Addiction Report (アディクションレポート)

「また飲んじゃいました」 東日本大震災で被災したマサヨシ。アルコール依存症で入院するが、再飲酒。酒を断つ意思はあるが…

《このままでは死ぬかもしれないぞ》。東日本大震災で自宅も事業所も津波被災したマサヨシは先輩の家やスナックで酒を飲み続けているうちに、医者にそう言われた。生活再建をする中で、プライベートで問題を抱えて、仕事もなかなかはかどらない。体が悲鳴をあげたたためもあり、医者の勧めで入院をした。退院後、再びお酒に手を出した。マサヨシの身になにがあったのか。

「また飲んじゃいました」 東日本大震災で被災したマサヨシ。アルコール依存症で入院するが、再飲酒。酒を断つ意思はあるが…
被災地の仮設住宅団地。ここにマサヨシは住んでいた(12年9月、撮影:渋井哲也)

公開日:2024/12/15 22:00

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 「また、飲んじゃいましたよ」

 2024年11月、マサヨシ(仮名、40代)から電話があった。2011年3月の東日本大震災で宮城県気仙沼市内の職場と自宅を津波で流された。私は、そのマサヨシと1年後の夏頃、同市内の仮設住宅で知り合った。当時からストレスのある生活が続き、一時はアルコール依存症と言われて入院していたが、その後、再飲酒をしたため、連絡があったのだ。

 震災直後の避難所生活のときは、被災した人たちは避難所では飲めないので、外で飲むスポットを見つけ、飲酒していたという。居酒屋支援を受け入れていた避難所は少なかった。マサヨシはいう。

「(避難所の外で飲んでいたのは)1人、2人じゃないんです。みんなそうしていたんです。実際、やることないですから。飲酒の人気のスポットとかあったんですよね。見晴らしのいいところで、海を見ながら飲んでいましたね。小さな島も見えました。あの頃は、酔っ払い運転しても警察だってそれどころじゃないので捕まらない」

気仙沼市の大谷海岸(23年3月、撮影:渋井哲也)

 マサヨシは震災後、仮設住宅に住み続けた。壁にはダンボールを張り、防音をしていた。

「隣の音が聞こえるんですよ。プライバシーなんてない。たとえば、俺がおならをするじゃないですか?隣に聞こえてしまうんです。おならに反応する娘さんの『やだぁ』という声も聞こえた。そして、親御さんの『こら』と注意する声もしました。『ああ、やべえ、おなら聞こえたなんだ』と思いましたよ」

 《死ぬかもしれないぞ》寝落ちと痙攣を繰り返した結果…

  仮設住宅から徒歩圏内の仮設店舗のスナックでよく飲んだ。復興が進んでいくと、仮設店舗がなくなっていくが、自宅から歩いていける距離に飲食店街があった。現在は借家で一人暮らしをしている。震災から7年が経った頃、マサヨシは医者にこう言われた。

 《死ぬかもしれないぞ》

 「調子が悪く、自分で病院に行ったんです。例えば、スナックとか飲食店に行って、何回か寝落ちして、痙攣したりしていたんです。体の変化もありました。お腹に水が溜まってきたんです。『これはやばい』と思いました。体重も重くなって、もう妊婦のお腹みたいになっていたわけです。最大で8リットル溜まっていました」

  酒量が増え、アルコール依存症になるきかっけはストロング系チューハイをたくさん飲んだことだ。2018年ごろ。先輩から教えられた。仕事関係で知り合ったのだが、その後、亡くなったという話も聞いた。

「しょっちゅう仕事中に、お酒の誘いの連絡があります。そして『折り返し電話すっから、しつこく電話しないで。今仕事しているから』と言って切るんです。仕事が終わると、自宅から先輩が住んでいる岩手県境のほうに車で遊びに行くんです。行くと、あっちも酔っ払っているわけです。俺も、そこでお酒を飲んでいました。泊まったりもしていました。一番甘いやつを飲んでいました。あれ(ストロング系)で体がやられたんです。飲みやすい。あれはやべえっすよ」

気仙沼市の仮設住宅(2012年9月、撮影:渋井哲也)

ストロング系チューハイにはまる

 「先輩の家には、チューハイを買っていくようになったんです。アルコール度数9%の。あれはやばかったんです。夏とかになると、もうがぶ飲みです。つまみも買っていく。最初はお金をもらっていたんですけど、その人は働いていなかったので、だんだんお金を返さなくなりました。けれども、居酒屋での値段を考えればまだ安いと思って…...。今、思い起こすと、それが(アルコール依存症の)入り口でした。オーバードーズじゃないけど、徐々に徐々に深みにハマっていくんです。やばい自覚ありましたよ。先輩の家で飲んでいたので、ブラックアウトして記憶が飛ぶんですが、その日に用意したお酒を全部飲み干しました」

 先輩との「飲み会」は週4日になった。2人で飲んだ量は、ストロング系チューハイ8本。その後、紙パックの芋焼酎(900ml)2本。焼酎はストレートで飲んでいた。

 「津波被災の影響で、先輩は県境の不便なところの仮設住宅で一人暮らしでした。先輩は震災前に母親をなくし、震災後は父親と暮らしていたんですが、父親も亡くし、一人で住んでいたんです。だからおかしくなったのかな、と今では思います。

 よく電話で『来ないのか、来ないのか』と連絡がありましたよ。震災前、先輩は街中に飲みにきていたんですが、飲む店がなくなってしまったんです。最終的には口喧嘩をしてしまって連絡を取らなくなりました。着信拒否をしていたので、もう会いませんでした。あとで聞くと、家で亡くなったと聞きました。要は孤独死ですね。仮設住宅のトイレで亡くなっていたらしい」

 マサヨシも酒量が増えていた。体にも変化があった。

 「この頃は、目覚めたら酒飲んで、飲んで…。寝る時は急に落ちる感じです。それまではベッドとかこたつかで寝ていたんです。寝る時って真っ暗にして寝ようかなってから、30分ぐらいかかって寝ていたんです。でも、この頃は、記憶がない時点で寝ちゃう。仕事なんかできる状態ではないです。だからこの頃は、傷病手当で生活をし、仕事を一切していませんでした」

 仕事をせずに、夜になると、スナックに行く。そこで酒を飲み、失神。支払いはしていたのだろうか。

 「飲み放題の店でした。毎日通っていました。この頃はお酒に弱くなっていたので、600mlくらいは飲んでいました。肝臓のせいでしょうか。もちらん、お金を払っていましたよ。だから一瞬なんですよ、寝落ちは。寝落ちっていうか、痙攣しちゃうんです。自覚症状はないんですけどね。ボックス席で横になりながら、足が震えていたそうなんです。でも、1分か2分ですぐ起きるんです。頭ははっきりしていました。寝落ちしたり、痙攣したりって話は、スナックの人から言われたんです。だから『大丈夫?』と言われました。俺的には『大したことないのに…』と思っていました。感覚的には、貧乏ゆすりのようなものだと思っていました」

 お酒を飲むとすぐに寝てしまう人はいるが、マサヨシは以前からそうだったのだろうか。

 「(それ以前は)そんなことはしなかったです。俺、酒飲むときはしっかりしているんで。背筋もピンと伸ばして酒飲んでいるタイプだったんです。そんなときに、医者に『このままだと死ぬよ』と宣告されたんです。一番ショックでした。はっきり言って、ビビったんです。だから(病気を)治そうと思ったんです。だって、まだ死にたくないって思ったんで…...。急に酒量が増えて、自覚症状があったから僕の場合は助かったんです。言われながらなければまだ飲んでいたし、今頃、死んでいたと思います」

父親が大動脈瘤解離で死亡し、母親とは大喧嘩

 背景としては、復興のための事業が必ずしもうまくいっているとは言えない状況もあった。

 「事務所も家も財産ごと津波に流されました。国からの助成金は、復旧のためにかかる費用が100%出るわけではありません。借金をして、事業を再開するしかなかった。しばらくは調子がよかったですが、災害公営住宅に住んでいた父親が大動脈瘤解離で亡くなった。そのため、事業所の社長になっていました。潰しちゃいけないと思ったんです」 

 事業の復興の途中で、父親が亡くなる。2人で頑張ってきただけにショックは大きい。しかも、母親とは大喧嘩し、行方不明になる。

 「母親とは(22年の)大晦日に喧嘩しました。その後、行方不明になって、連絡が取れなくなったんですよ。電話は切っているし。こっちは不安で仕方がなかったですよ。これまでも、震災後に『死にたい』と思うことは何度もありました。そのたびに踏ん張りました。今回の件も精神をやられました」

 母親は、事務所の現金と通帳を持って、姿を消した。

「警察にも連絡しましたよ。すぐにどこにいるのかはわかりました。しかし、居場所を言いたくないということで、どこにいるか知らされませんでした。ただ、最終的には、事務所にお金と通帳を置いて行きました。たぶん、警察が言ってくれたんだと思いますよ。震災後の仕事がうまくいかず、コロナでさらに商売が難しくなった。家族内のゴタゴタもあり、こんな状況では、死ぬ術もわからないけれど、なんのために生きているのかわからないじゃないですか。心の中では、何度も『死んで楽になりたい』と思いましたよ」

津波に被災した地域(気仙沼市内、撮影:渋井哲也)

 仙台市内の病院に、23年10月から3ヶ月ほど入院した。飲まない日は300日を超えた。

「病院はいくつか行ったんですが、たらい回しでした。はっきり言えば、アルコール性の肝硬変とか肝臓がやられているというのは、医者からすると、優先順位は後なんですよ。だって、本人の問題だから。逃げる人もいるけど、そうなるとめちゃくちゃになっていくわけですよ。自堕落になって復活できなくなっていくと思うんです。

 結局、知り合いを通じて紹介された医者に、『体を治す気あるの?本当に治したいと思わないと、医者も真剣に向き合わないよ、医者だって人間だから、頑張る人には応援したいんだよ。そうなれば、一緒に頑張りましょうってなる』と言われました。まったくその通りだと思いました」

 入院先ではどうだったのか。

 「お酒を断って、規則正しい食生活です。あとはカウンセリングと自助グループでした。自助グループは週1回でした。ダルク(薬物依存症者の回復施設)の人の講演もありました。でも、講演を聞くというスタイルは合わなかったので、5分でベッドに戻りました。自助グループも合わなかった。なんか、(もう酒を飲んでいないという)嘘をついているんじゃないか、って思ってしまいましたし。依存している人は嘘をつきますから。喋っているとなんとなく嘘とわかるんですよ。肌感覚なんですが。

例えば、外出許可されたときに、コンビニに行ったんですが、酒を買っていた人が2人いたんです。『なしにしてもらえないか』と言われたので、『見なかったことですから』と言いました。また、病院ってアルコール消毒液があるじゃないですか。それを吸引するんです。私もやってみましたが、くらっときました。入院するとわかりますよね」   

自転車で怪我をして、再飲酒「今回はしょうがなかった」

 24年8月。再飲酒で石巻市の病院に入院したが、なぜ再飲酒をしたのか。

 「今回はしょうがなかったんです。自転車で自爆して怪我をしたんですよ。指を欠損するかもしれないほどだったんですが、神経を繋ぐ手術をしたんです。以前、飲酒運転で捕まったので免許がないんです。だから、自転車で移動をしていたんです。この怪我をしたときは、仙台の先輩のところまで遊びに行って、バスで気仙沼にもどって、ちょっとだけ飲んで、酔っ払ったんです。そのときに自転車に乗っていて転んだんです。久しぶりに飲んだときでした」

  そのときに自転車で事故を起こした。退院後、初めての再飲酒だった。手術し、帰宅をすると、神経を繋いだ指の痛みを感じていた。

 「事故前は本当に、1年以上、飲んでいなかったんです。メガネを壊していたときでもあって、だから事故を起こしたんです。けがのため、病院で鎮痛剤を出されたんで。けれど、友人に『体に悪いので、睡眠薬と鎮痛剤を飲むな』、『酒を飲んだほうがマシ』と言われていました。だから、痛みを感じたときにだけ、自宅で酒に手を出したんです。国家資格試験の勉強中で、文字を書かないと覚えられないんで、資格の勉強をしながら飲んでいたんです」

 この時飲んだのは、以前よりさらにアルコール度数が高い酒だ。

「6年前にハマったのはチューハイでしたが、ウィスキーのロックを飲んでいました。35度くらいある。だから怖いんです。だんだん、だんだん強くなっていくんです。それが酔わなくなってくるわけです。でも、このまま飲んでいたら、元に戻ってしまうと思って、自分から入院しました。今は、お酒のかわりに、炭酸水を飲むようにしています」

 もうすぐ震災から14年が経つ。街としての復興が進む中で、個人の生活再建の状況はバラバラ。マサヨシは、環境を変えるため、新たな地域に職場を移そうとしている。

 ただ、そこは酒飲みが多い地域だ。酒を断つことはできるのか。また、再飲酒しようとしたときに、弱みを見せて、助けを求めることができるのだろうか。

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