市販薬、処方薬のオーバードーズ、幻覚、幻聴……入退院を繰り返して、初めて人に求めることができた助け 倉田めばさんインタビュー(2)
好きなことをやろうと半ば家出同然で東京に出てきた倉田めばさん。ところが、依存症の症状は悪化していきます。入退院を繰り返した後、初めて心を開かせてくれたのは?

公開日:2025/10/03 02:11
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薬物依存症の回復支援施設「大阪ダルク」の創設者で、相談支援団体「Freedom」代表の
倉田めばさん。
親の過干渉や社交不安障害、セクシュアリティの揺らぎなどから市販薬のオーバードーズや自傷行為を始めましたが、好きなことをやろうと出てきた東京で、かえって症状は悪化していきます。
ロングインタビュー第二弾です。
(取材・文 岩永直子、ヘアメイク・一部撮影 赤坂真理)
東京に行くも、薬物依存症に
——親元から離れて、家出のような状態で東京に来て、何をやっていたのですか?
最初は、茅場町の日経新聞専売所の住み込み従業員として新聞を配っていました。兜町とかに配るので、量が多いのですよ。私は一日800部以上配っていましたからね。
——その仕事をしながら、詩人活動やアートなどやりたいことをやっていたら、薬は止まったのですか?
むしろ酷くなっていきました。親の目も届かないし、新聞配達員のタコ部屋みたいな寮に住み、若さに任せてやりたい放題やっていましたね。
——親の干渉からも物理的に逃れたのに、さらに薬物の使用が酷くなったのは、薬でしか得られない何かがあったのですか?
いや、単純に依存症になってしまっているから、やめられなかったんですよ。
その時点では、何か使う理由があるかというよりも、依存しているからやめられなかった。高校生の時はまだ依存までいっていなかったけれど、19歳で依存症になったと思っています。
——19歳の時に依存症になり、これはやばいと自覚し始めたのはいつ頃ですか?
20歳ぐらいでやばいと思いました。20歳、21歳は1番やばかったでしょう。シンナーの量も半端ないし、当時の東京では、鎮痛薬として使われていた依存性の高い筋弛緩剤を、新宿の薬局では裏から薬剤師が出してくれていました。
もう一つ、無水カフェインの多い生理痛、頭痛の薬も使っていて、これはふわっとするけれど覚醒する。それと、以前から使っていた鎮痛薬を組み合わせてODしていましたね。少し多めに飲むだけのプチODの時もあれば、2箱ぐらい一気に飲んで1日中ひっくり返っている時もありました。
20歳前は色々とトラブルがあり、頭の中にあるのはいつも次やる薬物のことばかり、とにかく自分に自信が全くなくて、恋愛関係のもつれもあったりして、参っていました。
結局、東京から神戸の親のもとに逃げ帰りました。帰った手前、大学に行くと言って予備校に一応入学もしたのですが、5日間しかいきませんでした。
やっぱりそこでも周りのクラスメイトといると緊張して、いろいろなことがうまくできない。対人恐怖のような症状が続いていました。
そんな不安定で揺れている時に、大阪の大学で演劇をやっている人たちと出会って、演劇を始めました。そこでもずっとシンナーを吸っていて、白い目で見られていました。舞台の本番でも薬を飲み過ぎて舞台の上で倒れたりと、とんでもないことになっていました。最悪です。
結局東京にまた戻って、8ミリ映画フィルムを作ったり写真の勉強を始めたりしていましたね。
表現以前に、人とのコミュニケーションでつまづいて
——演劇や映画、写真など、自分が本当にやりたいことをやっていたのに、それが救いにならなかったのはなぜなのでしょうね?
そんなことをやっている最中も、最終的に私は薬やシンナーをやっていました。何かをやってもうまくいかないし、自分は才能もないしと落ち込んでいました。
——自信がなかったのですか?
自信がない。でも、その自信のなさって、表現に関する自信のなさではなくて、その手前で、それをやるにあたって、いろんな人と会ったり話したりすることがまずできない。今から考えると、表現以前のところでいつも地団駄踏んでいた感じです。
そこで薬に逃げて、みんなに説教されたり自己疎外に陥ってしまったりしてしまうわけです。
——表現を自分の居場所にしたかったのに、コミュニケーションの難しさが理由でそうならなかったのですね。
居場所になるのは、私から誘って他の人も薬物をやり始めた時。一緒に薬をやると初めてそこが自分の居場所になっていたんですね。
——対人恐怖的な人間関係のつまずきを、シンナーや薬物のODで誤魔化そうとしていたのでしょうかね。
それはもう鶏が先か卵が先かっていう話で、薬をやっているからそうなっている部分もあるし、しんどいから薬をやるということもある。それをずっと繰り返しながら生きている感じでした。
精神科医に「入院しか方法がない」と告げられる
——いよいよこのままじゃまずいとなったのは何がきっかけですか?
21歳の時に東京でルームシェアをしていた大阪からの友人がいたんです。彼はちゃんと仕事もしているのですが、私はいつもシンナーを吸ったり、ODしたり、自傷で血だらけになったりしていた。それで彼の知り合いの精神科医を2回ぐらい紹介されたんですね。
彼はライターをしていて、ある精神科医に取材に行くときに、そのドクターとついでに話したり。
——その医師からはなんと言われたのですか?
「君の場合は物理的に隔離されないともう無理だ」と言われました。「もう入院しなさい。それしか方法がない」と言われました。
——最初は抵抗したそうですね。
まだ薬をやりたいのに、入院したらできなくなるからです。でも、抵抗しながらも、「入院しないと無理だろうな」というのは、自分でも分かりつつありました。このままでは絶対にやめられないし、死んでしまうという恐れも出てきていました。
結局は、その友達が神戸の実家まで行ってくれて、母に「もうこのままだと彼は死んでしまうから、親として救いにきてくれ」と頼んでくれたんです。
それで母が来てくれて、一緒に神戸に戻って入院しました。年末だったので少し自宅に待機して、その間は大麻を吸っていました。シンナーや市販薬はやばいと思ったので、入院までは大麻で持ち堪えようと思ったんです。
——大麻の方が体に問題ないと判断したのですね。
体に問題がないというよりも、何か薬物を体に入れておかないともたないという感じでした。
入院して最初はとにかく脱走しようと思ったのですが、中庭から逃げ出そうとして捕まったのかな。大麻を入院直前まで吸い続けてたので、血液検査されて大麻が出たら警察を呼ばれるかもしれないと思ったんです。
当時は大麻使用罪がまだなかったから大丈夫だったのですが、自分でもそのあたりあまりよくわかっていなかったので、やばいんじゃないかと思いました。
——逃げようとしたけれど止められて。
もう諦めた。
他の入院患者から受けた差別
——初めての精神科入院、どう過ごしていたんですか?
「あなたは依存するから、病院の処方薬も一切出さない」といわれました。全くのシラフで過ごしていました。
——シラフになってどうでした?苦しかったですか?
苦しくはないけれど、私みたいなのが入院すると他の患者が嫌なことを言うわけです。
「なんであんた、入院してきた?」と聞くから、「シンナー吸って、鎮痛剤いっぱい飲んで、手首を切って」と答えると、「自分たちはなりたくて精神病になったわけじゃないのに、お前はなんなんだ?」と責められました。

私はむしろ、きちんと発狂したいなとばかり思っていました。狂いたいけど、狂おうと思うと、薬を使うか自傷するしかしかなかった。
——精神科も居場所にはならなかった。
最初はそうです。だんだん慣れてきてそれからは精神病院もいいなあと思えるようになりました。その入院では、私は誰にも心を開くことはなかったです。主治医にも開くことはないし、ほとんど何も喋らない。
病院の中で、色んなものシャットアウトして、前髪も目の上に垂らして、目が見えない状態にしていました。髪をカットしろと言われてもすごく抵抗しました。患者会など、病院のプログラムも一切出ませんでした。
——ベッドでずっと寝ていたんですか?
ベッドで寝てるか、ベッドで本を読んでるかどっちかです。精神科病棟だと、1人でポツンとしている人は結構多いので、あまり気になりませんでした。退屈でしたが。最初の入院で何かが変わったわけではなかったです。
写真学校に再入学し、今度は処方薬依存に
——退院後はどうされましたか?
入院前は東京・お茶の水にある写真専門学院に通っていました。退院後は、大阪の写真専門学校がお茶の水の学校と経営者が一緒だったので、1万円でそちらに再入学できたんです。そこでは結構真面目に写真術を学びました。
でも今度はODがひどくなってしまった。入院中の主治医は一切処方薬を出してくれなかったのですが、外来では別の主治医になったので、いろんな仮病を使って、強い睡眠薬を出してもらうように演技しました。
——今度は処方薬依存ですね。
そうそう、睡眠薬のODです。市販薬ほどお金もかかりませんし。写真学校でも、1人でカメラを持って街に出たり、スタジオで大型カメラで撮影したりするのは好きなんですが、撮った写真をクラスメイトと批評しあう授業がダメで、そこでもまた対人不安が出たんです。
そうなると、トイレに行って睡眠薬を飲む。本来1錠でもひっくり返るような強い薬を5錠ぐらい飲んだので、気が付いたら職員室のソファに寝ていて、父親が車で迎えに来て、病院に連れていかれていました。
梅田をボーっとしてさまよい歩いてるところをクラスメイトが見つけて、学校へ連れて帰ってきたそうなんですが、私は全く覚えてない。その授業で緊張して、トイレでODをした時から記憶がないんです。
——対人恐怖の症状は先生に指摘されていなかったのですか?
言われていました。ただ、その頃は今のような社交不安障害という病名にはなっておらず、対人恐怖があるねと言われました。それについては治療も特になかったと思います。
それでも一応、卒業して、カメラマンとして働き始めました。大阪の商品撮影をする大きなスタジオに就職できたのですが、怪我をして数ヶ月で辞めて、知人が紹介してくれた東京のヌード写真制作会社で住み込みで働きました。
そこでも、ストレスや人間関係不安がピークに達した時に、写真の埃を取るスプレーのフロンガスを吸っていました。3ヶ月の住み込みの後、社長が部屋を借りてくれたのでそこで久々にシンナーを吸ったら、この世のものとは思えないほど良かった。そこで密売トルエンを新宿で買ってきてやるようになりました。22〜23歳の頃です。
——入院して使わない期間を設けても変わらないものなんですね。
変わらないです。
独立のストレスでトルエン 妄想・幻覚が止まらず
——それでまた入院するわけですね。
次は東京です。東京は当時、ビニ本(※)ブームでめちゃくちゃ忙しかったんです。東京の会社でアシスタントを1年やって、東京の原宿でカメラマンをやっている時にビニ本ブームがきた。それで私も日々撮るようになったんです。
※立ち読みできないようにビニールに包まれて売られたエロ本。
当時のビニ本のカメラマンって、売れっ子なんですよ。仕事が毎日あって、ヌードモデルを撮って売る。素人のモデルの発掘も仕事の一つでした。
——モデルのスカウトは、社交不安障害があっても大丈夫だったんですか?
カメラがあると大丈夫なんですよ。人と自分の間にカメラがあると、社交不安障害は出ないんです。でもそれで克服できたわけじゃないけど。
ビニ本ブームですごく儲けて、独立しろと言われました。ボスに独立資金も渡されて、事務所も借りる方向で名刺も作ったのに、かってないほどのすごい量のトルエンを吸ったり、ODしたり自傷するようになっていきました。
——ストレスですかね?
自信がない。写真をうまく撮る自信はあるけれど、独立すれば、そこでいろいろな人と関わらなければいけません。出版社の人とか、どういう風に喋っていいかわからないので。
そんな風にトルエンを吸っていると、撮影中に幻覚をみるようになったんです。モデルの女性が魔女で、モデルのふりをして私を殺しに来ているという妄想を抱いて、撮影場所のラブホテルから「助けにきてくれ」と事務所に電話する。
「もう今日は撮影を中止して、帰っておいで」と言われて、会社から精神病院に行けと言われました。独立直前のことです。チーフカメラマンなのに、撮影から帰ったら事務所のベランダに直行してトルエンを吸っている状態でした。

もちろん周りにもばれていて、「あの人やばいよ」と言われていました。チーフカメラマンがそんな調子だと会社もぐちゃぐちゃなので、精神科に入院しました。だけど忙しいから、閉鎖病棟から開放病棟に移り、精神病院から原宿の事務所に出勤し、都内のホテルでエロ本の撮影をして、夜は精神病院に帰るという生活を送っていました。何ヶ月かして退院しました。
——壮絶な生活ですね。それで良くなったんですか?
よくならない。だから、退院して1週間後にまたトルエンをやって、撮影もドタキャンして、ずっとトルエンを吸い続けて、仕事もしない。もうどうでもいいと思って、ずっと薬物をやり続けていました。
——自暴自棄になったんですか?
自暴自棄というより、もう薬をやりたくて、やりたくて仕方ない。逃げて逃げて逃げ込みたい。依存症の爆発です。
そしてまた入院するんです。最後の幻覚を見て、「もうこれはダメだ」と思ったので、公衆電話に走って行きました。
私、カメラマンをやって収入もちゃんとあるのに、部屋に電話もT Vも何もなかった。カメラマンなのに自分のカメラもストロボも持っていなかった。入ってくるお金はことごとく、密売トルエンや薬代に消えていたからです。
神様が説教 母親に助けを求める
——何の幻覚を見たのですか?
神様みたいな人が宙に浮かんで出てきて、「お前はまたやるのか?」と説教し出した。
——神様、説教してくれたんですか。
「また親に金かけさせるのか」とか、いろんな説教するんです。その神様は。
——真面目な神様ですね。
自分の気持ちを投影してるのでしょうけれども、携帯がなかったので、公衆電話まで走っていって母親に電話しました。
——お母さんに反発しながらも頼る存在だし、お母さんもめばさんを見捨てない人なんですね。
私は、母親が私を見捨てなかったから、今、命があると思っています。母が突き放しのアドバイスを受けて実行していたら、私は死んでいたでしょうね。
——依存症って、「家族は突き放した方がいい」と言う人もいますね。
私は、そう思わないです。あの時、電話した母親に突き放されていたら、私は死んでいたと思います。突き放して助かる人は子供の頃思いっきり親に抱きしめられたことがある人のような気がします。
——母親は生きづらさの原因でもありながら、最後に頼るのは、「この人は自分を助けてくれる」というギリギリの信頼があるのでしょうね。
いやだけど、母に電話してしまった。それまでは自分でなんとかしようとしていたけれど、初めて自分から助けを求めたんです。それでも、母親にまた怒られるのが嫌だったので、とりあえず部屋に戻って手首をざっくり切って血だらけにしてたら、母親も動揺して怒らないだろうと考えたんですね。
そんなふうにぐちゃぐちゃになった部屋に、次の日、母親と父親が来て、病院に連れていかれました。手首の傷を医療用ホチキスで止めて、連れて帰られました。27歳でした。仕事を辞めて、両親と一緒に神戸に戻り、実家の近所にアパートを借りてくれました。
最後の入院
——1人で住まわせてくれたんですね。
一緒にいたら親もしんどいでしょ。3回目の入院中に、母親が依存症の回復施設のマックがあることを調べていて、そこに連れていかれそうになったのですが、私は入院中に17歳の摂食障害の女子高生と仲良くなっていたので、それどころではなかった。
退院後に一人暮らしのアパートにその彼女を連れてきて遊んでいたりしてたんですが、彼女は復学して別れる羽目になったので、今度はまたODがひどくなっていくんです。
——別れたショックですか?
そうです。単純なんですよ、私は。でも、最初に入院した21歳の時は若くてアディクションのエネルギーが溢れ出るほどあったけれど、20代も後半になって入退院を繰り返しているとそんなエネルギーは残っていない。弱ってくるんですね。
だから、40代、50代で依存症をやっているなんて、私は不思議で仕方ないです。どうしてエネルギーが枯渇しないのでしょうね。
私はもうすでに枯渇しつつあったので、自ら主治医に「入院したい」と言ったんです。先生も「入院しなさい」と言って、4回目の入院をしました。
——最後の入院ですね。ここで何か変わったのですか?
入院して絵ばっかり描いていました。外出許可が出たら、また外で薬を使って、手首を切って病院に帰ってくる。1ヶ月おきにそれを5回ぐらい繰り返しました。
——あれ?あまり変わっていないじゃないですか?
薬物をやめ続ける方法とまだ出会ってないから当然です。1ヶ月の入院予定が7ヶ月までになりました。
——ここで、初めて心を開く経験をするんですかね。サボりに来た看護師さんと隣同士で編み物を一緒にやって。
まあ雑談ができるということが心を開くということであれば、それは心を開くことになりますよね。でも自分の話をするわけじゃない。
——でも、この入院が最後の入院になったのは、なんかこれまでと違うことがあったのですか?
女子高生と仲良くしていた3回目の入院の時に、一人のアル中の男性がいたんです。彼はなかなか酒をやめなかったんですが、やめて自助グループにつながったらしくて、その彼が4回目の入院中の私に会いに来てくれたんですね。
そして、12ステップ(12段階の回復プログラム)のメッセージを持ってきてくれたんです。一緒に入院したこともある人で、よく知っている人だったから心開けた。その彼には初めて耳を傾けることができたんです。
(続く)
コメント
凄絶でした。
やめたくないけど、やめないと死んでしまう。それがわかっているのに、また依存に戻ってしまう。
自分で自分をコントロールできない状態ですよね。依存症は本当に怖い。
でも最後に12ステッププログラムの話が出てきて、希望の光が見え始めました。
続きが楽しみです。
めばさんには、かつて大変お世話になりました。
めばさんご自身のお話は実際に何度もお聞きしたことがありますが、こうして活字で読むとあらたな気づきあります。
突き放す、はとても厳しい言葉の響きですよね。
私たちは手放す、という言葉を使います。
手放すとは、今までのように直接当事者のお世話をしたり、干渉したりしないけれど、間接的には医療や支援に繋ぐサポート等をします。全くなにもしないことではありません。
場合によっては(病気やケガなど)直接助けることもあります。いろいろな人の手を借りながら。
めばさんがお母さまに助けを求める連絡をされたようなケースでは、もちろん助けます。