アディクション業界が“沈滞化”? 信田さよ子さんの意外な過去の「アディクション」も明らかに…
『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』(太田出版)の出版を記念し9月18日、代官山蔦屋書店において著者で精神科医の松本俊彦さんと、同じく著者で文学研究者の横道誠さん、そして公認心理士の信田さよ子さんによるトークイベントが開催された。トークの様子を2回にわたってお届けする。
公開日:2024/11/28 02:30
『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』(太田出版)の出版を記念し9月18日、代官山蔦屋書店において著者で精神科医の松本俊彦さんと、同じく著者で文学研究者の横道誠さん、そして公認心理士の信田さよ子さんによるトークイベントが開催された。
Addiction Reportでは当日のトークの模様を2回にわたってお伝えする。
「パチンコにハマっていた」信田さんに意外な過去
松本さん(以下、敬称略):私は精神科医で、本のタイトルでは「タバコをやめられない」ということになっているので、まるで禁煙に何度もチャレンジしては失敗しているように映るかもしれませんが、実際には禁煙にチャレンジしたのは1度だけで、その後はタバコをやめたら自分でなくなると思い、「タバコをやめる」のをやめました。
横道さん(以下、敬称略):私自身は色々な依存症の塊で、一番メインというか最初に診断が下されたのはアルコール依存症です。子ども時代は万引きをしていたので、クレプトマニアでもありました 。その後は摂食障害の過食症になって、今も割と食べ過ぎな傾向があります。その結果、Ⅱ型糖尿病とも診断されています。
他にも様々なものに依存しながら、これまで生きてきました。そのことについては、これまでも著作に書いてきています。
信田さん(以下、敬称略):お二人の往復書簡は連載時から拝読させていただいていました。個人的には松本俊彦さんのことを以前から存じ上げているのですが、彼が他のどこにも明かしていないことがここには書かれているし、面白いなと。
私の自己紹介としては、公認心理師をやっています。医者ではありませんが、保険医療の世界とは距離を置いて、相談者の方が自費でカウンセリングを受けるカウンセリング機関「原宿カウンセリングセンター」を30年運営してきました。現在は所長を引退しましたが、顧問として引き続き関わっています。
何か自分のアディクションについても語った方が良いのかしら。
横道:ぜひお願いします。
信田:私あんまり、そういうの好きじゃないんですよ。依存症業界に長いこと関わってきたこともあり、色々な歴史を見てきました。実は80年代の終わりから90年代にかけて精神科医たちが揃って自分たちのアディクションを打ち明ける時期というものがあって。私はそれを「自助グループロマン主義」と呼んでいるのですが、「自分のアディクション経験を話せば、良い医師になれる」という風潮が漂う時期があったんですよ。だから、私自身の体験についてはあまり話さずに来たんです。
一つお話するとすれば、私は一時期パチンコにハマっていました。大学時代から付き合っていた、後に結婚することになる彼氏が大のパチンコ好きで。2人で会うとなると、いつもパチンコ屋へ行っていました。
当時は西武池袋線の江古田駅の近くに住んでいたのですが、駅前にはパチンコ屋が3軒あって、大学院の研究を終えて文京区大塚から帰ってくると20時くらい。駅前で「今日はどこに行こうかな」と考えてパチンコ店Aに行くと、当時は若い女性客が珍しかったこともあって必ず店員と目が合うんです。その男性店員がじっと見つめる台に腰掛けて打つと、決まって玉が出る。
「なんであの女の座った台はあんなに玉が出るんだ」って怪訝な視線を店中から集めながら、翌日はパチンコBで同じように玉を出していました。当時はパチンコの景品でインスタントコーヒーや砂糖、醤油といった生活必需品を手に入れて暮らしていたほどでした。
でも、ある日寝ていると、まぶたにパチンコ台のチューリップが浮かび、開いたり閉じたりするようになって。「ああ、これはマズいぞ」と気付き、そのときから意図的にパチンコだけじゃなくギャンブル全般から距離を置き続けています。
横道:このイベントにふさわしい自己開示をありがとうございます(笑)。
「ヘイ、トシ!」「ヘイ、マコト!」誕生の舞台裏は…
横道:まだ読んでいない方も多いかもしれませんが、『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』という本が生まれることになったきっかけを松本先生からご紹介いただけないでしょうか。
松本:あれは2021年ぐらいのことだったと思います。年末に荻上チキさん編著の『宗教2世』という本が出版されました。色々な方が寄稿しているのですが、その中で特に面白かったのが横道さんが担当されていた章でした。
荻上さんとのトークショーにゲストとして参加したところ、横道さんもオンラインで参加していて、担当編集の藤澤さんも会場にいらっしゃっていて、すぐに「一緒に本を出しましょう」と盛り上がりました。とはいえ、そういったトークイベントの場での「本を出しましょう」という言葉は何かの拍子に口にする「今度飲みに行きましょう」と同じくらいの本気にしてはいけない口約束なんです。なので、当初は全く本気にしてはいませんでした。
そんなことを考えていたら、「本当に一緒に本を作りましょう」とお声がけをいただいて、オンライン会議を実施することになりました。横道さんは最初からノリノリで「ぜひ色々と自己開示してきましょう!」みたいに言われたのを覚えています。「これはマズいことになっちゃったな」と思っていると、僕をのせるために横道さんが「僕が最初に書きますよ」と手を挙げていただいて。気付けば抜け出せない状況になっていました(笑)。
横道:正直、最初の打ち合わせの後、すぐに「やっぱり無理です。この企画はやめましょう」と言われるんじゃないかと不安でした。だからもう、打ち合わせがあった夜のうちに原稿を出してしまおうと。打ち合わせが終わって2時間後くらいに初回の原稿を送りました。
松本:しかも冒頭から、「ヘイ、トシ!」と書かれているじゃないですか。もう当初イメージしていたものと全然違っていて、何事もなかったかのように進めようかとも思ったのですが、陽気に手を振ってくれている横道さんを黙殺する勇気と度胸はないということで、気が付くと『ヘイ、トシ!』『ヘイ、マコト!』と呼び合う形で連載が始まっていました。
横道:往復書簡5〜6回分を書き溜めてからウェブでの連載の配信が始まったのですが、ちょうどその頃に信田さんとイベントに登壇させていただく機会があり、その打ち上げで「実は松本俊彦先生と連載を始めます。私はこれまで通り赤裸々に行こうと思うんですが、どうもポイントは松本先生のほうが心のパンツをちゃんと脱げるかどうかになりそうなんですよね」とお話ししました。
すると、信田さんは「いやいや、松本俊彦は絶対にパンツを脱ぐような人じゃないよ。断言してもいい」と。そんな言葉を聞いていたからこそ、これでもかというくらいの自己開示を重ねて、少しでも松本先生にパンツを脱いでもらおうと頑張った連載でした。だから、私も実は辛かったんですよ。
信田:そういう意味で、3人はつながっていたということですね。
「自分一人だったら…」根源的問いに向き合うことができた理由
信田:この本を拝読した感想をお伝えさせていただくと、今となっては家族やDVといったテーマを扱う人間として認識されていますが、私自身はもともとはアディクションに関することから臨床心理士としてのキャリアをスタートさせました。今でも依存症関連の集まりにいくと、「ホームに帰ってきたな」という感覚を覚えることがあります。
松本さんも連載の中で言及されていましたが、私自身も近年、アディクションの業界全体が「沈滞化」していると感じています。
70年代は断酒会の動きなどが盛り上がり、80年代には日本に「アダルトチルドレン」という概念を広めた精神科医・斎藤学ブームが巻き起こり、ASKといった市民団体をはじめとする当事者や家族を中心とする団体や自助グループなどが生まれていった。脱病院という文脈の中でさまざまなコミュニティづくりが進んでいったんですね。そして90年代に入るとデイケアやナイトケアに対する医療保険点数が上がり、病院で精神科医をやっていたような人々が次々に開業していった。そして、2000年代に入ると認知行動療法をはじめとするアメリカのアディクション治療メソッドが次々に日本に入ってきました。でも、その裏で援助者の力は落ちてきているのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、私はこの本を読みました。松本さんはこの連載において、「自助とは何か」「回復とは何か」「本当にやめる必要があるのか」「底尽きとは何か」といった根本的な問いに対して、とことん突き詰めて考えています。私はその姿勢に心を打たれました。
そして、松本さんがここまで根源的な問いに向き合うことができたのは、横道さんが意図せずに問いを引き出してくれたからだと思います。そのような意味で私は、この一冊は宝の山だとお世辞抜きに思っています。
横道:ありがとうございます。とても嬉しいです。
松本:嬉しいですね。僕もそう思うんですよ。自分一人だったら「たぶんこういうことは言っていなかっただろうな」と。
実は連載の中盤くらいで、明らかに僕の“パンツの脱ぎ”が足りなくて緊急編集会議が開かれたんです。「どうも松本の脱ぎが足りない」「もっと脱げ」と(笑)。そんなこともあった影響からか、後半にかけては半分ヤケクソになりながら書いた側面もありますね。
信田:身に着ているものがなくなっても、それでもなお脱ぎ続ける横道さんを前にしながら往復書簡を続けるというのはすごくキツいことだと思うんです。私だったら到底できません。よく引き受けましたよね。
20代から現在まで「休肝日」は合計30日
横道:僕はずっと松本先生のファンで、嬉しいのもあって最初から「一試合完全燃焼」の心構え。だから連載の第1回で自己治療仮説についてであったりとか、ハームリダクションについてであったりとかも含めて、往復書簡の核心になるだろう部分は、だいぶ書いてしまったんです。
松本:本当に第1回目の原稿はすごかったですよね。
信田:この1冊には教科書的なものを5〜6冊読んだだけの内容が詰まっていますよね。そこまで褒めると、さすがにちょっとお世辞も入ってるけど(笑)。
横道:お世辞が入っていたとしても褒めていただけて、すごく嬉しいです。ここからは少しアディクションのことについてお話しましょうか。
私の場合は発達障害もあるし、依存症もあるという人間です。子どもの頃から自閉スペクトラム症とADHDの特性はよく出ていて、小学生の頃は場面緘黙もあって、学校にいると全く喋ることができない時期もありました。そんなこともあり、自分の周りの人の感覚が違うことを感じては、孤独を感じていました。また、家に帰ればカルト宗教に入信している親がいて、その宗派では暴力を振るって子どもを矯正することを積極的に推進していたんです。傷ついて苦しんでいるからこそ、アディクションにはまっていくという「自己治療仮説」のままに、割と早い時期にオナニーを始めましたし、過食にもなっていきました。
さらにはストレスもあったとは思うのですが、だんだんと万引きをするようになって。最初はもちろん欲しいものも盗んでいたのですが、次第にそれほど欲しくないものであっても万引きをするようになっていきました。それは一種のアディクション的なものだったと思います。
若い頃は性欲も強く性に依存する側面が強かったのですが、ここまでの人生で最も大きな依存対象はアルコールです。最初はなかなか飲めず、ビールも「苦いだけでまずい」と思っていたのですが、遺伝的に肝臓が強い家系であったこともあって、徐々に依存するようになりました。実は父親もある時期から仕事を夕方ぐらいで切り上げて、家に帰ってくるとずっとお酒を飲んでいた。土日になると、朝から日本酒を飲んでいました。そんな依存傾向の家庭に生まれたこともあり、親の習慣は嫌だと思っていましたが、そう思いつつも影響を受けてしまったというか、親の在り方を否定しきれなかったのか、自分もその方向に行ってしまったのだと思います。
20代から飲み始めて、今に至るまで「休肝日」と呼ぶことができるものは合計30日くらいしかないと思います。特に30代の頃は夕方6時〜7時くらいから飲み始めて、日が変わるくらいの時間に切り上げる、ということを繰り返していました。酒がなくなれば、途中でコンビニに買いに走るというような生活です。でも40歳が近づくと眠れなくなってしまって、このままでは大学で働き続けるのも難しい、ということで休職することになり、精神科に通うようになりました。
あらゆるものに依存傾向も、なぜタバコにはハマらなかった?
信田:薬はなんでやらなかったんですか?
横道:薬をやらなかった理由は、単純にのめりこむのが怖かったからだと思いますね。あとはアルコールも薬だということは分かっていましたから、そちらで充分かと。
信田:処方薬は?
横道:処方薬にもいかなかったんです。まぁ、やっぱり極端に何かに全振りする傾向はあるので、色々な種類のお酒を飲むことにハマっていくという感じでした。いろんなブランドのビール、日本酒、焼酎、ワイン、ウイスキー。
タバコに行かなかったのは、若い頃の恋人が色々なアレルギーを持っていて、外で飲み会をして、私の服からタバコの匂いがするだけで発作を起こすくらいだったんですよ。それで、タバコには行けませんでした。
松本:すごいですね。僕だったら、もうそんなタバコのアレルギーを持っている人だったらお別れするしかないですよね(笑)。
でも、やっぱりタバコにハマる人って、私の推測ではありますが、やっぱりお酒に逃げられない、お酒があまり得意ではないという側面はあると思います。僕も今でこそ普通に飲むようになりましたが、当初はお酒はすごく弱くて、不快な感覚しかなかったんです。
横道:ちなみにタバコはいつからですか。
松本:16歳です。
信田:私も若い頃から50歳になるくらいまで、タバコを吸っていたんですよ。
松本:そうなんですか。信田さん、それもっとカミングアウトしていただけませんか(笑)。
信田:やっぱりさっきのパチンコもそうだけど、タバコも怖くて、1日10本までって決めていたんです。銘柄はキャスターマイルドです。そのあとパリに行って、1日20本吸うような生活をして、パリから帰ってきてからもやっぱり同じくらい吸っていました。
50歳になった頃に、「これはいかん」と思ってやめましたが、周囲には「絶対に無理だから、吸った方がいいよ」と言われ続けました。
当時勤めていた職場は、カウンセリングが終わると、みんな建物の外階段にある踊り場に行って、そこには灰皿があったんですよ。「今日はどうだった?」とかってクライエントと一緒にタバコを吸いながら話すようなところだったんです。
都立の多摩の精神保健センターも当時はまだ禁煙ではなく、月一回の講義に行った折に、当時の予防課長だった精神科医から「信田さん、これ好きですよね?」ってキャスターマイルドを差し出されて、禁煙中だったのについつい吸ってしまった。「あ、スリップした」と思いながら、1ヶ月くらいは再びタバコをやめられない時期も経験しました。
(続く)