎智之さん。二度の急性膵炎を経て、「お酒はやめるしか選択がなかった」という経緯、アルコール依存症についての思い。
同じく「大酒飲みだった過去」をもち、断酒5年目となるライターの青山ゆみこが聞いてみました。
公開日:2024/10/31 02:00
日常の風景と感情の機微を鮮やかに言葉にするエッセイの名手としても注目されている文芸評論家の宮崎智之さん。
アルコール依存症、離婚を経て、取り組んだ断酒についても綴られたエッセイ集『平熱のまま、この世界に熱狂したい』が、2024年6月、新たに3篇を加え増補新版として「ちくま文庫」から文庫化され評判を呼んでいます。
断酒8年目、宮崎さんは最近になってアルコール依存症について積極的に発信をするようになったそうです。
「お酒はやめるしか選択がなかった」という経緯、アルコール依存症についての思いなどを、同じく「大酒飲みだった過去」をもち、断酒5年目となるライターの青山ゆみこが聞いてみました。
「世界とコミットするような感覚」を求めて飲み始めた
——宮崎さんは二度、急性膵炎を体験し、断酒を決意されたそうですが、そこまで飲むようになった経緯を教えてください。最初に飲み始めたのはいつ頃でしょうか?
うちは両親ともいい人で、育ったのは東京でも多摩川沿いの自然あふれる環境です。
僕は花も虫もすごく好きで、家の近くにはレンゲ畑があって、ホタルが飛んでいる。空を見上げたらそこに浮かんでいる雲は、同じ形がなくてずっと動いていて、世界はいつも美しかった。
一日中雲を見て飽きずに過ごすような感受性の強い子ども時代を、毎日幸せに過ごしていました。
大学に入り、19歳になった頃、そんな美しい世界にコミットできなくなった感覚があったんです。
勉強しなくちゃいけない、将来仕事もしなくちゃいけない。
そんな「未来」のことばかりを思うようになって、世界が以前のように美しく見えなくなったことに寂しさを感じていた。なにもしなくても「今」が楽しかったのに、もうなにをしても楽しめない。あの感性が消えてしまった。
それって大人になるってことですよね。
センチメンタルかもしれないけれども、 僕はそれが悲しかったし、心から寂しかった。
ただ、お酒を飲むとちょっといい感じがして、世界と自分がコミットするような感触があったんです。後からそれは勘違いだったと思うようになるけれども、なにもないまま美しい世界が見えていたときの喜びと、見えなくなってしまったあとの悲しみを忘れようと、自分をごまかすために、お酒に手が伸びていったように思います。
中原中也で卒業論文を書いたからというわけじゃないけど、文学部にいるうちは、本を読み、酒を飲んでいれば、一人前に「文学」に励んでいることになると思い込んでもいました。
過去の文学者に倣って大酒を飲み、「何者か」になったつもりでいたのかもしれません。
社会人になり飲み方が変わっていった
——失われたように感じた感性を、お酒が補足してくれる気がしたということでしょうか。
学生時代は量こそ飲めど、楽しんでもいました。でも、社会人になって飲み方が変わっていったんです。
新卒で入った会社を1年で辞めて転職したのは西多摩新聞という地域新聞社で、規模は小さいながら75年くらい歴史がある質実剛健な会社でした。
僕は主に地方行政や政治を担当していた記者だったのですが、頭をピリピリさせながら仕事をしていました。まだまだ若かったし、覚えなければいけないことがたくさんあって、焦りを感じていました。
25歳で結婚して、高円寺で暮らし始めて、西多摩まで通勤するようになると、仕事が終わった瞬間にコンビニに駆けこんで、電車で缶のお酒を飲みながら帰っていたことをよく覚えています。
仕事そのものが嫌でつらいというわけではありません。
ただ、大人になって社会人として働いて、小さい頃から鋭敏だったはずの感受性がなくなったようにさみしくて、自分が宙ぶらりんになってるような状態がつらかった。
もう失われたのであれば、むしろ感性のフタをしめたかった。実は、アルコールは感受性を鈍磨するものなのだと思っています。そのために飲むようになりました。
この頃はお金もなかったので、重要なのはアルコール度数。4リットル1800円ほどの安焼酎を、一円でも安く売っている遠方の酒屋にわざわざ買いに行ったり。当時の僕には元気がまだあったんですね。
——ちょっと切ない理由ではあるけれど、仕事終わりの余暇時間だったなら、飲酒そのものは「あり」かとも感じちゃいますね。
選挙など特別な時期以外は、おおむね定時に合わせて仕事が終わるため残業もなく、いい会社だったと思います。でも、飲める時間がたくさんあるから、酒量がどんどん増えていって。
当初は2、3年で転職を考えていたんです。でも、忙しい編集プロダクションなんかに入ると、夕方5時、6時から酒が飲めないでしょう。僕は、その頃にはもう6時には酒を飲まなくちゃ気が済まなくなって。「お酒が優先」の人生になっていたんですね。
お酒が飲めない環境なら転職はできないと諦めて、結果的に新聞社に6年勤めました。
早い時間から飲めるから職場としてはよかった。だけど、転職も考えていたのに、むしろ「アルコールが飲める」という状況がネックになって、辞められなかったというジレンマです。
ーー「頭がピリピリした」という職場から転職することで、お酒との付きあい方にも変化があったのでしょうか?
当時の僕と同い年の社長が立ち上げた編集プロダクションにひとまず入ってみたら、会社も若くて、フリーランスの集まりみたいなすごく自由な空気だったんです。
そうしたら僕は、「6時にはお酒を飲んでいい」というルールを勝手に立ち上げちゃった。
副社長は怒っていたけど、仕事はきちんとするので、あまり咎められることもなく、すんでしまったんです。
取材などの対外的な仕事は6時までに終わらせる。その後は会社で酒を飲みながら原稿を書く。
時間を決めて気持ちを切り替えてお酒を飲むことが功を奏したのか、仕事の成果はきちんと上がって、社内でも「仕事ができる人」みたいになってしまった。だからよけいにダメだと思わなかったのかもしれません。
「自由な環境」で拍車がかかった
——仕事もできているなら、問題がないようにも感じてしまいますね。
社会人としては、収入もそれなりで悪くないように思えるけれど、そのあたりの頃には、僕はもうまったく生活に向き合ってなかったんです。
そもそも家にいるときは常に酔っぱらっているので妻ともうまくいかなくなって。
日常をないがしろにして過剰に仕事して、暇を見つけてはお酒を飲んでいたから当然ですよね。30歳の時、離婚を経験することになりました。
もちろん傷ついて、自分の痛さに耐えられない。感覚が鋭敏だとつらいから、意識を鈍麻させるために、さらにお酒を飲まなきゃいけないようになる。
離婚後、一人暮らしになり、31歳でフリーランスとして独立して最初に思ったのは、「これで朝から酒が飲める」ってことだったんです。実際に朝から飲むようになりました。
例えば午後1時にインタビュー取材の予定があるとしたら、朝起きて少し飲んで、しばらく時間を空けて酔いを覚まして、シャワーして匂いをごまかして取材に行く。インタビューが終わった瞬間に、コンビニに駆け込んでお酒を飲む。
神経を使う仕事をしているので、寝つきも悪くなるから、強制的に仕事のことを考えずにすむように気絶するまで飲んだ。
枕元にお酒がないと不安になり、目が覚めると余っている酒に手をつけて、また酔って寝る。朝は起きた瞬間からお酒が手放せなくなっちゃったんです。
仕事がない日は朝からひたすら飲んでいるという状態。味わうことなく、楽しむことなく、酔うために安焼酎を流し込む。そういう生活を続けていたら、あの日、膵炎になってしまったんです。
すぐに診断がおりなかった急性膵炎
——倒れて救急車で運ばれた、とかですか?
1回目の急性膵炎は2014年の春、32歳のときでした。とにかくお腹が痛くて、病院に行ってみたんです。
膵炎は背中の痛みが症状らしくて、「背中が痛いですか?」と聞かれたんですけど、全部が痛いので「どこが痛いのかわからない」と答えると、胃薬を出されて帰されたんです。僕の伝え方が悪かったんだと思います。
そのまま1週間くらい放置していたら、もうめちゃくちゃ痛くなってきて……。
当時、構成ライターとして関わっていた書籍の著者が、たまたま医療関係者で、取材の際にその人が僕の顔を見て、あんまり真っ白で、目もうつろなことに驚いたらしく、「すぐに大きな病院に行った方がいい」と真剣に言ってくれて。違う病院に行ったところ、急性膵炎の診断がおりて、即入院となりました。
膵炎って間断なく痛い。胃炎だと痛みに波があるけれど、その波がない。絶え間なくひたすら痛い。もうどれだけ痛いんだって、それまで想像したこともないほど、ものすごく痛いんですよ。
(つづく)※後編は11/1公開予定です