なぜ「覚醒剤の使用」は犯罪なのか――かつて薬物が“節度の問題”とされた時代
「覚醒剤」という単語には、常に「犯罪」のイメージがつきまとう。いわゆるアングラ系の話題として消費されることはあっても、なぜ使用そのものが犯罪とされているのか、その成り立ちが問われる機会は少ない。
しかし歴史を振り返ると、覚醒剤が現在のように犯罪化された過程は、決して一直線ではなかった。取締りの理屈をたどると、そこには使用者の更生や回復をめぐる「空白の議論」が見えてくる。

公開日:2026/05/11 02:00
本稿では、明治大学政治経済学部教授の西川伸一さんに話を聞き、「覚醒剤取締法」がどのように生まれ、現代の薬物観につながっているのかを見ていく。
(取材・文:遠山怜)
覚醒剤は「最初から犯罪」だったのか
ーー芸能人の薬物事件が報じられるたびに、「早く逮捕しろ」「厳しく罰するべきだ」という声が上がります。今では「使った人を罰する」ことが当然のように受け止められていますが、昔からそうだったのでしょうか。
西川:少なくとも、日本において「薬物は重大な犯罪である」という見方は、絶対的なものではなかったようです。特に、覚醒剤は今では使用・所持を含め厳重に処罰されますが、戦時中から戦後の一時期は誰でも気軽に使うことができたのです。
覚醒剤は1951年成立の「覚せい剤取締法」(当時の法令表記。現在は一般に「覚醒剤取締法」と表記される)によって製造・所持・使用が禁止とされ、その後、二度の法改正により罰則が強化されます。
しかし、その政策過程では、覚醒剤を禁止するかどうかについて、政治の側でも意見が割れていたのです。

当時の取締りをめぐる政策議論を紐解くと、決して今のような「薬物=犯罪」といった一枚岩の理解ではなかったことがわかります。加えて、政治の側の思惑を知ることで、日本の「薬物依存に関する更生観」がどのように生まれ、現在の流れに至ったのかが見えてきます。

ーーつまり、覚醒剤は最初から「使った人を罰する薬物」だったわけではない。そもそも、日本で覚醒剤はどういった経緯で使われるようになったのでしょうか。
西川:1941年、覚醒作用を効能とする医薬品「除倦覚醒剤ヒロポン」が発売されたのが事のはじまりです。ヒロポンは、集中力を上げ疲労を回復させる効果があり、太平洋戦争中は軍需品として現場で重用されていました。法務省による昭和35年版『犯罪白書』によると、軍隊の兵士や勤労動員された学生の気付け薬として、「前線では強制的に使用されていた」とされています。
その後、1945年に日本が終戦を迎えると、軍の買上げという大口顧客を失った製薬会社は、在庫分を市販薬として一般市場に売りに出しました。
判断力を高め、作業効率を上げると銘打った商品はたちまち人気になり、他の製薬会社もこぞって覚醒剤原料を使った製品の販売に乗り出しました。当時は、栄養ドリンクのような感覚で、近所の薬局でも気軽に入手できたようです。
使用者は、作家や芸能関係者、夜間の工場勤務員、学生、接客業の従業員など幅広い層に及んでいたようです。
覚醒剤は“日常の薬”だった
ーー「栄養ドリンク感覚」というのは、驚きです。そうだとすると、「使った人をどう扱うか」という発想自体も、今とは違っていたのでしょうか。
西川:はい。おそらくは、「成人が適切に使う分には問題ない」という認識だったと思います。もっとも、それは世論の声に限ったことではなく、政治側の認識もそうでした。
覚醒剤が一般市場に出回ってすぐ、1946年頃には国内ではじめて中毒例が報告されます。しかし、症例報告により、その後遺症の一端が明らかになっても、即規制にはなりませんでした。
それというのも、この時期、日本は隣国で勃発した朝鮮戦争による特需に沸いていました。国内の工場は労働力強化に覚醒剤を用いて、なんとか間に合わせている実態があった。覚醒剤は、「便利な薬」でもあったため、当初は被害事例が出ても、そこまで深刻に受け取られていなかったようです。
ーーそれはつまり、健康被害はあっても、かなり“稀なこと”だと考えられていたのでしょうか。
西川:今では信じられませんが、当時はタバコに近い感覚だったのだと思います。製薬会社も、のちに『タバコと同様に習慣性がある程度にしか考えていなかった』という趣旨の発言をしていることがわかっています。
依存は“未熟な若者ゆえの問題”だった
ーー当初は「使い方に気をつければ問題ない」という認識だった。それが、どういった経緯で問題視されるようになったのでしょうか。
西川:ひとつには、覚醒剤を使用した青少年による犯罪が急増したことです。当時の新聞は、「青少年犯罪の背景に覚醒剤あり」として、大々的に報じました。当時、受験時の眠気覚ましとして使っている学生が大勢いたようです。流通価格も酒と比べてずっと安かったことから、手が出しやすかったのでしょう。
使用中に錯乱を起こし、第三者に暴力を振るったり、薬を買う金欲しさの犯行が起きたりすると、国会もこれを問題視しはじめます。
ここではじめて、覚醒剤の規制論が浮上するわけですが、その議論の核心は「青少年に使わせると歯止めがきかないから危ない」というものでした。ここでも、覚醒剤そのものが危険というより、「青少年は分別がつかないので使わせないように」、という認識だったようです。
当時の新聞報道にも、そうした見方は表れています。たとえば、1950年12月8日の読売新聞では、「薬の活用は文化を高める。薬が悪いからこれを禁止しようという精神は、近代科学に目をそむける未開人の意識であり、科学に対する野蛮な鎖国である」として、覚醒剤の全面的製造禁止に反対しています。
このように、適切に使えば問題ないという見方もまだ根強かったものと思われます。
ーー「薬に罪はない」という考えは、今から見てもかなり先進的な思想にも聞こえます。そうなると、乱用が問題化したとき、すぐに「処罰」に向かったのでしょうか。
西川:じつは、当初、厚生省が主体となって乱用目的の使用に歯止めをかけようとしていました。
覚醒剤は、製薬会社から医薬品として販売されていましたから、その品質管理は現在の薬機法にあたる、当時の薬事法制によって定められています。ですから、まずは薬事法制を管轄する厚生省が主導する形で、生産体制に制限をかけました。
何度かの法改正により、製薬会社の製造・販売量を抑え、医療目的以外の使用を禁じるなどの対策が講じられています。
しかし、覚醒剤は製薬会社にとって、あれば売れる主力商品でした。行政主導で薬事法を改正し、厳しい制約を設けても製薬会社の不正は後を絶ちませんでした。ついに1950年には、厚生省は製造業者に製造の全面中止勧告を出しましたが、それでも事態は一向に改善されませんでした。
失敗した覚醒剤と社会の“共存“
ーー口では「青少年は歯止めが効かないからダメ」と言う一方で、売る側の大人もタガが外れているようですが…。
西川:覚醒剤が医薬品として売られていたことも、事態の拡大に影響していると思います。薬事法は、本来、医薬品の品質を管理する法律ですから、乱用の抑制という面では限界があります。また、違反時には行政から指導が入る程度で、そこまで強い強制力はありません。
加えて、製薬会社の製造規定が厳しくなる一方で、今度は正規の製造業者の手によらない密造品が出回るようになる。最初は国も、既存法を改正することで様子を見ていましたが、いよいよ既存の法律では抑えきれないと焦り始めた。
トドメとなったのは、埼玉県で起きた集団暴行事件です。1949年頃、覚醒剤を使用した百数十名の青年が集団で性的暴行に及ぶ事件が起きました。事件は、新聞でも大きく取り上げられ、覚醒剤に対する世論の目は、より一層厳しいものになっていきました。
製造元の管理も難しく、凶悪犯罪を誘発するとなれば、「処罰」の方向に振らざるを得ません。こうして、世論に押される形で、覚醒剤を新たに規制する法案が議員立法として提出されました。
ーー当初は「売る側」を規制したが、それでは抑えきれなかった。そこで新たに法律を作る必要が出てきたわけですが、なぜそこで「使用」や「所持」まで処罰対象にしたのでしょうか。
西川:覚醒剤の拡大を止めるには、その大元である製造と流通を抑える必要があります。
しかし、違法な製造元を摘発する上で、ある問題が生じます。仮に、製造現場を突き止めたところで、「これはここで製造したものではなく、個人使用品だ」と業者が言い逃れる可能性がある。製造・流通を取り締まる上で、併せて使用や所持も包括的に規制する法律がないと、逮捕することができない。
しかし、薬事法制の中で、覚醒剤にだけ「使用・所持禁止」の規定を盛り込むわけにはいきません。薬事法は、本来、医薬品全体の安全性を管理する法律ですから、ヘタに特例事項を設けると、他の医薬品の使用・所持にも影響する恐れがある。
それであれば、覚醒剤に特化した新しい法律を作った方が合理的だ、という話になったのです。
なぜ「使うこと」まで罪になったのか
ーーつまり、覚醒剤取締法は流通を止めるための仕組みとして作られた。しかしそうなると、「作る」「売る」側を規制する上で、「使う」側も処罰されることになりますよね。
西川:はい。当時の立法化の主眼は、個人使用を道徳的に裁くことよりも、まずは流通を止めることにありました。個人に使わせないためには、まずは流通を抑えなければならない、という発想です。とにかく、取締りを強化すれば、個人使用もなくなるだろうという目論見だったのかもしれません。
ーーですが、戦中・戦後には、本人の意思とは別に覚醒剤を使わされた人もいたはずです。さらに戦後には、歓楽街や職場、学生生活の中にも広がっていた。そうした人も含めて「使った人」として処罰することに、異論はなかったのでしょうか。
西川:そうですね。時代背景を考えれば、意図せず使用され、健康被害を負ったり、依存症になったりした人は相当数いたはずです。
ですが、当時の政策議論を見る限り、そうした「強制使用」による被害救済という意見は、ほとんど出ていません。じつは、法案を実質的にまとめる際の会議録は残されていないため、誰がどの観点を持って現行案としてまとめたのか、検証することができなくなっています。
強いて言えば、その前段とも言える全体会議では、藤原道子という議員が朝鮮戦争の特需対応として覚醒剤が使われていることを問題視しています。もっとも、彼女の理屈は製造を全面的に中止することで「青少年中毒者」や「労働者への使用」を防止しようというものでした。
また、福田昌子議員は、青少年犯罪の背景にある環境を是正し、「覚醒剤の中毒者に対して保護的な措置をお考えいただきたい」とも発言しています。ですが、これに対しては正式な応答はありませんでした。
ーーつまりこの時点では、「使った人をどう回復させるか」よりも、「どうやって使わせないか」が優先されていた、ということですね。
西川:はい。当時、国民の関心は「使用禁止」に寄せられていました。国会議員は有権者を抱えており、世相が悪いときには「全部禁止だ」と大きく言うのがいちばん通りやすいのです。
こうして、波乱含みのまま、1951年には覚せい剤取締法が成立しました。制定時に、唯一、研究・医療目的の利用に限っては、緩和措置が設けられました。当時の議員の中には、「研究目的も含め全面禁止」を求める声もありましたから、現行法にも、若干の譲歩はあったと思います。
ですが、みなさんご存知の通り、それはこの薬物禍の終わりではなく、はじまりでもありました。
覚醒剤は、はじめから「犯罪」だったわけではない。便利な薬として広がり、節度の問題として扱われ、やがて社会秩序を脅かすものとして犯罪化された。では、犯罪にすれば使用は止まったのか。次回は、1954年・55年の法改正を見ていく。
