僕が「名もなきアディクト」でいたい理由【前編】私立大学を中退して売人に、闇バイトも…
覚醒剤をやめて7年以上になるNPO職員のクマさん(仮名・40代男性)。
大学生のころに覚醒剤と出会い、クスリのために仕事をする日々を送っていました。
「回復のカタチは人それぞれ。僕はたまたま止まっただけ」
公開日:2024/08/14 02:00
この体験を誰かに伝えたい。話したいーー。
NPO団体職員として働くクマさん(仮名・40代男性)は、違法薬物が「止まった」とき、こんな感覚が沸き起こったという。
それからは薬物を使った経験がある人たちだけではなく、心理・福祉・法学関係者や学生などの前で自らの体験談を語り続けている。
覚醒剤をやめられなくなり、金ほしさに「闇バイト」や「売人」もした。刑務所に2回服役していたこともある。
薬物をやめ続けてから7年以上が経過した今も、自助グループなどに足を運ぶ。自らを「名もなきタダのアディクト」と称するクマさんに話を聞いた。(ライター・吉田緑)
●一般家庭に生まれたが…「家族とは?」
薬物をやめられなくなった人の中には、暴力を振るわれるなどの虐待を受けた経験のある人やさまざまな事情で大学に進学できなかった人も少なくない。
クマさんは「一般的な家庭」に生まれ、私立大学の附属高校に推薦入学後、大学に進学した。
「自助グループのミーティングで家庭環境の話が出るたびに『恵まれた環境に生まれた自分の話をしてよいのだろうか』と悩んだこともあります。でも、しんどさは人それぞれですよね。被虐待経験の分かち合いはできないかもしれませんが、僕も『家族』が何なのかはよくわかりません」
クマさんは会社員の父親と専業主婦の母親の間に生まれ、姉がひとりいる。姉は世間で「お嬢様学校」といわれる私立高校に進学し、費用がかかるゴルフ部に入部していた。いじめが原因である日から高校に行かなくなり、学校や家でガラスを割るなどして荒れていた。
当時中学生だったクマさんは、そんな姉の姿を横目で見ながら過ごすしかなかった。両親は姉に惜しみなく愛情も金も注ぐ。対して、自分は常に放っておかれている感覚だった。期末試験で一番をとっても何も言われない。姉との「不平等」を感じる日々だった。
私立大学の附属高校に入学したのは、大学進学にこだわる母親や姉の意向だった。3年間の高校生活で心を許せる友人は1人もできず、そのまま進学した大学にも「居場所」はなかった。
家族に悩みを相談できず、何事も「我慢」するしかなかった。
●「覚醒剤のことしか考えられなくなった」
大学生時代は中学の同級生と始めた麻雀にハマり、大学に行くふりをしてフリー雀荘に入り浸っていた。ある日から雀荘でアルバイトするようになり、「国立大学に通うメチャクチャ頭のいい年上の同僚男性」にある薬物をすすめられた。
「イギリスの学者も使っている」
覚醒剤だった。「ヤバそうだな」と思いつつ使ってみると、36時間起き続けることができた。「魔法のクスリだと思った」。しかし、徐々に使っていないと怠さを感じるようになった。ここから、覚醒剤を使うために仕事をする日々が始まることになる。
大学は3年目に中途退学し、雀荘のバイトも辞めた。同僚との縁が切れても覚醒剤をやめることはできなかった。派遣の仕事を始めると、給料はすべて薬物の購入資金に消えた。それでも足りずに消費者金融や闇金にも手を出した。
「覚醒剤を使うと強気になる」。薬物を使いながら仕事と「両立」することはできていたが、ついに会社でトラブルを起こして解雇された。
仕事を失って困ったのは「カネ」だった。クスリを使い続けるためには、カネを手に入れなければならないーー。もはや、そのための手段はどうでもよくなっていた。
インターネットの掲示板でみつけた携帯電話の偽契約などの「闇バイト」に手を染めた。自分の携帯電話や銀行口座の名義も売った。最終的に密売人に声をかけ、自らも「クスリの売人」となった。
しかし、そんな生活は長続きしなかった。覚醒剤の営利目的所持等で逮捕・起訴され、実刑判決が言い渡された。2008年夏から2010年冬まで刑務所に入った。「もう二度とクスリはやらない」と固く誓って社会に戻ってきた。
その決意が打ち砕かれたのは、出所から2年後のことだった。無性に覚醒剤を使いたい衝動に襲われ、あらがいきれなかった。再び薬物を使いながら仕事をする日々に戻った。
そんなある日、電車内に置き忘れられた他人の荷物が目に入った。中には運転免許証などが入っていた。過去に闇バイトなどで得た「知識」がある。これで、覚醒剤を買えるーー。
クマさんは荷物を置き引きし、再び犯罪に手を染めた。その後、詐欺などの罪で逮捕され、再び実刑判決がくだった。
●覚醒剤は「我慢するためのツール」
2016年春、社会に戻ってきたクマさんは、刑務所でできた「トモダチ」に聞いたネットワークを使って覚醒剤を手に入れた。出所からわずか3日後のことだった。その後も派遣の仕事をしながら薬物を使い続ける日々に逆戻りした。
2017年2月、仕事を辞めた。覚醒剤のために仕事をする日々に疑問を感じるとともに「もう、クスリをやめたい」と願う気持ちもあった。しかし、薬物依存症の回復支援施設に足を運ぶ気にはなれなかった。
収入のためにFXを始めたが、手持ちの15万円を一瞬で失った。パニックに陥りながらも「落ち着こう」と手元にあった覚醒剤を使いながら、これまで生きてきた道のりを振り返った。ふと、薬物は「あらゆることを我慢するためのツール」だと気づいた。
ガマンせずに感情を表現していけば、もうクスリはいらないのではないかーー。
この「気づき」を得た瞬間から、ピタリと覚醒剤が止まった。自助グループなどに出向くようになったのは、この後のことだ。
「回復のカタチは人それぞれ。僕はたまたま止まっただけです」
覚醒剤と出会ったのは、2000年代初頭のことだ。クマさんは「もし『発達障害』や『ADHD(注意欠如・多動症)』などのことばが当時社会で知られていれば、コンサータを飲んでいたかもしれない」と語る。
コンサータはADHDの治療薬に使われることがある。主成分は覚醒剤に類する薬理作用等をもつといわれている。
クマさんは覚醒剤が止まった後、自らが発達障害かもしれないと思い、成人ADHD症状の度合いを把握するための心理検査である「CARRS(Conners’ Adult ADHD Rating Scales)」を受けた。その際に「注意欠陥」「多動性」の項目が高く、ADHD度合いが高いとの結果が出たという。ADHDについて調べていく中でコンサータのことを知り、「動物的な勘で、この薬は合うかもしれないと思った」という。
「たとえ違法薬物を使っていなかったとしても生きづらさはあったので、なんらかの他の問題が起きていたと思います」
覚醒剤が止まった後も「苦難」は続いた。アルコールや人間関係など、向き合わなければならない課題は山積みだった。
それでもクスリなしで生きていくために、クマさんはどのように歩み続けたのか。そして自らを「名もなきアディクト」と称するのは、なぜなのかーー。
(続く)
コメント
私も似たような感覚でストップしてます もうすぐ10年です。
やっと学生時代の友達と向き合う覚悟ができてきたところですが
自分が自分の力で充分に立てるようになってから 向き合いたいって言って 過去を知るほとんどの知人を避けてます。
私の場合大事なことは自分の心を尊重することで まず自分と向き合うことでした。
死ぬまで気を抜けない病気だけど
くまさんのケースを読んで また励みになりました。
ありがとう。
周りから見たら恵まれた家庭。でも、自分に居所がないから、生きるのが辛かったですね。我慢強いから、周りに辛いって言えない。辛いことに気づけない。
全部思い当たります。私は夫のギャンブルの問題で、2年前に自分が自助グループにつながりました。それでも、やっと最近自分の生きにくさに気づきました。
クマさんの体験を読んで、自分も他人事ではないなと思いました。クスリのために悪事に手を染めていくところ、手に汗を握りながら拝読しました。続きを楽しみにしています。
クマさんの、「自分がどうしたいか」よりも他人の意向を優先してしまうところに深く共感しました。
クマさんが歩んだ軌跡を辿る後編、待ち遠しいです。
息子に重ねて読んだ。
自ら生きてきた道のりを振り返って、薬物は「あらゆることを我慢するためのツール」だと気づいた、ってすごいな。
「名もなきアディクト」がとても気になる。次回が楽しみ。
興味深いお話です。続きが楽しみです!