親父に別れる【7】すがる、という行為のすさまじさ
大学を卒業し、働き始めてから、わたしは父親の影を逃れた喜びで生き返ったようだった。その間、父親のギャンブル依存はますます深まった。借金は大手サラ金に始まり、その返済に困って名も聞いたことのない別のサラ金に借り、また別の個人のカネ貸しに借り……。典型的な債務地獄に落ちていた。

公開日:2026/05/17 01:00
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親父に別れる不思議なのは、消費者金融がこうしたタクシー運転手にも高利のカネを貸していたことだ。消費者金融同士の情報ネットワークで、借受人にどれくらいの債務があるのか、容易に把握していただろう。返済が不可能なのは火を見るよりも明らかなはずだ。
いまではギャンブル依存症が社会問題化して、消費者金融への規制は強まった。しかし1980年代ごろは、ゆるい審査基準で融資し、激しく過酷な取り立てで、退職や一家離散に追い込まれる債務者もあり、命に関わる事態も生じていた。
さまざまな依存症を利用して換金する〝ビジネス〟は、下火になるどころか、より一般化・普遍化している。スマートフォン、ゲーム、SNS、いずれARにVRもそうなるだろう。大人に限らない。子供こそ濃密に依存症にさせられている。
世界のほとんどの地域で経済成長が達成され、地理的なフロンティアが失われつつある。そのなかで、いまの巨大IT企業が見付け出した新しいフロンティアは、脳である。スマホをよくいじる人は、身にしみて覚えがあるはずだ。ニュースやLINEのメッセージを確認しようとしただけなのに、スマホの中にどんどん時間が「溶けて」いく。芸能・スポーツ、スキャンダル、ゴシップ、おすすめ動画、広告……。ポルノも、暴力も、そして炎上も、閲覧数や閲覧時間を稼ぐための〝ドラッグ〟である。
憎しみは増していた
それはともかく、新聞社に入って馬車馬のように働き始めたわたしは、仕事は厳しかったが、生まれて初めて味わう自由の喜びで、躍動していたように思う。決まった日に給料が入り、家賃を払って、母親に仕送りをして、あとは自由にカネを使えた。大晦日も元日も新人記者は出番だった。レトルト食品のカレーとホワイトシチューとインスタント麺とで年を越し、人工的な味付けに気持ちが悪くなるなんてこともあったが、自分のカネで空腹を満たせる幸福感にまさるものはなかった。いつも飢えていた少年時代を思えば、激務も夢のようだった。いまの「働き方改革」など、お笑いぐさである。
なにより、たびたびカネを〝借りに〟くる大柄な父親の影を見なくて済んだ。母が悲しむので、年に1度や2度は実家に帰った。父とは、目も合わせなかった。中学・高校で貯金を取り上げられ、顔を蹴られたりした男への憎しみは、年とともにむしろ増していた。もう、あんなことはさせない。
父も、私を無視していた。ふと、だれにともなく、わたしの仕事にいやみを言うくらいだった。新聞記者なんて政治家とつるんでろくなもんじゃないとか、忙しぶっていやがる、自分のことをえらいと思っているんだろう。さも憎々しげに、とげのある言葉を吐いていた。わたしは、相手にもしない。こんな男、見下げ果てていた。
整理屋に手を出した
そりの合わないわたしには、さすがに言いにくかったからだろう。この時期は、一つ年上の兄から、その場しのぎのカネを借りていたことがあとで分かった。兄から百万円単位の借財をし、「これですべて、身ぎれいになる」とうそをついた。借金先はほかにもあった。さすがに全部を言うのを恥じて、黙っていたらしい。そうしてかえって傷口を大きくした。この間、兄は友人の家で飯を食わせてもらっていたのだと、のちにわたしに言った。
こんなふうだから、逃げるように家を出たわたしにも、やがて追っ手はやってきた。会社に入って5年目のことだった。いよいよ困ったのだろう、ふだんは口を利かないわたしにも電話が来た。聞けば、あちこちにある借金を一本化し、まとめてくれる貸し手が現れた。だから、その手数料を貸してほしいという。さすがに申し訳なさそうな声を出してはいたが、さも耳寄りな話を聞いたとばかりに、わたしの機嫌を取るかのように話した。
なにを馬鹿な。それこそまさしく、整理屋ではないか。
蛇の道は蛇。筋のよくない貸し手から、父の借金情報がダダ漏れになっていた。「このままでは自己破産になる。自己破産は人間ではない」とあちらから声をかけてきたらしい。しかし、一本化で楽になるどころではない。多額の手数料と、高利と、暴力的な取り立てで人を追い込む。これこそ多重債務者の終着駅だ。整理屋こそ、「人間ではなくなる」地獄の門前に立つ獄卒だ。
こんなことは、あんたが嫌いな新聞に散々書かれていることではないか。ちょっと読めば分かること。常識の範疇に存する。ギャンブル、クレサラ、借金苦、整理屋、買取屋、一家離散、自殺、強盗……。もはや時事用語となっていて、新聞紙面の見出しに踊っていたではないか。そんなことさえ、知らないのか。
これが、わたしにとってもっともやりきれない愚かさだった。いまならば、「自己責任」という、新自由主義の酷薄なひとことで片付けられてしまうだろう。だが、愚かであるというただそれだけで、人を食い物にする企業・社会・世界に対する、唇が震えるような憎悪が、わたしの体内にはいまもある。母も、愚かで、弱い人間だった。雪深い田舎の育ちで中学しか出ておらず、世間を知らず、訪問販売のセールスマンにだまされ、わたしが契約破棄に走ったこともある。そもそも父と結婚したのだって、愚かだったからだろう。
「弱さ」のすさまじさ
大柄で、わたしには威嚇的だった父親のなかに、初めて弱い男を見た気がした。若いころからいきがって、渋谷の繁華街で親の稼いだカネで遊んでいた甘やかされた次男坊。やくざとのつきあいも少しはあったくせに、肝腎なことは知らない、知ろうともしない。どぶを流れる芥(あくた)のような、その場まかせの生き方。その場、その時、利用できる家族にすがって生きる男。祖父母も、母も、父を憎みきってはいなかったようだった。むしろ、かわいかったのではないか。
わたしは、家族というものに親愛を感じたことはない。ときに他人が語る家族の情愛の美しさに、一人の人間を食いつぶす修羅を思い描くのみだ。すがる、という行為の弱さとすさまじい力。一方、尽くすことの反対給付は何だろう。無意識にうけとり続けたものがあったのだろうか。
これでいよいよ終わりである。数年だけ父の影を忘れていられたわたしも、覚悟を決めるしかなかった。
弁護士を立て、債務を整理することにした。
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