「生きる!」という重責を全うする重度心身障害児と出会って
摂食障害から、一見社会生活に復帰できたようにも見えましたが、実際はそう簡単には症状から脱却できず、その後もいわゆる「スリップ」のようなゆりもどしの経験を繰り返します。誰にも打ち明けることがないまま社会生活をとりつくろっていくのですが、家族を持ち、そして障害のある第三子を出産したことが、やがて大きな意味を持ちます。
公開日:2024/05/15 09:52
入院治療や仲間との関わりにより、一見社会生活に復帰できたように見えた私。しかし、その後もスリップのようなゆりもどしの経験を繰り返す。
家族の存在に大きく支えられ、一人の人間として社会と繋がり直すことで、少しずつ食行動の呪いから自由になっていく。ある時、ふと気がつくと、完全に症状がなくなっていることに気がついた。重度心身障害児である第三子との出会いで、私はどう変わったのか。20年の時を経て、当たり前の感覚を取り戻した経験を振り返る。
(座光寺るい)
隣でおいしくごはんを食べてくれる夫の存在
大学を卒業する半年ほど前、小さな児童書の出版社に内定が決まった。2週間の内定者研修は、自分の企画が評価されてやりがいも感じたし、好きだった本の世界で働けることも楽しかった。ところがたった2週間ながら、私はそのストレスに耐えきれない。結局研修の最後には過食をして家から出られなくなり、内定を辞退せざるを得なかった。
それでもなんとか卒業までこぎつけることができたのは、最後まで励ましてくれた先生方と友人、そしてライブハウスでできた仲間たちのおかげだ。学校に来たり来なかったりの私を教室の皆さんはいつもあたたかく応援してくれたし、ライブハウスでできた仲間たちとは、お互いのアパートを頻繁に行き来する仲になっていた。はなから肩書や学歴など関係がない彼らは、私が息をしているだけで、それをそのまま称えてくれた。
内定は辞退したものの、なんとか食いぶちを確保しなければならないと、卒業間際にみつけた求人に応募し、契約社員で美容部員に。美容部員を選択したのは、まだまだ自分がどう見えているかということに強いこだわりがあったということだと思う。当然のように人一倍美意識の高い集団の中で、私はいとも簡単に押しつぶされ、1ヶ月も経たないうちに出勤できなくなってしまった。結局、再び引きこもり生活をするようになり、逃げるように退職した。
もはや、東京で一人、この崖っぷちのような生活を続けていく意味がない。あらゆるスペースを埋めるように欲求を刺激してくる東京での生活も怖かった。人工的に作られたものではなく、山や土が見たいなあ、と引き寄せられるように故郷の長野に足を運び、そのまま中学時代からの友人と結婚。相手は、それまでも人生の節目節目で私を支えてくれていた人だった。苦しかった時のことはあまり詳しく話さなかったが、なんとなくわかってくれていたと思う。
結婚してしばらくは、何もしなかったし、できなかった。ただひたすら、一日中小さな庭の草取りをしたり、朝早く出勤して夜遅く帰宅する夫の食事を丁寧に丁寧に作ったり、時々隣の家の子どもと遊んだり。そうやって情報の渦から距離を取り、できるだけ土に触れ、山や空を眺める。誰かの言葉ではなく、自分の五感で確かめられるものをベースに生活することを優先した。
夫は「食べる」ということに関してあまりに健全な感覚を持ち合わせていた。私の不安な気持ちなど彼にはまったく関係なかったのだろう。「うるせー!うまいものを一緒に食おうぜー!」というワンピースのルフィのようなテンションで、私は彼の健全な感覚に少しずつ巻き込まれていく。
ボロ雑巾のようだったあの時の私の横で、当たり前のようにおいしくごはんを食べてくれた夫には、感謝しかない。
子育てで再び顔を出した劣等感
ありがたいことに、すぐに子どもに恵まれた。嬉しい気持ちの反面、不安でいっぱいだった。自分のこともコントロールできないまま、私は子どもを育てられるのだろうか。夫の前では言えなかったけれど、毎晩のように風呂に入りながらお腹に向かって謝り、泣いた。「こんなお母さんでごめんね」
生まれた子どもにとって私は、なくてはならない存在だった。不安を吹き飛ばすほどの愛おしさもあった。生まれて初めて、自分が守らなければならない存在ができたことで、私は少し強くなれたような気がした。
同時に、想像したことがなかった育児の大変さも痛感した。特別な存在でありながら、待ったが効かない生モノの生命を預かっている重大な責任感。夫は忙しく、初めての子育てを巡って喧嘩もした。大学の友人が皆社会で活躍している中で、自分だけ子育てに悪戦苦闘していることに、惨めさも感じた。
次第に孤独感が募り、再び過食衝動に襲われる。子どもが眠った隙をみて、眠っている子どもを置いて自転車で最寄りのコンビニに急いだことも、一度や二度ではない。今考えても、よく眠る子で本当に良かった。もしあの時、置いていかれた子どもが目を覚まし、危険な目に遭っていたら…考えただけでゾッとする(お子よすまぬ、元気に育ってくれて本当ありがとう!)。
子どもが成長するにつれ、「おなかがすいた」とご飯をせがみ、「もうおなかいっぱい」と言って食べることをやめる姿に、つくづく感心した。私にはできないことだったからだ。幼い頃は、私にも自然とできていたはずなのに…。本能的な感覚をもった子どもが羨ましかった。
社会とつながり直し、フラットな関係性を作り出す
本能的な子どもたちと、子どもに負けず劣らず自由に生きる夫に私は少しずつ鍛えられていったが、子育てを通じての孤独感や劣等感はなかなかぬぐえなかった。
周囲の人たちからは、子どもを育てることは大事な仕事だよ、と励まされた。もちろん、頭では理解している。でも、報酬が得られるわけでもなければ、誰かに労われるような類のものでもない。大学時代の友人の活躍や、社会で評価される夫が眩しくて羨ましかった。
それまでの私だったら、食行動に依存することで解決をはかっていたかもしれない。でも、自由に生きる子どもや夫と時間をともにしたことにより、その時、それまでと違う方法で解決してみようと考えることができた。
「子連れで身動きがとれないなら、自分の周りに知的な刺激を呼んでしまえ!」米国発祥のプレゼンイベントTEDの各地版(TEDx:テデックス)を実施しようと思い立ち、米国本部に申請、許可を経て活動を始めた。活動を通じて、地域にさまざまな仲間ができたし、母親でも妻でもなく、一人の人間として社会とつながる感覚を持てた。イベントやコミュニテイの運営は簡単ではなかったけれど、社会とつながっている実感が持てるようになるにつれ、衝動的な異常行動はなくなっていった。
自分がかつて救われたライブハウスの仲間のように、肩書や立場を超えてフラットなコミュニティができることを目指し、私は奮闘した。
こうして、逃げるように結婚した夫婦の関係は、私が自力で社会の中につながりを作り始めたことをきっかけに変化し、ぶつかりながらも次第に形を変えていった。私はただ守られるべき存在から、対等に生きる同志へと変化した(と思っている)。
「生きる!」という重責をまっとうする重度心身障害児の第三子
最も大きく私を変えたのは、重度心身障害児として生まれた第三子の存在だ。出産前から発育が不十分だったため、妊娠9ヶ月のときに入院し、そのまま病院で出産。出産後の検査で分かったのは、胎内で同時多発的に脳梗塞が起きていたこととそれに伴う脳の萎縮や諸々の異常。そして一日100回にも及ぶ頻回なてんかん発作だった。運動機能の発達は見込めず、手術不能な白内障により、視力は光を感じる程度。
ありとあらゆる問題を抱えて生まれてきて、それでも穏やかな表情で息を吸い、必死におっぱいに食らいつく姿を見た時、自分がこれまで寄せてきたすべての関心事があまりにも小さなことに思えた。「生きる!」という重責をまっとうしている彼女を見ていると、それ以上に大切なことは何もないような気がしたのだ。
出産した直後の日記に私は「第三子は富士山のようだ。」と記している。「小さな身体でたくさんのトラブルを引き受け、甘いお乳の香りを漂わせながら健やかに眠り生きる彼女の堂々たるや」(当時の日記より)
第三子は成長してもできることが少なかった。自分の意志で体を動かすことがほとんどできず、。9歳になった今も、食事はペースト状のものを介助してもらわなければ摂食できないし、言葉は喋れない。
それでも、生まれた瞬間から「生きる!」という強い意思で様々な困難をはねのけて生きてきた彼女が家族の中にいることには、とても大きな意味がある。
私をぐるぐるに縛り付けていた食行動の呪いは、様々な転機を経て、徐々に緩んでいった。第三子の出産で、それがはらりと完全にほどけたような感覚になった。私だけではない。成長至上主義の教育に疲れ、一時期不登校気味になった長男は、静かに毎日生をまっとうする第三子の存在に救われていたと思う(もちろん、大変なこともあるけれども!)。
第三子は、言葉を話せないながら「いるだけでいいんだよ」とその全存在で語りかけてくれているように感じた。
彼女を産んでしばらくすると、私はいわゆるスリップのような異常な食行動をすることが全くなくなった。意識したわけではなく、気がついたらなくなっていたのだ。中学生で発症してから約20年が経っていた。
自分が感じていることを、素直に受け止める
今私は、当たり前のようにお腹がすいたらご飯を食べるし、お腹がいっぱいになったら箸を置く。おいしいものを食べると幸せを感じるし、家族や友人と一緒に楽しく食卓を囲みたい、と思う。20年前には想像もできなかった”あたりまえ”の感覚だ。
私は決して特別に過酷な幼少期を過ごしたわけではなく、ごく普通の中学生だったし、むしろ恵まれた環境で育った。過酷な環境が病気を引き起こすこともあれば、それをきっかけに人生を切り開く人もいるように、なんてことのないことが、なんてことのない場合もあれば、大きな歪みを生み出すこともある。
私の場合は、社会の空気感や時代の風潮、自分が置かれた環境や受け取った言葉、自分自身の心のコンディションなどが、歯車のように合致したことで、摂食障害という病気になったと今は考えている。
先日、日本好きなカナダ人の友人と話をしていたら、「日本の社会は女性を幼く見せることが女性の魅力だというメッセージが過激だ」という話になった。もちろん欧米にも摂食障害という病気は存在するが、もしかしたら日本の場合は、女性の歴史的立場や、それが形成した女性観も影響しているのかもしれない。
食行動に支配された生活は、とてもつらかった。病気にならなければ、もっと自分以外の何かのために勉強することができたかもしれないし、他の人と同じように社会生活をスタートできたかもしれない。今頃何かしらのキャリアを築き、憧れの仕事についていた人生もあったかもしれない。
でも同時に、弱い自分を知ったからこそ、弱さを知ったという強みを持つことができたとも思う。そして、第三子の生きる迫力を感じることもできた。
今心がけているのは、自分が感じていることを、素直に受け止めること。
さみしいときは、「さみしいなあ」嬉しいときは「嬉しいなあ」。マイナスの感情をなかったことにしようとするのではなく、プラスの感情を捻じ曲げるのでもなく、マイナスな感情もプラスな感情も、ちゃんとそのまま受け止める。
他人の目でも他人の言葉でもなく、自分自身の感覚に従うことは、自分を甘やかすことではない。むしろ自分を大切にするということなんじゃないかな。たぶん。
第三子は、目が見えず、思い通りに体を動かせない人生を生きている。彼女の世界が一体どんなもので、彼女は何をどう感じ、どうやって表現するのか。それを想像することは、私自身の感覚を一つ一つ丁寧に捉え直す作業でもある。そうやって、彼女を通じて私は世界ともう一度出会い直し、そのことが、私自身を救ってくれている。
今、当たり前の感覚がわからなくなっている人は、お腹が空いたら「おなかがすいた」と思い、おいしかったら「おいしいなあ」と感じることを、どうか”許して”あげてほしい。そして、自分が何を感じているのか、もう一度丁寧にたどってみて欲しい。
自分が生きた道のりを肯定した先に、自分だけの道が拓ける。
私の薄暗い物語は、愛おしい自分の軌跡だ。
“I'm just me and I love it.” (西加奈子)
(終わり)
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【座光寺るいさんの摂食障害体験記】
コメント
座光寺さん、記事を書いていただきありがとうございました。たくさんの暖かいお言葉、心の中のお守りになりました。
私は夫のギャンブル依存症の問題から家族の自助グループに繋がり、そこから自分自身の内向的な問題に向き合うことを続けています。
今は少しでも“傷ついた”と感じたら、軽視せず、蓋をせず、口に出すことに取り組んでいます。
「自分が何を感じているのか、もう一度丁寧にたどってみて欲しい」
まさに、今の私が大事にしていることだなと思い、このタイミングで記事に出会えたこと心から感謝します。
第3子が全存在で語りかけていると感じながら自分の感覚を捉え直し、世界ともう一度出会い直すことで救われたと語る、座光寺さんがとても素晴らしく崇高だと思います。乳幼児と関わる機会の多い私の指針にしたい言葉の数々。自分の感じていることを素直に受け止めることや感覚に従うことの大切さを教えて頂きました。
「弱い自分を知ったからこそ、弱さを知ったという強みを持つことができた」
このるいさんのコメントに共感!
私自身、15年くらい前に初めて過呼吸を経験。自分では意識していなかったストレスや不安が体に現れたと振り返る。そして、この経験は現在、私の強みになっている。
座光寺さんの、“あたりまえ”の感覚を取り戻すまでの体験記、読めてよかったです。
私には虐待加害者の兄がおり、内弁慶・行動しないのに高望みする・指摘や拒絶の言葉が全く響かない、スリーカードの人でした。
「自分は兄のようにはならない」という決意は、「自分を律して生きなければ兄と同類になる、そんなことになれば兄に立ち向かえない」という逼迫感へと、すぐに変わっていきました。
結果私は、人の手を借りたくなったり手を抜こうとする自分を許せなくなりました。
「あんな奴と同じ部分が自分の“内側”にある」と実感する瞬間、自分が内臓から菌に侵され壊死するような感覚に襲われました。
その後うつで動けず仕事も家事もできない身体になり、ますます追い詰められていきました。
ようやく私が回復の糸口に辿り着いたのは、夫が依存症になった後でした。
今の私は、座光寺さんの経験でいうと治療に取り掛かった時期かなと思います。
これからは、座光寺さんが歩んだ旅路のように、私も呪いから解放される道を進んでいきたいです。
もう、座光寺さんの言葉が私の心に響きすぎて・・・
いつもながらとてもいい内容でした。
私は長女の薬物依存症の問題に出会って、自分を見つめ直し、世界がどうなっているのか捉え直しています。
こんな素晴らしい記事に出会えたのもまた、私の心の宝物です。
すごい連載だった。
2回目までは呼吸をするのも忘れ、歯を食いしばるように読んだ。
最終回もまた力のこもった回だった。
お子さんたちの写真の美しいこと。
心にしまって時々取り出し、繰り返し眺めたい言葉が次々と現れる。
「自分が生きた道のりを肯定した先に、自分だけの道が拓ける。」
座光寺さんの物語に触れたことは、私のターニングポイントになるような気がする。
優しくて温かい涙が読み進めていく中で流れました。
キャリアや社会的地位、年収などついわかりやすい物差しで自分と他人を比較して自分を苦しめてしまいますが、自分の過去も感じ方も肯定してあげたいと思いました。
「感じることを、どうか”許して”あげてほしい。そして、自分が何を感じているのか、もう一度丁寧にたどってみて欲しい。
自分が生きた道のりを肯定した先に、自分だけの道が拓ける。」
私も西加奈子さんの作品が大好きで、共通点を感じ嬉しかったです。また座光寺さんの文章を読みたいです。