「死ぬほどやめたいのにやめられないのが依存症」薬物依存の次は買い物依存になった母
薬物依存から回復するきざしが見えたと思いきや、今度は買い物依存が始まった母親。おおたわ史絵さんは母親と距離を置く決意をしますが、予期せぬ形で別れがやってきます。
公開日:2024/10/30 02:00
オピオイド依存症から回復したと思ったら、買い物依存が始まったーー。
父親が亡くなったあと、依存症の母親はおおたわさんに執着するようになった。「このまま一緒にいたら殴ってしまうかもしれない」。そう思ったおおたわさんは、母から離れる決断をする。当時を振り返り何を思うのか、お話を伺った。(ライター・白石果林)
オピオイドが手に入らなくなり、買い物依存へ
ーー2週間の入院後、医療用麻薬「オピオイド鎮痛薬」の仕入れを止めたそうですね。
竹村先生から、父と私は「イネイブラー」、つまり依存を助長させる存在だと指摘されました。薬をやめてほしいと思いながらも、やむを得ず薬を渡したり、オピオイドを手の届く場所に置いたりしていたからです。
父の病院にオピオイドを必要とする患者がいたため、仕入れを止めることができなかったのですが、父も私も決意を固めました。オピオイドが必要な患者さんには紹介状を書いて知り合いの医師のもとへ転院してもらい、仕入れを止め、母が物理的にオピオイドを使用できないようにしたんです。
薬が手に入らなくなったことを知った母は、父に揺さぶりをかけてきました。ある時は「お腹が痛いよ……」と苦しそうに訴えたり、またある時は「薬はどこだ!」と暴力を振るったり。私はすでに結婚して家を出ていたので、父はひとりでつらかったと思います。私は毎日父に連絡をして、「彼女は病気だから、どんな言葉にも傷つかないで」「何をされても揺るがないでね」と伝え続けました。
薬が手に入らないとわかった母は、市販の鎮痛剤を飲んだり、病院を何件も渡り歩いたりしていたようです。でも当然ながら、オピオイドを処方してくれる病院は一件もありませんでした。
ーー薬が手に入らないとわかったあと、お母様はどうされたのでしょう。
約半年が経ち、もうオピオイドが手に入らないと悟ると、母は買い物依存症になりました。片手にはテレビのリモコン、もう片方の手には電話の受話器を持ち、テレビショッピングに没頭するようになったんです。
毎日いくつものダンボールが届き、部屋中があっという間に荷物であふれかえりました。母は商品自体には興味がなく、何を買ったのかも覚えていません。箱を開けることすらせず、ダンボールが山積みになっていきました。
この頃、父が病気で亡くなりました。大好きだった父の部屋だけはそのままにしておきたかったのに、母は父の部屋まで荷物で占領した。「この人はもう、愛の意味すらわからないんだ」と、嫌悪感が募る一方でした。
竹村先生に相談すると、「自分のお金で買い物しているうちは放っておきましょう」とアドバイスされました。幸い借金などはなかったものの、母の買い物依存は7年ほど続きましたね。
ーーおおたわさんはお母様とどのように関わっていたのでしょうか。
母とは距離を置くようになりました。父が亡くなったあと、母は私に執着するようになったんです。昼夜を問わず何度も連絡をしてきたり、親戚中に私の悪口を触れ回ったり。
そんなことが続くうちに私は「いつか母のことを殴ってしまうかもしれない」と怖くなった。だから母から離れることにしました。
寝室で倒れていた母に、心臓マッサージ
ーー距離を置いていたお母様の異変に気づいたきっかけは、なんだったのでしょう。
当時私は、父がやっていた自宅の診療所で働いていました。同じ敷地内なので実家に荷物が届くとわかるのですが、10日ほど何も届かない日が続きました。
不審に思い久々に実家に帰ると、母が寝室で倒れているのを見つけたんです。あれだけ「はやく死んでほしい」と考えていたのに、母を見た瞬間、私は心臓マッサージをしていました。
私が医者だったからなのか、それとも助かってほしかったのか、今となってはわかりません。でも母の依存症は回復に向かうどころかなにひとつ解決してなかったので、このまま終わってはいけないような気がしたんです。
すでに心臓は止まっていて、心臓マッサージをしても無駄だということはすぐにわかりました。母は76歳で亡くなりました。
ーー今振り返って、お母様と距離をとったことに後悔はありますか?
たくさん戦って、離れるしかないと判断したので後悔はありません。あのまま母のそばにいたら、私は彼女に手をあげていたかもしれない。自分の中にも依存気質のようなものはおそらくあって、暴力依存になっていた可能性もあるし、最悪の場合、母を殺していたかもしれません。
依存症当事者と距離を置いた家族は、「自分は逃げたんだ」と罪悪感を抱きがちです。でも逃げることは一つの選択肢。自分の幸せを考えることが大切だと思います。
以前、あるドクターから「母親にとって娘は最大の愛情の対象。その娘を傷つけていることを本人は理解していて、針のむしろのような思いで暮らしていたはずだよ」と言われたことがあります。母は私の顔を見るたびに「お前なんか死ね!」「とっとと帰れ!」と言っていたけれど、それは私と一緒にいるのが苦しかったからなんだと思いました。
母が亡くなってから、ようやく母の苦しみにも目を向けられるようになった。死ぬほどやめたいのに、それでもやめられないのが依存症なんですよね。
母が亡くなって、生きづらさから解放された
ーー依存症の親がいる子どもは「生きづらさ」で悩むケースが多いようですが、おおたわさんはいかがですか?
私は幼い頃から自己評価が低く、ずっと孤独や生きづらさを感じていました。大人になってからも、人の顔色を伺っていると指摘されたことがあります。
でも今は、そうした生きづらさから解放されています。最大の理由は、母が亡くなったこと。父も亡くなり、私のドラマに登場した人たちがみんないなくなって、エンドロールが流れたような感覚です。私はもう、何十年も囚われていたあのドラマから抜け出して、今を生きているのだと思います。
もう一つは、27歳で結婚した夫の存在です。依存症とは無縁の彼が、私を一般社会につなぎ止めてくれた。彼との時間は、依存症問題から離れられる唯一の時間でした。
ーーパートナーに、お母様のことを相談されていましたか?
私はとにかく夫を巻き込まないようにしていて、母のことは詳しく話さなかったんです。そもそも、家族以外の人が依存症問題を理解するのは難しいですから。
もし夫が「自分が助けてあげなきゃ」と感じて我が家の問題に巻き込まれていたら、私たち夫婦の関係性は崩れていたかもしれません。夫に気づかれないようにベランダでひとり涙を流すことは何度もありましたが、彼が一切介入してこなかったことが私にとって最大の救いでした。
依存症家族も、自分の人生を生きていかなければなりません。私は、「医者になる」「仕事に励む」「本を出す」「メディアで発信する」など、自分ができることを積み重ねて、強烈な自己肯定感の低さを何十年もかけて埋めてきました。
幸せだと思えるようになった今、ようやく頑張ってきた甲斐があったなと思えています。
(終わり)
【おおたわ史絵】総合内科専門医 法務省矯正局医師
内科医師の難関 総合内科専門医の資格を持ち、多くの患者の診療にあたる。近年では、少年院、刑務所受刑者たちの診療にも携わる数少ない日本のプリズンドクターである。テレビ出演や講演活動も行う。近著に薬物依存で亡くした母との経験を語る「母を捨てるということ」(朝日新聞出版)、塀の中の診察室での奮闘の日々を描いた「プリズン・ドクター」(新潮社)がある。