消えない虐待の後遺症。暴力の連鎖から抜け出した彼女が、「あんな親だから自分はどうせ」をやめられたワケ
誰しも、生まれ育った環境の影響から逃れられず、その枠組みのなかで得られるものが変わる。その格差や差異を無視して、なべて自己努力のせいにするのは暴力であり、抑圧である。しかしその一方で、変えられない過去と今の自分を紐付けるあまり、目の前の可能性に手を伸ばすことができず、自分を毀損してしまうという大きな弊害があることは見逃せない。
起きたことをなかったことにしたり、苦しみを誤魔化したりするのでもなく、「負のループ」の自己物語から解放されるには、どうしたらいいのだろう。
公開日:2024/11/26 02:04
いじめや虐待、DV等の被害に遭ったり、逆境体験を持っていたりする人たちを取材するなかで気づいたことがある。
それは、彼らが自分について話すときにパターンがあるということ。「親(または家庭環境等)のせいで自分は何をしてもダメだ」という語りが、雑談などの場でも頻繁に登場する。
男性の場合は、自分の境遇に反発しより強い力を求めようとする語りが続き、女性の場合はあらゆる出来事の原因を自分のせいだと引き取って、自己嫌悪を強める。どちらの場合も育った環境と今の自分が、強い因果関係によって結び付けられている。
起きたことをなかったことにしたり苦しみを誤魔化したりするのでもなく、「負のループ」の自己物語から解放され、自分自身の物語をもう一度積み上げていくには、どうしたらいいのだろう。
その問いを模索していたある日、書籍の取材のなかで長年続いた自傷行為をやめ、毒親の支配を抜け出したと語る女性に出会った。現在50代になる彼女が語った歴史は、暴力と搾取の連鎖そのものだった。そんな彼女が自傷行為をやめ、自己否定を止められた理由はなんだったのか。
「体じゅうにあったリストカットや根性焼きの痕は、今はもう消えてしまいました。わたし、自分に火をつけて全身にやけどを負ったんです。ですから、これ以上自分を傷つけられないんです」
(取材・文:遠山怜)
遠き地で、家族といてもひとり
「精神病って言われましたね」。
篠原きよみさん(仮名)は、応じてくれたオンライン取材の冒頭でそう言った。PCの画面から聞こえてくる流暢な声に集中していた矢先、そこに混じる「精神病」という言葉のざらつきが心に残った。篠原さんが語る話はずっとこうだった。するするとめぐる川の流れに、尖ったガラスの破片がいくつもいくつも混じっている。
「最初にリストカットをしたのは小学校高学年の頃でした。当時は子どもでしたから、それで死ねると思ってたんです。両親は私に死んでほしかったんです」。
篠原さん一家は幼い頃から、転勤族だった父親と共に全国各地を転々としていた。父親は事業に失敗していたため、住み慣れた地を離れることを余儀なくされていた。あるとき、小学生だった篠原さんは度重なる引越しに疲れを感じ、「学校に行くのがしんどい」と漏らすと、周囲は激怒した。
「わたしが学校に行きたくないとポロっというと、親はひどく怒りました。それで学校の先生にも言いつけて。聞きつけた校長先生は『学校に行けないなんてこの子は精神病に違いない』と言いました」。
今の時代、不登校は珍しいことではないが、1970年代の当時はそれだけで異端だった。学校に通えない子どもは、手のつけられない不良か病人と相場が決まっており、親はそれを管理監督する責任があるとされていた。
しかし、両親は知らない土地で生活を安定させるのに手一杯だったし、父親はアルコールの問題を抱え、母親はネグレクト気味だったこともあり、子どもの複雑な事情を理解する余裕がなかった。家庭内暴力と育児放棄は次第にエスカレートし、父親が仕事に行き詰まると、両親はいよいよ篠原さんにつらく当たった。
「まともになれないなら、せめて家族のために保険金をかけて自殺しろと言われ、小学生の頃にはじめて手首を切りました。そんなに言うならやってやると、母親の目の前でタバコの火を手に押し付けたりして、体はそこら中、傷だらけでした」
「家族からはずっと否定されてましたし、あんな親から生まれた自分が憎かった。自分なんて消えてしまえって、何かイヤなことを言われたりされたりしたときは自分を傷つけてました。それでしか耐え凌ぐことができなかったんです」
安住先に広がっていたのは病院の天井
「高校生のとき精神科に入院させられました。手のつけられなかった問題児が入院してよくなったと噂を聞きつけて、親は期待したんでしょう。母から『立ち直れ』って言われました。でも、何から立ち直ればよかったんでしょう」
「親は私が不登校になったり、言うことを聞かなくなったりすることを非常に恐れていました。世間一般の当たり前をきちんとこなすことを求めていたし、家族のために進んで身を粉にできるいい子に戻ってほしかった。でも、そのいい子の私は、親の暴力から身を守るための、子どもなりの防衛だったんですけどね」
入院生活を経ても両親との緊張関係は続いた。必死に貯めたバイト代はすぐさま父親の酒代に消えていった。実家から逃げるために嫁ぐと決心したが、逃げ込んだ先の夫や姑は、行き場のない犬を拾ってやったとばかりに暴力を振るった。頼れる相手もなく、反抗する手立ても持たない若い妻は格好のターゲットだった。
「やっと見つけた居場所でしたし、当時は離婚なんて気軽にできませんでした。それに、何か言われたりされたりしても、『他に行くところがないし、よそではもっと酷い目に遭うだろう』『自分が不出来だから相手を怒らせてしまうのかもしれない』と思ってました。そうやって自分のせいにして我慢しているうちに、殴る蹴るでは済まなくなってきて、とうとう入院することになりました。このままでは殺されると思い、それで逃げようと決心しました」
「暴力夫からなんとか逃げ切って、いろんなものも失ったけど、それで今の優しい夫に出会えたんです」と、過去を話す篠原さんの声がようやく明るくなる。ほっとしたのも束の間、そこに続く話はさらに過酷なものだった。
「優しい夫に恵まれて、安らげる日々ってこんな感じなんだと実感していた矢先でした。私は家で家事をしていたんですけど、そこでふっつり記憶が途切れたんです。真っ白なモヤが覚めてくると、目の前には壁がありました。よく見るとそれは天井で、部屋は眩しいくらい明るくて。あれっと思って横を向こうとすると、体が動かない。自分の手と足首がベッドに拘束されていると気づいたのはそのときでした」
自分で自分を見限った
「私が目覚めたことに気づいた人がベッドの側に来て『ここは救急病院です。あなたは全身にひどいやけどを負っていて危険な状態です』と言いました。え?私はさっきまで自宅にいたはずだし、やけど?なんで私が?って感じで混乱しました。事態が飲み込めないけど、体も動かないのでとりあえず周囲の処置に身を任せました。手術もして、結局一年ぐらいはそんな状態だったんじゃないでしょうか」
夫は?台所の作りかけの料理はどうなった?疑問や焦りが次々浮かぶが、毎日入れ替わり立ち代わり医師や看護師が病室を訪れ、処置をするのに忙しく、何が起きたのかを聞くのは憚られた。
事態を理解できるようになったのは、救急外来から転院する際のこと。検査のためにいつもは使わないフロアを通り、設置された大きな鏡を久しぶりに見た篠原さんは愕然とした。
「肌が乾燥して老けてたらやだなあとか気にしてるばあいではなかった。鏡の中の自分は、顎と胸の皮膚がくっついていました。全身の肌の色は無惨に変わり果てていて。医師から『あなたは自分で焼身自殺を図ったんですよ』と、教えてもらいました」
「わたし自身が、自分を見限ってしまったとそのときわかりました。転院先ではカウンセラーさんが付いてくれて、治療のなかでポツポツとその直前のことを思い出すようになりました。入院前、親族にひどいことを言われて我慢の限界にきてしまったんです。今までずっと耐えてきたけど、もうダメだって。それで、自分に火を付けた。そのときのことは、まるで映画でも見ているようで、自分の身に起きたことだと今でも思えません。でも、苦しさだけは体で覚えてるんです。肩に熱いものが流れてきて、煙で息ができない」
病院での療養を続け、やけどの後遺症は落ち着きつつあったが、篠原さんはいよいよ自分に対して諦めきっていた。自分はもう一生、病院から出られないに違いない。生きていてもしょうがないという思いを強める篠原さんに、担当医師は皮膚移植を勧めた。
信じるべき人、信じないと決めた人
「全身の皮膚を移植する大手術になると言われて。わたしはもうそんな手術なんてしても、って何度も断りました。どこまで回復するかわからなかったし、それに少しよくなったところで、もうわたしはダメだって。これまで苦しい環境で頑張ってやってきたけど、もう心がついていかない。今更ちょっと体が動かしやすくなったからそれがなにって」
「それでもわたしを診てくれた先生は諦めませんでした。手術すれば体は楽になるし、そうしたら気持ちも今より楽になるはずですって。苦しんでいい人、死んでいい人なんていないと。わたしは自分に対して諦めきっていましたけど、先生は私を諦めていませんでした。わたしを信じて諦めない人がまだいるなら、お任せしてみようと思ったんです」
「入院中、母が一回だけ病床に来たことがあります。私の姿を一目見ると、『お前が自分でやったことだからな!人のせいにするなよ!お前のせいだ』と言われました。こんな状態じゃとても面倒見きれないと、向こうから縁を切られたんです。でもおかげで、ずいぶん親の影響から離れられるようになりました」
「親から言われた『お前のせいだ、お前が悪いからだ。自分でなんとかしろ』って言葉が子どもの頃からずっと頭にこびりついていました。だからこそ、人に何かされても『自分にも悪いところがあるのかも』って思ってしまったり、強く反抗できなかった。あんな親の元に生まれたんだから仕方ないって、自分を見限ってたんだと思います」
「でも、わたしがわたしを諦めて大やけどを負ったとき、わたしのことを諦めなかった人がいた。一緒に頑張ろうとする人がいた。話を聞いてくれる人がいた。あなたは生きるべきだと言ってくれる人がいた。だったら生きていてもいいんじゃないかって。もう離れていった人、自分を痛めつける人のいうことに、従う必要はない」
長い長い入院生活を経て、いま、篠原さんは自宅で療養生活を送っている。後遺症や見た目の変化もあって滅多に自宅を出ることはないが、夫は暖かく迎え入れ、あれこれと身の回りのことをしてくれる。飼っている猫がいつもそばにいてくれて、膝の上で眠る姿を見つめるのが何よりの安らぎだという。
「この年になっても、自分を肯定することは難しいと感じます。自分に価値があるって思うのは、本当に難しいことです。でも恐ろしいことおぞましいことは、もう済んでしまったことだから。こんな自分なんてとあれだけリストカットも根性焼きもしてましたけど、その痕もすべてやけどになりました。もう傷つける場所がないし、やりきったんでしょうね」
「あんなに自分を傷つけることにためらいがなかったのに、今、体のケロイドややけどの痕を見ると、時々フッと涙が流れます。でも、今日という日を生きられることは、とっても特別なこと。なんて嬉しいことなんだろうって毎日思います」
心も体も自分のもの
傷つける場所を失った篠原さんは、今、自分の生まれ育った環境についてこう振り返る。
「こんな家に生まれなければ、あんな親のせいでって、どうしても親と自分をくっつけて考えてしまいがちだと思うんです。相手を恨むことでその人から離れられたり、憎むことで自分はそうならないって決意にもなる。でも、親と自分は、本来はまったく別のものなんです」
「親や周りがどうあろうと、どんな理由があろうとも、あなたは不当な扱いを受けるべきではない。好きに夢を見る権利もあれば、人から大切に扱われる権利もある。あなたを苦しめる人たちの言葉を間に受けて、自分はもうだめだと諦める必要はないんです」
「あなたの体も心も、親からもらったものだとしても、あなた自身のものです。今すぐでなくていいから、自傷行為がなくても大丈夫になる日まで、生きてほしい。誰も助けてくれなくて、自分で自分を支えなくてはならないとき、自傷行為が必要な時期がある。ですから、今すぐやめる必要はないと思います。ゆっくり時間をかけて、自分を傷つけなくてもいいような人生を徐々に選び取ってくれたら」
もし、自傷行為で悩む人が側にいたら、周りはなにをするべきだと思いますかと聞くと、こう答えてくれた。
「自分を傷つける人がいたら、原因探しをしてしまうと思うんです。夫婦なら『お前のせいだ』って責任を互いに押し付けたり、学校なら『先生の教育方針が悪い』と責めたり。でも、やめて。そんな不毛な戦いをしても余計にその子は萎縮するだけ。いがみ合っている場所では問題はよくなりません。誰が、何が悪いと言うより、根底がズレていたんです」
「家庭が、学校が、夫婦が、みんなが安らげる場所になっていなかったのだから、自傷行為をやめさせる云々より、まずはお互いの関係性をよくすることからはじめてみる。みんなが居心地良い場所なら、きっと良い変化が生まれます。やすらげる、優しい場所をいっしょに作って行きましょうよ。土台がちゃんとしていないツケは、総じて当人たちよりも、弱い立場の人に回るものですから」