幼い頃は母親の相談相手という忘れていた記憶 遺書を書いたことも〜存在を消したくなる夜を超えて(中)
小林さんがアルコール依存症になった原点は幼い頃の家族関係にあるのだろうか。

公開日:2026/04/28 22:00
小林さんは、お酒がないときは正義感が強かった。お酒に飲まれてしまったのは、強い信念の裏返しだったのかもしれない。
「こうあるべきだという信念がありました。駅の階段で『上り』って書いてあるのを僕は上って、逆方向に下ってくる人にバンバンぶつかったりしていました。シラフでやっていましたね。それに、優先席付近で、『携帯電話禁止』って書いてあるのに使っていたら文句を言ったりしていましたね。自分自身の正義感が中心にありました。それが酔っ払うと、さらに激しくなる時もあるのですが、すごくだらしなくなれたりしました。自分がそのだらしない人間になれる。でも、だらしなくなれるのは、きっと僕の中で楽だったんだな。今思うと、だらしなくなりたかったんだな」
小学生の頃は母親の相談相手だった
こうした背景には家族関係が影響しているように、小林さんは振り返る。
「長男なんですけど、弟が2人います。母親はモラリストで道徳感が強い人でした。家族仲良くとか、長男らしくとかは言われていました。父親は仕事でいないことが多く、あまり記憶がない。父親の代わりに母親の愚痴はよく聞いていたんです。母親と交換日記をしていたときもありました。洗濯物を取り込むときなどに『弟がこうだったよ』などと話していました。『お兄ちゃん、しっかりしてくれてありがとう』などと言われていました。母親とか近所の大人に気に入られる子どもをずっとやっていたと思います。それが当たり前でした。今でも周りの目を気にします」
小学生の頃から、事実上、母親の相談相手だった。こうした記憶はずっと忘れていたというが、断酒会やAA(アルコホーリック・アノニマス)の活動を通じて思い出した。
30代後半、小林さんはついに「自分はどこか壊れている」と認め、精神科のクリニックを受診する。最初に訪れた病院で告げられたのは「うつ病」という診断だった。別の病院では「双極性障害」とも言われた。
「医者には『酒は少し控えてください』と言われる程度でしたが、気分の浮き沈みを抑える薬や、眠るための薬が次々と処方された。私はそれを、酒で流し込みました。薬と酒。その相乗効果で、私の意識はますます現実から遠のいていきました」

クリニックに通うが、遺書を書く夜も「死んで楽になりたい」
薬を酒で飲む行為は、脳に致命的なダメージを与えるだけでなく、感情の制御を極端に不安定にさせる。小林さんが、処方された精神安定剤をアルコールでブーストさせ、一時の安らぎを得ては、その後に訪れる激しい落ち込みに耐えるという、最悪のサイクルを繰り返した。クリニックも変更した。
40歳になり、生活は破綻した。小林さんを待っていたのは、何もすることのない、酒を飲むためだけの時間だった。朝起きて震える手で冷蔵庫を開け、喉に酒を流し込む。
「死んで楽になりたいと思い、何度も遺書を書きました。家族への申し訳なさと、自分自身の情けなさと。それから大量の睡眠薬や安定剤を、酒と一緒に飲み込みました。でも、死ねないんです。翌朝、ひどい不快感とともに目が覚めてしまう。真っ先に思うのは『また生きなきゃいけないのか』という絶望でした」
血まみれの救急搬送
そんな荒廃した生活の中で、決定的な事件が起こる。40代前半のある日、泥酔した小林さんは自宅の部屋で足をもつれさせ、激しく転倒した。顔面を強く打ち、口から血を流していた。頭でラックの角にぶつけて、口を切ったのだ。駆けつけた家族が救急車を呼んだ。
「このときは死のうとしたのではなく、自傷行為の延長のようなものでした」

その時、彼の心の奥底で眠っていた「生きたい」という本能が、わずかに火を灯した。自傷を繰り返し、死を願っていたはずの男が、初めて死への「恐怖」を実感した。
「この頃、自傷行為が激しくなっていたんです。といってもカッターでただ傷つけているような感じです。そのとき、『もしかしたら死んじゃうかも?』と思っていたんです。でも、『もうちょっと、生きてみたい』と思ったんです。だからクリニックに通院し、ナイトケアにも通い、酒をやめようと思っていたんですが、やめられなかった。そのため『入院させてください』と言ったんです」
小林さんは自ら、日本でのアルコール関連の健康問題に関する治療で名高い、久里浜医療センターへ入院することになった。
(つづく)
