日本の薬物政策はなぜこれほどまでに保守的なのか?
日本の薬物政策は世界の潮流とはかけ離れて、旧態然とした厳罰主義、懲罰主義に陥っています。なぜこうなのか?どうやったら打開できるのか?刑法学者が考察します。

公開日:2025/09/15 02:00
日本の薬物政策の厳罰主義
日本政府の薬物政策は、社会を良くしようとしながらも、国際社会の潮流から次第に孤立していき、結果的に多くの負の側面を抱えてしまっている。それは、旧態依然とした厳罰主義・懲罰主義に固執しているからであって、解決すべき問題の深刻化を招いているのである。
しかし、もしもそのような負の側面は承知のうえで、それを超える圧倒的な利点があると信じているなら、そのような薬物政策はあまりにも視野狭窄的で保守的としかいいようがないのである。
あらかじめ誤解を避けるために言えば、例えば密造酒の製造や販売が犯罪であるように、薬物の違法な製造と供給を厳しく取り締まるべきであることは当然のことである。私がここで問題にするのは、薬物の自己使用を「犯罪」として罰し、使用者を「犯罪者」とすることの不当性である。
国際潮流からの孤立
日本は、国連の「麻薬に関する単一条約」(1961年)や「向精神薬条約」(1971年)、「不正取引防止条約」(1988年)などの国際的な薬物規制体制に加盟しており、これに基づいて国内法を義務的に整備してきた。しかし現在では、その運用は国際的な潮流からかなり乖離してきている。
とくに大麻に対する日本の規制は、庭の雑草駆除に業務用の強い劇薬を使うぐらい大げさで厳しい。
2023年の大麻取締法改正により、大麻、具体的にはその主な陶酔成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)が麻薬及び向精神薬取締法(麻向法)における「麻薬」に分類された。そして、医療用大麻の施用を可能にする代わりに麻薬の乱用を防ぐという理由で、大麻の非医療的使用が新たに麻薬施用罪として、最高7年以下の拘禁刑というたいへん重い犯罪になったのである。
またさらに問題なのは、THCの含有量に関する基準が、アメリカと比較しても異常なほど低く設定されたことである。
アメリカの連邦法およびほとんどの州法では、乾燥重量比でTHC濃度が0.3%以下のヘンプ(大麻草の栽培品種であり、いわゆる産業用大麻)とその由来製品は合法としている。
これに対し日本では、油脂・粉末で10ppm(0.001%)、水溶液で0.1ppm(0.00001%)という、市販されているノンアルコールビールよりも厳しいTHCの残留限度値が設定されている。その数値を超えれば「麻薬」とみなされるのである。つまり、アメリカで合法に流通する微量THCを含むCBD製品であっても、日本では「違法な含有割合」とみなされ、「麻薬」となる。これは、先日のサントリー元会長の「事件」によって浮き彫りにされた日米のCBD法規制の深い隔たりであり、消費者や企業にとって大きな潜在的リスクとなっている。
科学的根拠の欠如と懲罰的断薬主義
日本の薬物政策の根深い保守性は、その根底にある「処罰が治療のきっかけになる」という科学的根拠に乏しい懲罰的断薬主義にもある。
この考え方の根本は、薬物使用者を「罪深い存在」とみなし、懲罰によって強制的に断薬させようとするものである。これは依存症の背景に、薬物の誘惑に負けて手を出してしまう個人の「意志の弱さ」があると捉える、かつての西洋の道徳的アプローチに通じる。
科学的データを見れば、薬物使用者の圧倒的多数が依存症になるわけではないことが示されている。最近の研究によれば、「大麻経験者の90%以上、コカイン経験者の80%が依存にならない」という研究結果もある。
*「依存症になるのはどんな人?―NESARC調査からわかること―」
百歩譲って、処罰が断薬治療のきっかけになるとしても、依存症になっていない圧倒的多数の常用者には医学的な治療の必要性はないのだから、彼らの処罰は不必要な苦痛を加えること以外の何ものでもない。強いていえば、かれらが将来依存症にならないようにするためにきつく罰するということである。しかし、これは「治療のきっかけ」ではない。子どものイタズラが将来非行につながらないために、体罰を加えるようなものである。われわれは経験上、周りにいる酒好きの人すべてが、アルコール依存症の治療が必要だと考えてはいないが、これと同じである。
国際社会では、1970年代にニクソン政権が宣言した「薬物戦争」(War on Drugs)が失敗であったと認識され、2016年の国連総会(UNGASS)では、人権尊重やハームリダクション(害の削減)など、新たなアプローチの方針が加えられた。公衆衛生を重視する欧米諸国がこの方向に動き始めているのに対し、日本は依然として厳罰主義を強化しているのである。
「被害者のない犯罪」論と国家パターナリズムの矛盾
薬物の自己使用は、殺人や強盗のような明確な「被害者」が存在しない「被害者のない犯罪」として、刑法学や犯罪学で議論されてきたテーマである。
ジョン・スチュアート・ミルの「他者危害原則」は、国家が刑罰によって個人の自由を制限しうるのは、他者に危害を与える場合に限られ、自己にのみ悪影響を及ぼす行為は処罰すべきではないとしている。
また19世紀ドイツの刑法学者で、日本の刑法学にも大きな影響を与えたフォイエルバッハは、犯罪を思いとどまらせるために、犯罪遂行によって得られる快感を少し上回る苦痛(刑罰)を事前に予告するべきだという心理強制説を唱えたが、かれは刑法は道徳を守るために存在するのではないことを強調した。
しかし日本の薬物政策では、国家が国民を自己破壊的行為(自損行為)から守るという「法的パターナリズム」ないしは「法的モラリズム」が強い。
しかし、これを一般化すれば、過食、飲酒、合法ギャンブル、ゲーム依存など、健康や人生に悪影響を及ぼすと考えられる無数の「道徳的に良くないこと」も論理的にはすべて処罰の対象となりうる。実際には、合法なアルコールの過剰摂取が社会問題や暴力事件のきっかけになっても、アルコールを法禁物とする議論はまともに扱われない。
しかし、違法薬物の自己使用が例外的に厳しく罰せられるというこの矛盾は、「被害者のない犯罪」論からの批判に耐えられるものではない。薬物自己使用の犯罪化は、薬物が本人に与える可能性のある害よりも、逮捕や処罰がその後の人生に与える深い傷の方がはるかに有害であるという悲劇的な結果を招きかねないのである。
この点について最近では、大麻使用の功罪を天秤にかけて、大麻使用を選択しないように、その主観的メリットを上回る不利益を与えるべきだという考えから、施用罪の創設が支持されることがある。
しかし大麻の使用を選択させないために、なぜ「7年以下の拘禁刑」というかなり重い処罰が必要なのかという点について積極的な説明はどこにも見たことがない。刑罰を治療のきっかけにするにしても、なぜ罰金刑ではダメなのか、あるいはさらに進んで、(軽微な交通違反における反則金のような)前科のつかない行政罰ではなぜダメなのだろうか。
カーター元アメリカ大統領は、〈薬物が個人に与える害以上の害を、刑罰が与えることがあってはならない〉と述べたが、けだし明言である。
社会的スティグマの助長と回復の妨げ
日本の薬物政策は、薬物使用者に対して強いスティグマ(烙印)を付与し、結果的に彼らを「道徳的失格者」として社会から排除している。このスティグマは、「ダメ。ゼッタイ。」キャンペーンやセンセーショナルなメディア報道によって増幅され、薬物使用者を怠惰で暴力的な負のステレオタイプで描くことで、社会の周縁に追いやる結果を招いている。
このスティグマは、薬物使用者に助けを求めることをためらわせ、治療へのアクセスを妨げる大きな障壁となっている。医療従事者の中にも薬物依存者に対する否定的な偏見が無意識に存在する可能性があり、適切な医療が提供されないケースもある。また、警察による職務質問や所持品検査で、薬物使用者が狙い撃ちにされ、公共の場で辱めを受けるといった不当な扱いも報告されており、これは薬物使用者の社会的孤立を深める要因となっている。
依存症を「罪」や「性格的欠陥」とみなすか、「病気」とみなすかによって、社会の対応は大きく変わる。薬物使用を犯罪化することは、意図的にスティグマを作り出す行為でもあり、依存症を病気と主張しながら同時に犯罪者とすることは矛盾である。このような社会構造は、結果として再犯を促進し、治療を困難にし、政策の硬直化をもたらすだろう。
闇市場の活性化と「禁止の鉄則」
厳格な禁止政策は、意図に反して多くの負の側面をも生み出す。そのひとつは、薬物の違法化と取り締まりの強化が、かえって闇市場で流通する違法薬物の潜在的利益率を高め、犯罪組織に多額の利益が流れ込むという逆説的な効果をもたらすことである(「禁止の鉄則」)。
ときどき警察による違法薬物の大量押収が報じられることがあるが、これをもって闇市場の国内流通量がそれだけ減少するわけではなく、むしろ市場を刺激しているという逆説的な結果ももどかしいのである。これは、一つの頭を切り落としてもすぐに二つの頭が生えてくるギリシア神話の怪獣ヒドラにも例えられ、「ヒドラ効果」とも呼ばれている。
また、闇市場で流通する薬物は、品質管理がなされず、不純物の混入が常態化しており、使用者の健康リスクを高めている。薬物を買うために、暗い路地裏で何が入っているか分からない身体に危険な薬物を不当に高い値段で買わされるのである。
「薬物」概念の曖昧さと非現実的な目標
そもそも「薬物」という言葉自体に明確な科学的定義は存在せず、その分類は、特定の化学物質の有無や構造だけでなく、使用の意図、投与方法、使用者の社会的地位、さらには文化的・政治的背景に大きく左右される。例えば、モルヒネやコカインは医師が施用すれば医薬品であるが、快楽のために使用すれば「薬物」と呼ばれる。
逆に、アルコールやタバコも薬理的には精神作用物質であるにもかかわらず、「薬物」とはみなされないことが多い。このような曖昧な定義に基づき、感情的、道徳的な非難によって特定の物質を「薬物」とみなし、非医療的な使用を厳しく規制する政策に問題はないのだろうか。
国際社会は、かつての「薬物のない世界」という究極の目標から、より現実的な人権尊重とハームリダクションを重視するアプローチへと転換している。
2001年に全ての薬物の自己使用を非犯罪化したポルトガルでは、薬物関連死やHIV感染者の減少、治療へのアクセス向上といった成功が報告され、「公共保健型アプローチの成功例」として評価されている。カナダ、ドイツをはじめとする少なからぬ国々で大麻の合法化や非犯罪化が進む中、日本が国際的な知見や人道主義的アプローチから取り残されている現状は、日本人研究者としてまさにもどかしい状況なのである。
日本の薬物政策の保守性をどうしたら打開できるのか
日本の薬物政策が視野狭窄的で保守的なのは、社会を良くしようとして、科学的根拠の乏しい懲罰的アプローチに固執し、使用者を「犯罪者」としてスティグマ化することで、社会全体に多くの負の側面を生み出しているからである。薬物の自己使用を「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンで感情的に非難し、厳罰化する政策は、闇市場を活性化させ、使用者の回復を妨げ、人権侵害のリスクを高めている。
このもどかしいほどの保守性は、どうすれば打開できるのか。
第一に、「薬物のない世界」という幻想から脱却し、薬物使用は歴史を通じて普遍的かつ遍在的に存在してきたという現実を受け入れるべきである。
第二に、公衆衛生の観点を優先し、科学的データとサプライチェーンの国による監視体制に基づいた現実的かつ人道的な政策への転換を図る必要がある。具体的には、薬物使用を犯罪問題ではなく、健康問題として捉え、ハームリダクション、薬物教育、治療を包括的かつ体系的に推進することである。
政策決定者のみならず、国民全体が多角的な視点から議論を深めることが、より効果的で人道的な日本の薬物政策を実現するための第一歩となるだろう。