寂しさに耐えきれず、アルコールにおぼれた 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(上)
10代半ばから醜形恐怖症や対人恐怖症を抱えていたという月乃光司さん(59)。大学を中退し、漫画家として歩み始めた20代前半のとき、あることがきっかけでアルコール依存症に陥ることになります。
公開日:2024/02/21 02:00
昨年のクリスマスイブ。アルコール依存症や摂食障害、強迫神経症など、様々な生きづらさを抱える人たちが集うイベント「こわれ者の祭典」が新潟市で開かれた。代表の月乃光司さん(59)=同市在住=が舞台から、開会を宣言する「お約束」のかけ声を発した。
「病気だョ!」
舞台と観客席の全員が、こぶしを突き上げて応えた。
「全員集合~!」
月乃さんは20代のとき、アルコール依存症で精神科病院に3回入院した。自殺未遂も繰り返した。
生きづらさを感じ始めたのは、中学時代までさかのぼる。【朝日新聞記者・茂木克信】
「自分の顔は醜い…」 視線が怖くて孤立
3人きょうだいの末っ子。子どもの頃はひょうきん者で、女子にも「かわいい」と人気があった。自分でもかわい子ぶっていた。
中学生になって大人の顔に変わり出すと、急に周りの目が気になり出した。学校に行くと、どうしても唇をなめたくなる。やめようと思えば思うほどに。唇はなめすぎて、赤く腫れぼったくなった。
「タラコ唇!」。3年生になると、同級生らにからかわれるようになった。女子の視線も怖くなった。それでも何とか登校を続けた。
高校に入るとすぐ、自分の顔は醜くて他人が不快に思っているという妄想が出てきた。学校では唇を見られないようにすぼめ、休み時間は机に突っ伏してずっと寝たふりをしていた。昼休みは図書館に逃げた。
だれとも口をきかないので友だちができない。やがて不登校になった。成績は学年下位に沈んだ。大学受験に失敗し、親に予備校に入れられた。
教室は浪人生でいっぱいだった。隣の人の視線が気になって席についていられない。朝、教室に行くだけ行ってタイムカードを押すと、ゲームセンターやパチンコ店で過ごした。
社会人として活躍するイメージが浮かばなかった。話し相手がおらず、「世の中を壊したい」「みんな死ね」と反社会的な妄想ばかり膨らませた。
唯一の生きがいは、趣味の漫画を描くことだった。からかいや皮肉交じりのイラストを男性週刊誌の読者コーナーに投稿すると、よく採用された。自分が描いたものが誌面を飾るのがうれしかった。他人に認められたという感覚が、やみつきにさせた。
酒と処方薬に頼り、漫画家の道へ
勉強には身が入らなかったが、何とか一浪で埼玉県内の私立大学に合格。新潟市内の実家を出て、大学近くの木造アパートで一人暮らしを始めた。
大学では社交的になろうと、漫画サークルに入った。人と話そうとした。でも、「変な顔と思われているじゃないか」という不安に駆られ、顔と体が硬直した。サークルやクラスのコンパでも浮き、すぐに大学から足が遠のいた。
それからは6畳一間に引きこもった。実家からの仕送りは酒代に消えた。浪人時代に飲み始めた缶ビールに加え、安いウイスキーもレパートリーに加わった。昼夜が逆転した生活で、畳の上は布団が敷きっぱなし。掃除をしないので足の踏み場のないゴミ屋敷と化した。
かろうじて漫画が社会とのつながりを保った。イラストを投稿していた男性週刊誌の編集部から連絡がきて、漫画の連載を任されるようになった。
同じ頃、スポーツ新聞で醜形恐怖症に関する記事を読んだ。自分に当てはまると思い、記事を頼りに大学病院の精神科に行った。処方薬を飲んでいたら、容姿が醜いという妄想が消えた。他人の視線への恐怖も和らいだ。
酒を飲んで勢いをつければ、出版社の編集部に漫画を売り込みに行けるようになった。連載を何本か持たせてもらい、大学2年目には収入が月10万円を超えるようになった。一方で、酒と処方薬が手放せなくなった。
そうした中、大学から実家に連絡が行き、授業に出ていないことがばれた。
「漫画家になりたい」。浪人時代から漠然と抱いていた思いを親に打ち明けた。反対はされなかった。大学を2年で中退した。東京のアパートに引っ越し、漫画家の道を歩み出した。21歳だった。
募る寂しさ、深まる依存
間もなく、漫画の仕事を通じて初めての彼女ができた。彼女も生きづらさを抱えていた。理解し合えるような気がして、一緒に暮らすようになった。実家の親にも紹介し、結婚を夢みるまでになった。
だが、幸せは続かなかった。1年半ほどして彼女の親が同居に気づき、別居させられた。やがて彼女から別れを告げられた。
心に大きな穴が開いた。唯一の理解者を失った寂しさに耐えられず、朝から夜まで酒を飲むようになった。一人きりなので止めてくれる人はいない。酒量はどんどん増えた。
24歳の頃には、アルコールが切れると手が震えるようになった。寂しくて、生きているのがしんどかった。
「違法薬物が目の前にあったら、間違いなく使っていた。手を出さなかったのは、人間関係が希薄でたまたま手に入らなかったからにすぎない」
当時の自分を考えると、違法薬物に手を出す人を責めることができない。最近の大麻使用罪の新設にみられる厳罰化は、全くマイナスとしか思えない。刑務所に入れば社会的なつながりが断たれ、出所後の社会復帰も容易ではない。依存症者を孤立させるより、病院や自助グループにつなげるべきだと思う。
24歳だった自分はアルコールにおぼれ、本腰を入れるはずだった漫画の仕事をすっぽかすようになった。電話が鳴っても無視した。酒を飲む金が尽きたら、死のうと決めた。
5カ月ほどして、ついに貯金がなくなった。
アパートの外で自殺を試みたが、死ねなかった。家賃を滞納しているので部屋に戻れず、なけなしの金でホテルに泊まった。そこでも死にきれなかった。その時、なぜか「お母さん、助けて」と泣いていた。
成人向け雑誌の編集者に電話して、1万円を貸してもらった。その金で新潟へと帰郷した。
ひとまず命がつながった。
▶「何で助けたんだ」 搬送された病院で母親をなじった 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(中) に続く
【月乃光司(つきの・こうじ)】心身障害者の表現イベント「こわれ者の祭典」代表
1965年、富山県生まれ。父親の転勤とともに長野県を経て幼少期に新潟市に移り住む。高校入学後、醜形恐怖症と対人恐怖症で不登校になる。大学を中退し、漫画家の道を歩んでいた24歳のとき、連続飲酒に陥ってアルコール依存症になる。自殺未遂を繰り返し、精神科病院に3回入院。27歳から酒を飲まない生活を続ける。2010年に新潟弁護士会人権賞と「第5回安吾賞」新潟市特別賞を受賞。14~16年に内閣府「アルコール健康障害関係者会議」委員を務める。著書に「窓の外は青」(新潟日報事業社)、「心晴れたり曇ったり」(同)、「人生は終わったと思っていた」(朱鷺新書)など。
【月乃光司さんインタビュー】
- 寂しさに耐えきれず、アルコールにおぼれた 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(上)
- 「何で助けたんだ」 搬送された病院で母親をなじった 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(中)
- 失敗してこそ、恥をかいてこそ仲間 生きる支えができた 「こわれ者の祭典」代表・月乃光司さん(下)
コメント
匿名さん
孤独で本当に辛かったです。
違法薬物をやらなかったのは、たまたま「つながり」が無かったからです。
ずっと孤独で生きづらくて、やっと得た理解者も無くして、どれほど辛かったでしょう。人間関係が希薄でたまたま手に入らなかった薬物…なんか複雑な思いで読ませていただきました。