「何で助けたんだ」 搬送された病院で母親をなじった 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(中)
月乃光司さん(59)は24歳のとき、深い孤独から連続飲酒に陥り、漫画家の仕事を失いました。帰郷した新潟市の実家では、自暴自棄のように飲酒を重ねます。精神科病院への入退院を繰り返し、アルコール依存症を悪化させていきました。
公開日:2024/02/21 20:41
社会との唯一の接点だった漫画を描く仕事を、酒におぼれたことで失った。夢も目標もなくし、半ばうつ状態となった。24歳だった月乃光司さん(59)は、東京から新潟市の実家に戻った後、自分の部屋に引きこもった。【朝日新聞記者・茂木克信】
親の金をくすねて酒を購入
母親は日中外出するとき、昼食代として500円を置いていった。その金で手っ取り早く酔おうと、アルコール度数37度のスピリッツの小瓶をコンビニエンスストアで買った。
それだけでは飲み足りないので、母親がいない間に生活費の隠し場所を探り、中身を抜き取った。母親の貯金箱から小銭もくすねた。
酔いが回ると、興奮しておかしなことをわめき散らし、部屋の壁を蹴った。花柄の壁紙が貼られた薄い壁は、穴が20個以上開いた。父親は仕事で家を離れることが多く、一人で向き合った母親は次第にノイローゼ気味になった。
25歳になっても引きこもりは続いた。精神科病院に通い始めて間もなく。病院から処方された薬と、母親が使っていた睡眠導入剤を酒とともに大量に飲んだ。
出かけていた母親が帰宅したとき、黄色い泡を吹いて青い顔で床にのびていた。搬送先の病院で口から胃を洗浄し、心臓マッサージを受け、かろうじて一命を取り留めた。
翌日、目を覚ますと病室のベッドに縛り付けられていた。横から不安そうにのぞき込む母親を「何で助けたんだ」となじった。
入退院を繰り返す中、依存症が進行
半年後、再び酒と処方薬を大量に飲んで暴れた。自傷行為を繰り返していたこともあり、とうとう精神科病院に入院させられた。
幻覚や妄想はまだ出ていなかった。すぐに落ち着きを取り戻し、アルコール専門病棟で生活立て直しの研修を受けた後、2カ月余りで退院した。
退院後、しばらくは酒を飲まなかった。だが、病院でできた男友だちと街で遊んだ帰りに、居酒屋で口にしてしまった。その時は1杯でやめられたが、あっという間に猛烈に飲むようになった。
親は立ち直らせようと懸命だった。自動車学校に通わせてくれ、運転免許証を取ると100万円以上する新車を買ってくれた。だが、購入から1週間後、事故を起こした。
退院から5カ月後のそのときのことは、断片的な記憶しか残っていない。
昼間から、金箔(きんぱく)が入った日本酒の四合瓶を処方薬とともに飲んでいた。正気を失った後、車のハンドルを握ったらしい。日本海沿いの国道を高速で飛ばし、対向車線にはみだし、反対車線のガードレールに衝突した。車は自走不能になるほど壊れ、一発で免許停止になった。
「人をはねなくて本当に良かった」と当時をしみじみ振り返る。
気まずくて自宅に居づらくなり、精神科病院に2回目の入院をした。ただ、酒をやめる気はなかった。3カ月の研修プログラムの途中で退院して家に戻ると、贈答品のワインのセットを見つけた。迷わずラッパ飲みした。
それからはひたすら酒を飲み、処方薬を乱用した。幻覚や妄想が一気に進行した。
鳥が飛んできて首筋を突っつかれた。夢かと戸惑う中、次の瞬間、体中を虫がはい回っていた。慌ててパジャマを脱ぎ、虫を取ろうとジタバタしていてハッと気づいた。これは幻覚なのだ、と。
病院の研修で、アルコール依存症が進行するとそうした症状が現れると学んでいた。その通りだった。ショックだったが、それでも飲酒は止まらなかった。
風呂に入らず、散髪もしなかった。ある日の夜、家にいた父親に「臭い。あっち行け」と言われたのを機に口げんかとなり、再び家に居づらくなった。
27歳の誕生日の1週間後、3回目の入院をした。前回の退院からわずか4カ月。今回も酒をやめる気はなかった。
突きつけられた現実、気づいた胸の内
入院してすぐ、顔なじみの看護師が教えてくれた。「あの人が亡くなった」「この人も亡くなった」と。過去2回の入院中に知り合ったアルコール依存症者たちが、相次いで命を落としていた。再び酒を飲んだと聞かされた。
さらに衝撃的なことがあった。退院したばかりの男性が病院に運び込まれ、間もなく命を落とした。この人も再飲酒したらしかった。アルコール依存症者は、再び酒を飲んだら命を失うということをまざまざと突きつけられた。
自分も肝臓の数値が悪化していた。これ以上飲んだら、本当に死ぬと思った。
死にたかったはずだった。浪人中に自傷行為を始め、大学生になってからは自殺未遂を繰り返した。自分のことが、世界中で一番嫌いだった。自分を壊したい衝動に駆られてきた。
この時は違った。生きたい、と思った。
当時は深く考えなかったが、今は理解できる。
「自殺未遂を繰り返しても死ねなかったのは、死にたいのではなくて、現実の孤独や苦しみから逃げたいだけだった。痛みのない世界で生きていたくて、ひらめいたのが死しかなかった。本当は生きたくて、痛みから逃げるために酒を飲んでいた」
ただ、どうすれば酒なしで生きられるのか、この時はまだわからなかった。
▶失敗してこそ、恥をかいてこそ仲間 生きる支えができた 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(下) に続く
【月乃光司(つきの・こうじ)】心身障害者の表現イベント「こわれ者の祭典」代表
1965年、富山県生まれ。父親の転勤とともに長野県を経て幼少期に新潟市に移り住む。高校入学後、醜形恐怖症と対人恐怖症で不登校になる。大学を中退し、漫画家の道を歩んでいた24歳のとき、連続飲酒に陥ってアルコール依存症になる。自殺未遂を繰り返し、精神科病院に3回入院。27歳から酒を飲まない生活を続ける。2010年に新潟弁護士会人権賞と「第5回安吾賞」新潟市特別賞を受賞。14~16年に内閣府「アルコール健康障害関係者会議」委員を務める。著書に「窓の外は青」(新潟日報事業社)、「心晴れたり曇ったり」(同)、「人生は終わったと思っていた」(朱鷺新書)など。
【月乃光司さんインタビュー】
コメント
匿名さん
母には苦労をかけました。
今は毎日が落ち着いています。
『なんで助けたんだ』と母親をなじった
これを読んで、涙が止まらなかった
私は息子が自殺未遂をしました。親は目の前で苦しんでいる息子の姿を毎日見ながら、なにもできないで一緒に苦しんでいる。時にはこのまま死んでしまった方が、息子は楽なんじゃないかとさえ思ってしまう…
でも最後に、本当に死にたいのではなくて、現実の孤独や苦しみから逃げたいだけだった。
孤独や苦しみを分かち合う仲間が必要なんだと 思いました。