Addiction Report (アディクションレポート)

アディクションは「より良く」を求める病 抜け出すために必要な手法とは? アディクト対談(2)

作家の赤坂真理さんがアディクションについて考察した新刊『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)。

この本を読んで救われたという雨宮処凛さんとの対談第2弾は、アディクションから安全に身を守る方法について語り合います。(司会・まとめ 岩永直子)

アディクションは「より良く」を求める病 抜け出すために必要な手法とは? アディクト対談(2)
瞑想について語る赤坂真理さん(右)と雨宮処凛さん(手前左)(撮影・後藤勝)

公開日:2024/08/31 08:00

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作家の赤坂真理さんがアディクションについて考察した新刊『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』(医学書院)。

この本を読んで救われたという作家で活動家の雨宮処凛さんとの対談の詳報第2弾は、赤坂さんや雨宮さんが、救われるための方法について語り合います。

赤坂さんが救われた瞑想法

雨宮 本の中で、思考の捉われから解放される手段として「ダイナミック瞑想」を実践していることが書かれていました。劇的に変わったようですが、ダイナミック瞑想とは、どんなものなのですか?

赤坂 ダイナミック瞑想ですね。OSHOというマスターが考案した瞑想です。動と静が一つの瞑想の中に組み合わされていて、瞑想が起こりやすいデザインになっています。アクティブ(動的)瞑想と呼ばれるもののひとつです。

瞑想というのは、実は「する」ものではなく、「起こる」ものです。ですが、現代人はいろいろなストレスや抑圧を溜め込んでいるし、身体も使わないので、瞑想が起こる前に、人が能動的(アクティブ)にすることがある、というのがわたしのアクティブ瞑想の理解です。中でも、感情の抑圧は、放っておくと、その人をとても危険なところへ押しやります。この危険を、わたしは、経験したんですね。このままだと人を殺すのではないか、と怖かったときに。

そこから出るには、まずは、この感情の抑圧を解放しなければなりません。それを、安全な方法でしなければなりません。ここから、本のタイトルが『安全に狂う方法』なのですが。これはわたしにダイナミック瞑想の存在を教えてくれた人のセリフからとっています。

他に安全な方法があればそれでもいいですが、わたしには、この瞑想以外に効いたものがありません。それも長い時間かかったり他者によるセラピーなどが必須だったりしないもの。今ここですぐにできないと困る、という切羽詰まったことに、なることが、あるんですね人間には(苦笑)。これは、人間、誰にでも起こりうること、と今は理解しています。

そのうえで、瞑想のシェアをしていきたいと考えています。瞑想の理解は大事なことなので、誰から教わるという点は、大事だと思っています。わたしも、伝えてくれた人がよかった。それがなかったら破滅的なことになったかもしれない、というのは、冗談ではないんです。

やってみます?

雨宮 朝、むちゃくちゃ早いのですよね。それが私の一番のネックで。

赤坂 わたしは、最初は、とても切羽詰まってたいたし、一度は教わらないといけなかったのと、声を出したりなんなら暴れたりできる場所が必要で、防音完備の瞑想センターで朝早くやっているプログラムにしばらく行ったのですが。

おそらくは、早朝という時間が必須というよりは、起きて時が経たずものを考えないタイミングがいいのと、身体も感情も動くので食事を摂る前がいいということなのでは、とも思います。起きて時が経たないタイミングというのは、マインド(思考)が働きだす前ということだと理解しています。

雨宮 寝ぼけているということですか?

赤坂 寝ぼけているというより、あまりものを考えていないうちにやるといい。だから、朝一番が推奨されてはいます。ただ、そうできない人もいて、だからと言って効果がないわけではないと思います。自分は、ウダウダしちゃって夕方にやることとかありました。でも、頭の中にパカンと何もない青い空が広がるような感じは、やっぱりあった。

雨宮 すごい。今もやっているんですか?

赤坂 今は、必要に応じてやるという感じです。怒りとかの、感情のからまりがあるような時にはします。あと、生命力やガッツが足りない!と感じるような時。面白い発見なのですが、怒りや攻撃性や暴力性や悲しみ、それらすべて、元はエネルギーなんですね。だから変換できる。生命力とか、創造性とか。生命力や創造性などにできる。

一般によい質とされるものも、怒りや攻撃性など、困った質とされるものも、元は全部一緒の、エネルギーなんです。だから、朗報ですが、エネルギーならば、変換ができる、怒りを生命力にも変えられるんだと思います。

わたしはいろんな瞑想法や行法をやってきた人間なんですが、無駄に長い時間やってきた経験から言えるのは、初めから静かに座っても静かになんかならなくて、「うるさい自分の頭と二人っきり」になるような体験は、かえって危ないという感じ。そこで無理に静かにすると、さらに頭や感情を抑圧してしまう。すると抑圧エネルギーが蓄積されて蓄積されて、何かきっかけがあった時に暴発するようなことになる。それが自分に起きたことじゃないかと思うんですね。

流行のマインドフルネスも含めて、静かに座る系は、ヴィパッサナ瞑想というブッダが提供した方法をベースにしていることが多いんですが、ヴィパッサナは、もはや悩みも憂いもないクリアな人が光明を求めて、食住などのフルサポートのついた僧院などでやることだと思います。悩み多き現代人は、かえって悩みをこじらすんじゃないかと。

それに、ブッダが考案したものになぜアメリカ人がマインドフルネスって別の名前をつけてお金を取るんだ? マインドフルネスはヴィパッサナと禅を合わせて割って脳科学でくるんだものだと思うんですが、元々わたしたちのものだったじゃないですか。それにマインドは空にするのが瞑想の目指すところで、マインドをフルにしてどうする?とか、マインドフルネスには文句がある(笑)。

雨宮 知らないことだらけです。でも確かに悩みがあって座ったら、それについて考えてしまうだけですよね。より悪化しそう。

赤坂 よく聞くのは、その瞑想ができない、やっても頭がうるさいままで静かにならない、などと自分を責めてしまう、という声ですね。いい子いい人ほどそんなふうになるんじゃないかな。

自分を責めるのは、いちばんよくないことです。自分を責める必要もかえってムキになる必要もなくて、それは方法が適切じゃない可能性が大きい、ということです。抑圧されたものは、まずは、自分の中から放り出す必要がある。身体も巻き込んでそうする必要があるのだけれど、そういう適切な方法がなかった。それを知らなかった。

雨宮 瞑想の会場にはいっぱい人がいるんですか?

赤坂 時や場所によるんだと思う。毎朝やってる東京のセンターだと三人くらいの時が多かったと記憶します。インドのプネーにあるインターナショナルセンターだと、やはり毎朝やってて、そこはたくさん人がいるんですって。大人数でやることも、相乗効果があっていい体験ですけど、人が多いのが嫌な時もありますし、自宅で一人ですることも可能です。

自分や他人や施設を傷つけないという約束だけがあって、それ以外は何をしてもいい。叫ぼうが泣きわめこうがのたうち回ろうが、隅っこで膝を抱えていようが、誰もあなたをおかしいと思わない。自分自身も、そう思わなくていい。感情が出てこない自分もおかしいと思わなくていい。自分にも他人にも、どんなジャッジもしなくていい。自分の中にあること全部出してみたら、誰しも狂ってるように見えるんだし。

でもそういうことを全くしなかったために、おかしくなってしまったんだと思うんです。よくあることでは、泣けなかった人って、多いと思うんですよね。感情が出せなかった。男性とか特に。逆説のようですが、安全に狂ったことがないから、危険な狂い方をしてしまうんです。

感情を出したら「ヤバい人」認定される社会で

雨宮 それこそ安全に狂える場所ですね。今こそみんなに必要な場のような気がしますね。会社とかでも必要ですよね。研修とかでやってもいいかも。

赤坂 そうだと思います。あと学校とか。今の日本社会の狂気って、管理が強すぎるゆえの面が多いと思うので。もはや、管理が暴力なんですよね。自由な人が増えたらいい。感情を出したりしてはいけないと言われるでしょう。喧嘩とかも禁止です。

管理は、言い換えると抑圧です。その場所では問題が起きないかもしれないけれど、エネルギーだから、先送りされて、どこかで起きる。全然関係ないところでタイミングで。それで不可解に見える犯罪なども起きたりするんじゃないかと思います。

その意味では、刑務所にも必要なことかもしれません。わたしは人を殺すんじゃないかと思ったという意味では、犯罪者の一歩手前だったわけです。犯罪者を全くの他人に思えないところがある。

そこから分かることは、その地点にいるっていうのも、本当に苦しい。そこまで囚われるって、苦しい。そこからは解放されてほしい。そういう解放と、罪の償いは、別のこととして考えられるべきです。囚われた苦しみから解放されることが、犯罪の再発防止にもなると思う。苦しんでいる心が、犯罪を起こしもするわけだから。

(溜め込んだものは言葉で吐き出すのですか?)

赤坂 言葉にすると、その感情や物語に囚われてしまうので、言葉にすることはありません。アクティブ瞑想は全部で12ありますが、言語を使うものはありません。

雨宮 それが面白かったです。言語以前のような。

赤坂 言語はすごく囚われやすい。あと、個人的にも、周りにもそういう人いるのですが、言語獲得以前に傷ついた体験というのがあり、言語のセラピーはそれを救えない。それは叫んだり、泣いたり、身体を動かしたりすることでしか、リリースできない気がします。

だからなのかわかりませんが、ダイナミック瞑想って、人それぞれですが、幼児がえりするようなところがちょっと感じられたりする。地団駄を踏む、泣き叫ぶ、叫ぶ(子どもってよく大きな声を出すでしょう)、ゴロゴロ転がる、這い回る…… でも誰もあなたをおかしいと思わない。みんなおかしい(笑) それは楽しい(笑)

雨宮 今は感情を出したら「ヤバい人」認定される社会じゃないですか。怒っている人というか、怒りの感情自体が「取り扱い注意」になっています。貧困問題で社会運動をしていると、「怒っている人=怖い人、狂っている人」みたいな認定をされます。

赤坂 社会運動にそんな認定が……不正義や不平等、おかしいこと、システムのまずさには、ちゃんと怒る方がいいと思う。でないとそもそも、いまだに王政とか封建制が続いているかもしれない。誰かが抗議したから進歩してきたところが、人間社会にはある。その根底には怒りや憤りって、あったと思う。

雨宮 ですよね。なのに最近、国に文句を言っているイコール怒っていて怖い人とみなされることが増えました。社会正義とか関係なく、怒っている人はみんなクレーマーで、自分の感情のコントロールができない、カスタマーハラスメントをする老害、のような目で見られる。

撮影・後藤勝

だから常に平常心を保って、クールでいなければならない圧力が昭和よりずっと強いです。昭和の頃はおじさん同士、よく怒って喧嘩していた気がします。

赤坂 殴り合いとか見なくなったねえ。フィジカルな喧嘩は厳禁ですけど、そうしか表せないエネルギーもあると思うんですね。いじめとは違う「喧嘩」はあるはずで。

雨宮 私が通っていた中学ではヤンキーが多くて、ヤンキーは常に殴り合って血だらけが日常だったのですが、今だったら考えられないですね。当時はそういうヤンキーが怖くて仕方なかったのですが、それから30年以上経った日本では怒りも出せないし、ネガティブな感情を出すことがすごくタブーになった印象はあります。

しかもちょっと泣いたり、落ち込んだりしていたら今度はメンヘラ認定される。今は服装だけでもメンヘラ認定されますね。歌舞伎町にいるホスト狂いみたいな服装。フリルとかいっぱいついてるミニワンピでツインテールしてるだけでそういうレッテルを貼られる。

危険に身を晒すことで快感

赤坂 処凛ちゃんはゴスロリやめたの?

雨宮 やめました。30代ぐらいまでは着てたんですけど、流石に40代にもなると妖怪化してきて違うジャンルになってくる気がして(笑)。もちろん、似合ってる人もいますが。もうひとつ、飽きたということもあります。ゴスもあの世界への依存というかアディクションっぽいものがありますね。あれは鎧であって、精神的な武装でもあるので。あれはあれで良かったですね。あれを着ていると絶対に宗教の勧誘に遭わないし、道も聞かれない。絶対ナンパもされないし、すごく平穏に暮らせました。

赤坂 男よけという意味もあったんですか?

雨宮 はい。絶対セクハラもされないんですよ。なので良かったです。

赤坂 ナンパは嫌いなの?

雨宮 怖くないですか?基本嫌です。普通に歩いているだけなのに、話しかけないでほしくないですか?

赤坂 私、ナンパは意外と好きなので。

(ワハハ 笑)

雨宮 知らない人についていくようなそんな危険な行為をしていたと本にも書いていましたね。赤坂さんの小説にもそういう人が出てくるから、本当に危ないなと思って読んでいたんですけれども。これは自傷的な行為ですか?

赤坂 自傷ですよね。あと、危ないところに行って切り抜けて「ああ、良かった生きてる」と思うことがいい。「感じられない」人だったので、スリルや怖さを感じて、生きている実感が欲しかったのかもしれない。

雨宮 ギャンブル依存のスリルと同じじゃないですか。

赤坂 読んだところでは、クレプトマニア(窃盗症者)が味わうスリルと安堵に近いと思いました。

雨宮 そうだ!その時に出る脳の汁は同じじゃないですか。

赤坂 ああやりおおせた、みたいな快感です。

雨宮 万引きとかとたぶん同じな気がする。私も北朝鮮に行って、「ああ無事に帰ってきた」とかあるけど、それはただの安堵でした。

S N Sでの攻撃もアディクション

雨宮 元の話に戻すと、今の時代、ネガティブ感情を出すとメンヘラと言われたり、怒るとクレーマーと言われたりする。だからダイナミック瞑想とかアクティブ瞑想は全ての現代人に必要だと思います。

赤坂 そうね。すべての現代人に必要と思います。特に、先生に言われて納得したのが、「第二次世界大戦以降の人間、とりわけ、敗戦国の人間には、ダイナミック瞑想が必要」という言葉。日本社会に顕著だけれど、傷や暴力の置き所がわからなくなっている。加害の置き所も被害やトラウマの置き所も、わからなくなっている。戦争って大きすぎる複雑な影響がずっとある。

考えるのは複雑すぎるから、すべてなかったことにしよう。ないことにしよう。歴史もなかったことにするし、暴力や傷を少しでも思わせることは、禁止する。抑圧する。それが「平和」だと思われているふしもある。

その一方で、言葉の暴力や、いじめ、セクハラ、パワハラなどの各種ハラスメントはひどくなっていると感じます。SNSでも、人を言葉で追い詰める。

(瞑想で対処するのは、自分が受け止め方を変えるということですよね。本当はそういう感情を攻撃する社会の方がおかしいのに。今、障害者が社会のバリアに対してものを申すと、S N Sなどですごく叩かれるし、若い女性の搾取に抗っている活動家もすごく叩かれます。こちらの心の持ちようを変えるだけでいいのかとも思います)

赤坂 「心の持ちよう」って少し自分にごまかしがある気がする。それとは少し違って「自分の在り方」が変容することはある。なぜかは自分にも説明ができないのだけれど、自分の在り方が変わって、以前問題だったことが問題ではなくなる、ということはあります。その変容は、他人にも、なぜだか伝わる。

雨宮 たぶん攻撃している人の方が病んでいるんですよね。加害の方が。

赤坂 でも加害もアディクションだと思う。加害とかいじめって、よく考えると不合理で、そんなことするより自分のやりたい建設的なことをした方がいい。一種の時間のムダで。でも加害することから離れられない。いじめる対象を決して離そうとはしない。

雨宮 ですよね。まさにこれを読んだら、全ての現象がアディクションで、普通に生きうることでさえアディクションじゃないですか。

赤坂 なんで?

雨宮 「普通に生きる」ことに固執するアディクション。それもすごく怖いし、「正しさ」へのアディクションも今、すごくあります。誰かがちょっと外れたこと、例えば不倫をしたりするとすごくバッシングする。その時に攻撃する人がものすごく気持ちよさそうなのも、すごく嫌なものを見ている気がします。日々S N Sなどで感じます。

そういう人こそ瞑想に行ってほしいんですよ。心の中のゴミを出して、ネットで人を加害するのではなくて、ちゃんと出して、心の容量を空ければ、そんなことがなくなるのに、と思います。だから社会の病が全部詰まっているなと思いながらこの本を読みました。

撮影・後藤勝

赤坂 ああ! 「普通アディクション」って、ありますね! 自分の思う「正しさ」への過度の固執も。わたしは犯罪者の手記や内省をよく読むんですけど、親に「普通アディクション」がある!って感じたことがあります。それで少しでもそこから外れたものをすべて排除しようと教育されて、楽しいことも何もなくなってしまった。

世間やメディアやSNSの不倫バッシングにも、普通アディクションがある気がする。まるで犯罪者に対する感じで過剰。「普通」の規範がタイトすぎる。そして、その「普通」がどこから来てるのか、誰も疑ってない。「みんなそう思ってる」って信じてる。これ、自分も苦しいだろうにね。そうですね、そういう人こそ、溜め込んだものをまず出す瞑想をした方がいいとは思います。

アディクションは「より良く」を求める病

(確かに「普通に生きる」ことのアディクションってありそうですね。人に指を指されないように生きなくちゃとか)

雨宮 「人に迷惑をかけるな」とかですよね。「より良く生きる」もそうですよね。

赤坂 私、気づいたんですけれど、「より良く」「より良くなりたいと願う」のは人間のいいところでもありますが、同時に病気の元でもあるって思うんです。

アディクションを誘発するものに「劣等感」があると思うんですが、劣等感って、比較がなかったら出てこない。「人と比べて」「世間と比べて」「お姉ちゃんと比べて」「過去の自分と比べて」だめだ。自分は劣っている。そこに「よりよくなりたい」という気持ちが生まれ、何かの力を借りようとする。お酒とか薬物とか食べ吐きとか。

「よりよく」は向上心でもあって、人間の良い質ともなるのですが、行き過ぎると今の自分の否定となるし、自分を追い詰めます。よりよくならなければ、というプレッシャーの緩和にも、アディクションはある気がします。

「だめ連」再評価と「寝そべり族」の台頭

雨宮 本の中で「弱さでつながる人は強い」と書いていますが、私は「だめ連」という人たちと長い知り合いです。「だめ連」は、まさに「だめ」でつながる人たちです。

そんな「だめ連」の活動は1992年に始まったのですが、モテない、仕事が続かないなど「だめ」な人たちがバブルの時代から、結婚しない、就職しない生き方を30年やり続けて、気がついたら結婚できない、就職できない世の中になっていた。彼らはその間、月収5〜7万円ぐらいで生きてきて、30年間ずっと遊びながら、最低限の賃労働しかせずに寝そべっていた。そうしたら、今、時代の最先端みたいになっていて、これが一番いい生き方じゃないかと再評価されています。

最低限だけ働いて、あとは自分の好きなことだけする。そうしてだめをこじらせないために、人とはとにかく交流する。メインの活動は「交流」です。

最近、中国で「寝そべり族」と呼ばれる人たちが流行り出していて、「中国版・だめ連」と言われています。競争に疲れた若者たちの間で、家も買わず、いい就職も目指さず、生きられる分だけ最低限稼いで生きていこうというのが寝そべり族です。アジアでだめの連帯が広がりつつある。

そういう人たちと私はこの十数年間交流し続け、しょっちゅう路上で飲んでいるんですね。「だめ連」をはじめた一人である神長恒一さんは、週二日くらいしか働いていないそうですがなんの問題もなさそうです。

赤坂 「世間的にいいとされることができないあなたは、だめなんかじゃない!」って言うのがだめ連ですよね。存在と活動が、メッセージ。「だめをこじらせない」って言葉、好きです。交流も「こんなやり方がある」っていう情報交換になりますよね。好きな人たちと交流するのはシンプルに楽しいし、生きることのいいところですよね。

アジアで広がるのもわかる。中国人留学生から聞いたことがあるけれど、中国では「内巻(ネイチュアン)」、内部の競争がものすごいんですって。学歴なんかも、学士では足りないとか。その競争が上がるにつれて、それについていけない人も増える。ついていけない人たちがつながれば、世界中にネットワークが広がりうる。だめ連の神長さんは、どうやって生活しているのですか?

雨宮 神長さんは障害者介助と学童保育のアルバイトをしていて、月収6万円くらいだそうです。でもパートナーと暮らしているから、5万ぐらいの家賃を折半できる。それでめちゃくちゃ楽しそうなんですね。最近は、いつ災害が起きてもいいように、野草を摘んで食べていますとか。旅行も全部自転車とか鈍行の電車で行って、釣りして魚を捌いて焼いて食べたりしている。

赤坂 神長さんだとカリスマ的ですから、有形無形の支援も集まるのだろうとは推察しますが。それでも、いちばん大切なものって、いつだってタダでそこにありますよね。空気も太陽も。川も魚も、基本的には。メンタルとフィジカルが強いな〜と感心するところもあり、そこは恵まれた資質だと思います。

でも、人間、誰しも限られたリソースと共に生まれてくるわけだから、それを、いやなことに使わず、どう自分の望む人生に使うかっていうのは、メッセージですよね。生きることそのものが。

雨宮 すごいんです。山に行ってキノコを取ったり、「夜になったら宇宙が見える」とか言って、星を見たりする。全部タダじゃないですか。すごい得しているみたいな感じで、めちゃくちゃ楽しそうなんです。そういう人が周りにいるから、ちゃんと働いて、納税しようという気持ちがさらさらなくなっていく。正気に戻るというか、それによって生かされているなということに改めて気づきました。

赤坂 正気に戻るんだ(笑)。現代も狩猟採集生活は可能なのだという感じ。誰にでも向くとは思わないけれど、たしかに、いちばん大切なものは全部タダで、逆に、なんにでも値段をつけることのほうが病んでいるとも言える。

変化を受け入れながら、どう変わっていけるかというところがポイントとなってくるのではと思います。だめ連やそういう生活をやめることも含めて。ネットワークや広域のコミュニティで、インフラ面も支え合って生きていく生き方が主流になると、個人や家族システムの苦しさも減ってくる気がします。

雨宮 やっぱりダメな人と一緒に生きるのが、自分は精神衛生上いいですね。死ななかったのはそういう人たちのおかげかなって思います。

赤坂 だめ連っていろんな年齢の人がいるの?

雨宮 始めたのは今50代の人で、20代の頃に始めたんですけれども、今、だめ連界隈には20代から50代くらいが集まってるって感じですね。共通するのは、今の資本主義についていけない人。ついていこうともしてない人というか。しかもだめ連はあまり働かず、消費もしないことで環境破壊とは無縁で90年代からSDGsを先取りしていました(笑)。そんな彼らは高円寺界隈で開催される祝祭的なデモなんだか路上パーティーなんだかわからないようなものによく参加していて、私もいつも行ってるんですが、

それが赤坂さんの本で書かれている「祭りのような何か」になっている。自分たちで年に数回、手作りの祭りをやってる感じでそれがむちゃくちゃ開放感があって面白いんです。

だめ連は今年、『だめ連の資本主義よりたのしく生きる』という本を出版しました。

(赤坂さんが本に書かれていることを自然に実行している人が身近にいたわけですね)

雨宮 そうですよね。こわれ者の祭典もそうですよね。

(そういう生き方をしている人がいることを聞いて、赤坂さんはどうですか?)

赤坂 視点が広がるよね。世界が広がる。ああこんな生き方もあるんだって。資本主義って、知らず知らずのうち信じ込んでしまったり、苦しいけど他のシステムよりマシな必要悪と思ったりするけど。

雨宮 資本主義社会の中にどっぷり浸かっていると、おかしくなりますよね。

赤坂 それの盲点をつくようで面白かったのが、坂口恭平の『0円ハウス』。路上生活者と交流して教えを請うて「家」や暮らし方をよく見て聞き取りをして、都市や人間生活のインフラをうまく利用しながら、可能な限り、資本主義と離れて生きることの可能性を、法律の観点からも探るんです。こんなふうに、随所にカリスマはいるのだけれど、カリスマのみならず、誰でも一人一人が、ハンドメイドで人生を創っていくしかないと思うんですよね。

※路上生活者が無料で調達したものを使って作った「家」を、自称・建てない建築家の坂口恭平さんが「0円ハウス」と名付けて紹介し、家の概念を考察している本。

雨宮 確かに「だめ連」的なものと坂口恭平さんは近いと思います。

家族や恋人に全て求めるのは無理

赤坂 たとえ従来型の家族があったとしても、一家族だけで家族を支えることは、もう無理なんじゃないかってわたしは思っています。コミュニティで支え合う発想をしないと。家族のことは家族ですべて面倒を見るというのは無理だし不安定すぎる。また別の見方をすれば密閉型の家族こそ傷の源泉という面もあるわけだし。

雨宮 下手したら殺し合いになりますよね。家族をやっていたら。

赤坂 ドメスティックバイオレンスが発生します。一番暴力が出やすい関係性が、カップルであり、家族。

雨宮 日本の殺人の半分以上が親族間で起きていますからね。

(一人でも寂しいわけですが、他者と暮らすと衝突しますね)

赤坂 他者、それも親密な他者って、それこそ殺し合うほどの憎しみもありうるのだけど、他者との関わりでしか開かない扉が、人間にはある気がして。いや、愛と憎しみは最初からセットなんだと理解して、それを変容させることしか、ないのかもしれない。

たまたま憎しみに変わる愛があるんじゃなく、たまたまわたしがとりわけメンヘラとかでもなくて、愛と憎しみははじめからセットであって、すべての恋愛は憎しみを引き連れてくる。だったらそこからどう愛を育てるか、という。自分はそれをやろうとしているのかもしれない。愛にこそ、技術が要ると思います。

(今、中村うさぎさんに連載を書いてもらっていますが、家族について、自由と連帯のバランスに苦しんだことが書かれています)

雨宮 その点、猫はいいですよ、可愛いから。成人男性が家にいたらうざくないですか?私は29歳で猫を拾って一緒に暮らし始めたことによって、リストカットがおさまり死にたい思いが軽減して軟着陸しました。自分の問題に集中せずに、猫に集中するから。重い愛をぶつける対象ができたからだと思います。

重い愛って、相手が人間だと壊しちゃうんですよね。彼氏だったら、重くて病ませてしまうかもしれないし、もし子供なんていたら、重い愛をぶつけたら絶対におかしくなるじゃないですか。過保護で過干渉になって「あなたのため」でがんじがらめにして。

でも猫に重い愛をぶつけても、ピカピカツヤツヤになって可愛くなるだけなので、すごく救われています。赤坂さんは動物飼ってないですか?

赤坂 人間で手一杯なのか、動物をすごく飼いたいっていう欲求がないんです。出逢っちゃったら、また別かもしれないですけど、それはその時考えます。ペット不可住宅に住んでるってことも含めて(笑)

出逢っちゃうのは、人でもなんでも同じですけど。その時の自分丸ごとで対応ですね。思いもかけない解決法があるのかもしれないし、楽しむしかない。

(続く)

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コメント

15日前
匿名

普通アディクションって私の事だと思います。普通こうでしょってと決めつけて、家族に言いまくってましたね。

例えば、娘が体育祭の衣装を着たまま電車で帰ってきた時に「普通着替えるでしょ?」とか。本人が困らなければいいのに。普通ってなんなんでしょうねと今は思える事ができるようになりました。でも、時々普通はねと

言っちゃってます。

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