愛情を向けられている記憶がなく、埋められない母親への依存心。心中相手を探す原点とは…恋愛依存のモデル・ゆめじさん(下)
ゆめじが恋愛依存になる一因には家族関係があった。両親が離婚し、母親は主体的には子育てをせず、祖父母が育てていた。父親のことはほとんど記憶がない。唯一ある記憶とはいったい…。
公開日:2024/09/03 22:30
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モデルの仕事をしている、恋愛依存のゆめじさん(37)の出身は九州だ。2歳のときに、両親が離婚し、母親の実家である東北地方で暮らすようになった。母子家庭ではあるものの、それは、母親と一緒に住んでいるとは言えない環境だった。
「キャビンアテンダントをしていたお母さんは飛行機の中で、留学生だったお父さんと知り合って、駆け落ちのように結婚したようです。でも、うまくいかなくてお別れしたんです。理由はわからないのですが、円満離婚ではなかったようです。
実家は2階の戸建ですが、お母さんは2階で一人暮らしのような生活をしていました。私は1階で祖父母に育てられていました。お父さんとは2歳のときに離れましたので、記憶にありません。お母さんが私にリックを背負わせて、逃げてきたようです」
母親は自信がない性格であり、ヒステリックだった
母親はどんな人だったのか。
「自己否定感は強く、ヒステリックです。自分に自信がない反面、何かにハマりやすい。アムウェイにハマっていました。身内からの意見はシャットアウトしていました。自分がいいと思っている人からのアドバイスは聞きます。小学校のとき、ドライブに連れて行ってもらったことがありました。嬉しかったので、『また行こう』と言ったら、『こっちは疲れているんだ』と、ヒステリックに言われたことがありました。あとは、気に入らないことがあると、つねられていました。18歳まではつねられたら、床を引きずられていました」
母親は幼いゆめじを積極的に受け入れ、育てようとしたわけではなかった。そんな母親とどんな関係だったのか。
「私との関係性はひどいです。離婚後、子育ては祖父母に任せて、自分は独身のような生活をしていました。彼氏もいたようです。プロポーズされたのですが、結局、結婚はしていません。結婚が怖かったのかもしれません。とにかく自分のことしか見てない人です。書類上は縁を切れないですが、私は『もう無理です』と言ってあります。ただ、年に1回は荷物が送られて来ます」
ルールも厳しかった。
「髪型制限がありました。髪型はおかっぱで、耳を出してはダメでした。耳を出すと、女っぽくなるからダメと。お母さんの彼氏と仲良くなったときがあったんですが、母親は私を娘ではなく、『女』だと思っていたんじゃないでしょうか。ライバル視されました。だから、中学に入ってからは反動で、髪型をロングにしました」
実家に泥棒に入ったが、それは父親だった
幼い頃、実家に泥棒が入ったときがあった。その泥棒は父親だったというのだ。
「一升瓶で玄関の飾りガラスみたいなところを割って入ってきたようです。『奥に隠れていないさい』と言われたので、おばあちゃんと一緒に隠れました。祖父が対応したようですが、あとでお父さんだったと教えてくれました。私をさらっていったら、お母さんが戻ってくるんじゃないかと思ったようです。記憶にはないのですが、そのことがあって関東のおばさんのところに、お母さんと一緒に逃げました。お父さんの写真は一枚もありません。でも、泥棒のことだけは覚えているんです」
父親のことをしりたくなるきっかけもあった。保育園に行くと、父親に贈るための灰皿を作るという課題があった。小学校のときに母子家庭の子と仲良くなったり、平日には学校の友達と遊んだりしていましたが、日曜日には、友達は家族で出かける。そのため、どうしても、ゆめじさんは取り残されていた。
「お父さんのことを知りたくて、お母さんに聞いたことがあるんです。けれど、『あなたには関係ないでしょ』と言われて、会話を閉められてしまっていました。お母さんがいないときに勝手に家探しをし、母子手帳を見つけたんです。そこでお父さんの名前を知りました。調べて、電話をかけてみようと思って、何回かトライをしたことがありました。でも、怖くて全部を押せなかったんです。どうしてこんなことになっているのかを知りたかったんです。どうして自分は、祖父祖母と過ごしているんだろうと。寂しかったし」
その後、父親のことを自力で調べた。
「弁護士さんに調べてもらったんです。そしたら。戸籍に『死亡』とあり、除籍になっていたんです。私が19歳の時に亡くなっていたようです。そのときはなかなかの衝撃でした。まったく知らない人とはいえ、結構、動揺しました。生きていると思っていたから、びっくりしました。幸せに暮らしていたのかどうかとか、一番気になります。いつか、ゆかりのある住所は尋ねてみたいとは思っています」
甘えに何度もトライするが、母親は受け止めきれない
中学に入ると、恋愛依存の素地のようなものが出来上がっていく。
「基本は親の機嫌を取りたい。機嫌をとると、褒めてもらえます。ときどき、私がどこかのタイミングで甘えるトライをするんです。で、トライするたびに、『気持ち悪い』とか言われて、どんどん壊れていく。そういうことが繰り返しがあったので、どんどん自分の世界を作るようになっていく。文章書いたり、絵を描いたり、音を作ったり…。たしか、中学校のときに、技術家庭という授業で、ラジオを作ったんです。そこで、ラジオの世界に出会って、ずいぶん変わりました。ちょっと楽になりました。『オールナイトニッポン』などの番組を聞いたりして…」
部活にものめり込んだ。
「吹奏楽部で、打楽器をやっていました。辛かったんですけど、吹奏楽部ってハードだってことを知らなかったんです。運動部に来てほしいという勧誘を何回か受けましたが、運動音痴なので、怖すぎて行けませんでした。部活にはだいぶ依存していましたよ。ナルシシズムに浸っていないとやっていられなかったんです。楽器に感情移入して、依存心を高めていた。この頃は、依存対象は人間じゃなかったですね。人間は怖かったんで」
しかし、依存心を母親に向けると、いつも母親からは引かれていた。それを繰り返して来た。
「お母さんには『気持ち悪い』とか言われて。子育てをしっかりしてもらっている記憶がない。愛情をこっちに向けられているという記憶がない。だから、(母親に依存することを)トライしますよね。そこで過剰に甘えてしまうと、お母さんはは受け止め切れない。それはわかるんですが、きつく言われると、残念に思ってしまいます」
幼い頃から、こうした母親への依存心があった。しかし、その依存心を満たすことはできなかった。だからこそ、繰り返し依存することを試みていた。ときには、異性に何度も依存した。その度に失望していた。ゆめじさんの心には、ぽっかり空いた穴があった。その穴を埋めるために、一緒に生きるための相手ではなく、一緒に死ぬための相手、つまりは心中相手を探していた。父親がいないこと、母親に甘えられなかったこと…これがゆめじさんの恋愛依存の原点だった。現在は、恋愛依存的な傾向から抜けている。
「自分で(心理的に)自分を殺している期間が長ったし、一人でいたくなかった。だからこそ、一緒に死ぬための相手が欲しかった。でも、私はどこまで行っても自力で行くしかないんだと思っています。そんなに器用じゃないからうまくいってないけど、トライアンドエラーをずっと繰り返しています。何者かもわからなくて、もがき苦しんでる人たちを、ちょっとでも助けてあげられるような人にならなくてはいけないって思っています」
(終わり)
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